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通説と史実が大きく違う戦国武将ワースト5
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Introduce Japan's "Sengoku period" history carefully
Күн бұрын
Пікірлер: 262
@Dr.SF.
Жыл бұрын
「史実」と表現していますけど、同じ事件でも古文書によって記述が異なる事は珍しくないという事にも触れてほしかったですね。 例えば「比叡山焼き討ち事件」です。 「信長公記」をはじめとして織田軍による大量虐殺があったという記録は多いのですが、「当時は延暦寺の僧侶は比叡山を降りて平地に住んでおり、比叡山には誰も住んでいなかった」という内容の古文書もあり、昭和後期(確か1981年)に比叡山の発掘調査が行われ、梁や柱と思われる焼けた木材が出土したものの人骨のかけらも出土しなかった事から「焼き討ちは行われたが無人の伽藍に対してであり、大量虐殺は無かった」という学説も有力になりつつあります。 そういう学説はシカトですか?
@rosan6179
Жыл бұрын
清正は武功よりも築城や国人衆の力が強く治めにくい肥後を統治するなど、政治力の方に優れている。
@q93gvy
11 ай бұрын
これが史実ならば、この動画の元ソースはどこで知ったのでしょうか?教えて欲しいですね。
@user-pd7vd9gm2q
Жыл бұрын
史実にせよ通説にせよ島津は結局前に退却してるというヤバさ
@user-ig2hp5kh7w
Жыл бұрын
結局はやったんかいと笑ってしまったw
@user-fp9ym8mo6j
Жыл бұрын
後ろに退けないから前にでるしかねぇ! 絶望的だっただろうな😂 それでも逃げおおせるのはさすが
@zin7557
11 ай бұрын
これは、捨て奸という島津家の伝統の戦法の一つで、戦場の状況で偶然になったというより、その作戦を使ったということではないでしょうか?
@user-zq5ur2bj1v
4 ай бұрын
ちなみに島津義弘が伏見城に入ろうとしたが鳥居元忠に拒絶されたという話も江戸時代の史料にしか書いてない。 島津義弘は自分の意志で伏見城に入るのがヤバイと察知して入らなかった。 ちなみに当初は形の上では豊臣秀頼の命令である「上杉討伐令」の総大将だった家康に従って、伏見城入城を割り当てられた時に 島津義弘は「家康殿は私に楽な任務をくれた。帰りには子供たちには上方のおもちゃを買って帰っててやるからな」と能天気な手紙を国元に送ったが、時をおいた二通目に「伏見城に入ったら攻められるらしい怖くて仕方がなく入りたくない」と恐れおののく手紙を送ってる。
@5150_EVH
4 ай бұрын
@@user-zq5ur2bj1v 蓋を開けてみれば そんなもんですな そういう人間臭さこそ魅力になりそうなもんですが 頭の硬い人々は神格化されたヒーロー像を壊されたくない 子供のような心をもった人々なのでしょう
@nabushima149
Жыл бұрын
逆になりますが、石田三成は官僚というイメージが高いですが、実際は勇猛であったようです。三成は大谷吉継とともに「賤ケ岳先懸け衆」と評され、「一柳家記」によると「その時の先懸け衆は加藤清正、大谷吉継、石田三成と・・」。 また三成は豊臣秀次を切腹に追い込んだ首謀者とされますが、実際は濡れ衣であったようです。三成は秀次の遺臣を多く召し抱えており、「若江八人衆」の舞兵庫を始め秀次旧臣が、三成のために関ヶ原の戦いで大奮戦する訳がありませんから。
@masatokawahara7923
Жыл бұрын
秀次は秀吉に抗議の意味での自害(秀吉の命令ではない)、三成は混乱拡大を避けるため「謀反」として妻子は処刑したものの、残された遺臣たちを自分で召し抱えた、ということのようですね。
@mnagashima9604
Жыл бұрын
ちょっと今回のはいただけないな 通説と違う説を史実と言い切るのはいかがなものかと
@mouse_eaters_channel
11 ай бұрын
麒麟がくる、で明智は美化され過ぎてた感は拭えないですよね。 それでも名君として讃えている場所もあるし、お祭りとかお墓も残されてますし、 当時の人の倫理観を考えれば、残酷な所業は武士なら多かれ少なかれやってることなのかな。
@user-zh5pi4gn9j
Жыл бұрын
これはひどい 歴史解説というより揚げ足取りの方法論と言うべきですな(笑)
@745yop6
10 ай бұрын
信長は、信秀から家督を相続した時点では約28万石、最盛期には日本全国の4割に当たる約787万石の領地を支配していた。これでたいしたことなかった、ということはありえない。
@takestn5805
Жыл бұрын
事績はともかく、能力や心情を断定調で語るのはいかがかと。
@sebastianarsenal
Жыл бұрын
途中までは我慢してましたが、信長の所で断念しました。あまりにも偏った主張ですね。逆張りしすぎて見るに耐えません。
@katsujp
11 ай бұрын
どうも諸説ある歴史を言い切ってしまう文体で説明するチャンネルは信用し辛い
@user-pk3qd1he2q
10 ай бұрын
同じく。確かに江戸時代ごろに言い伝えられたとされる軍記物のイメージは疑わしいが、書状があるからこちらが真実というような断定口調はいかがかと。
@masao750
Жыл бұрын
秀吉は清正に主計の守の官職名を与えた。計数に明るく文官の才があったから。 光秀は比叡山で修行もしていたから、内部の僧の腐敗ぶりに詳しく比叡山を憎んでいた。
@user-gm7kw3xs4n
Жыл бұрын
明智光秀は酷い言われようだね。当時の比叡山は今とは違い、天台座主が天皇の弟で政治とは無関係とは言えないし、僧侶たちの堕落も酷かった。それにせめて中立を保てという信長の威嚇に対しても無視している。 八上城の件でも、自分が助かりたいから城主を撃つ兵を信頼できるのか?っていう点もある。 とにかく現代と違う常識のことを現代の常識で考えてる気がする。
@user-xb2qx4je6x
Жыл бұрын
信長の強みは、いいところはしっかり取り込み、情報を何より大事にしてたとこ。 確かに勝率はよくないかもしれないが、大事な戦はしっかり勝ってるとこだろうな。
@user-cf2zi4lt5c
10 ай бұрын
負けるであろう戦いの見切りの速さとそのフォローの適切さはピカ一 そして負けてはならない決戦に於いてその下準備も万全 大戦略レベルで勝ってるので戦術レベルでの勝ち負けが大勢に響かないのが信長さん 逆に信玄さんは一つの戦いに固執しすぎて勝っても負けても大ダメージとか結構ある 国人衆に弱みを見せたら寝首を搔かれかねない立場がそうさせるのだろうけど 勝率でその勢力の浮き沈みは測れないってこった
@user-rh7nb5dq4d
7 ай бұрын
あと戦争に経済を持ち込んだのも大きいと思います。
@jsetagaya1482
4 ай бұрын
負けても被害を最小限に抑えられるのが信長の強みかな。最速で復帰できるのは英雄たる所以
@user-pp6oo5sf8p
Жыл бұрын
信長の評価が異様に辛いのはどうなんだろ。 革新的だと言われてた各種政策に関して先人がいたのは確かなんだけど、それを採用して実施するのは凡人には難しい。当時の他の大名や現代の政治家を見ればそれがよく分かる。 戦に関して信玄・謙信と比べているけど、両名も負け知らずではない。 一部の失敗を過剰に取り上げて成果を消し去ろうとしているように見える。 通説と史実の乖離程度の解説なら良かったのにね。
@user-zf8vc4ly2z
Жыл бұрын
それが、、、信長が上洛する前からの経緯と、その後が結構グダグダであるのは事実で、あまり格好良くはないのです。最初に上洛しようとした時は美濃の斎藤氏と河野島の戦いで大敗を喫していますし、義昭を奉じて上洛した後も、各地で窮地に陥り義昭に泣きつく有様で、天下布武とか言いながらさっぱりだったのです。とても天下統一どころの話ではなかったのです。しかしながら不屈の闘志だけは認めますがね。他にもいろいろあるのですが一つだけ言うと楽市楽座の楽市は他の大名もやっていますが、楽座というのはむしろ座を保護する政策だったと言えます。それは通説とは逆なのです。
@masatokawahara7923
Жыл бұрын
三好氏や、その前の大内氏とか、一時は畿内を掌握できても長くは維持できないような諸勢力を、最終的にまとめ上げた信長の戦略・政治手腕は特筆すべきでしょう。上杉謙信などは、十数年関東出兵を繰り返し、最終的に何も得られずに終わるとか、戦略家としては、かなり疑問です(武人としては最強クラスですが)
@user-zf8vc4ly2z
Жыл бұрын
信長の良いところは諦めの悪さで、どんな苦境に陥っても決して諦めずに活路を開くことでしょうね。だから何度もピンチになってもあらゆる手段を用いて切り抜けています。そこは評価できますがそのように記述されているのは見たことないです。革新児だけは間違いですので訂正して欲しいです。
@user-ry6nl4kk3p
Жыл бұрын
信長の前任者と言える三好長慶は、どちらかというと足利政権を有名無実化してできれば廃して、自前の政権を作るつもりだったようですが、それを実現する前に自分が死んでしまったのと、その後継者の三好義継はそれを実現する力量がなかったのと、三好三人衆が足利義輝を殺害してしまったために、三好政権の求心力がなくなってしまったのが命取りだったと言えるでしょう。その上に松永久秀、三好義継が三好三人衆と対立することになり、松永らが信長に援けを求めたために信長が上洛する大義名分が発生したので、三好三人衆が敗退してしまい、三好政権が完全に崩壊してしまったということになります。畿内を治めるのは極めて難しく、信長も各地の反乱や、三好三人衆の反抗やら、大変苦労をしていて、朝倉氏、浅井氏との抗争も加わってグダグダだったのですが、最終的には足利義昭を追放することになってしまい、その後の展開が見えなくなってしまったと思えます。信長はどう思っていたのかわからないですが、たぶんですがこの時点で虚無感しかなかったでしょうね。自分が苦労して復活させた足利政権を自分で痛したわけで朝廷との交渉も自分でやらなければいけないのに、そういうのは最も嫌な仕事ですからね。信長が最初に思っていたのとは全く違う展開になったのですが、自分は右大臣になっただけで、将軍とか関白とかにもならずに、どうするつもりだったのか。しかし天下も目前になっての明智光秀の裏切りは、たぶんですが四国の長宗我部氏との交渉がうまくできていたのに、ひっくり返され、羽柴秀吉との出世争いに敗れて、前途を悲観してというところかもしれませんね。
@user-zq5ur2bj1v
4 ай бұрын
まあ、そうですね。 「最初に方法を考え出した人物」が偉いのではなく「その方法を使って成功した人物が偉い」。 例をいくつか挙げると 「ファスナーを最初に考えた男はそれを有効に生かせず一生貧乏になったがファスナーをジーパンに付ける事を思いついた男は大富豪になった」。 「アクロイド殺しという作品で叙述トリックを使ったアガサ・クリスティは大きな名声を得たが、同様の叙述トリックは先例が数例あったがそちらの作品は全く評価されなかった」。 成功者こそが評価されるべきものなのです。 信長の施策が信長が最初ではなかったにしろ成功者は信長ですし、
@user-wl7gu1gz7s
Жыл бұрын
なんか最近は逆張りで信長を下げる人が多いね イメージ通りの人物ではなくても普通に優秀でしょ
@user-ft3uh7hb3x
10 ай бұрын
信長を下げているわけではないでしょ 寧ろ印象良くなってる 明智光秀に関してはイメージダウンだが
@user-qg9jk7vx5m
10 ай бұрын
増えたり減ったりするだろ見る角度や立ち位置で違うし
@user-se1jd2bd6c
10 ай бұрын
@@user-ft3uh7hb3x 最近読んだ漫画になりますが、へうげもの、信長を56した男、信長のシェフでだいぶ印象が変わりますね。 個人的には戦国小町苦労譚の世界が好きですがw
@osamu0727
9 ай бұрын
逆張りする奴を優秀博識と認識する奴らが多いからな。
@5150_EVH
4 ай бұрын
そうそう 先代の金づるを受け継げるのも 50近くまで 数々の負け戦から逃げ帰り成功することも誰にでもできることではない それなりに優秀 また 実は オヤジギャグが大好きなチビなおじさんだったなんて そういう一面も持ち合わせていたなんて お茶目でかわいいじゃん
@setugetuka660
Жыл бұрын
ダメだこれは、本人の勝手なイメージで作られてるネタ切れ極まれり。
@user-iw5vw3xz3m
Жыл бұрын
※諸説あります。
@user-rh7nb5dq4d
7 ай бұрын
比叡山焼き討ちに関しては発掘調査の結果焼かれたのは根本中堂だけで虐殺も無かったようです。 実際人骨とか出ておらず、墓や供養塔も今の時点では存在が確認されてないようです。 後世の人が何の確証も無いまま立てたのはあるかも知れませんが。
@user-en6nc1nj8u
6 күн бұрын
実際は軍事力を誇示するためでしょう。実際は元天台座主だった足利6代将軍足利義教が行った比叡山焼き討ちの方が残虐だったようですね。何しろ天台座主だった方だから当時の叡山の実態はよくわかっていたでしょうからね。
@user-hq8sc1cj6r
Жыл бұрын
信長はなんだかんだ総合力で勝ったから、いろんな敵を駆逐できたんじゃないかな? よくある気を引きたいから逆張りみたいな説は本当に頭に来る 人の受け売りだろうが、他の人が先にとかじゃなく優れていると思ったらどんどん取り入れる そういう取捨選択の末 結果がでる選択してるのがすごい 他もネタ切れで苦しい事言ってつまらなくなって見なくなったけど くだらない下げするならみなくなりますよ
@guriko3108
10 ай бұрын
同意します。後世から見れば何が好手で何が悪手か研究結果でわかりますが、信長が非凡であったのは、それがまだわからない時代に正しく選択し、結果を出し続けたことだと思います。
@rouisianaboy
Жыл бұрын
最近はかなり見直されて来ているようですが、【北条早雲】=素性の知れない素浪人からの成り上がり、というのが、私の子供の頃の歴史物語では定番でした。あと、【斎藤道三】の「国盗り」も、実は父子二代がかりで、油商人だったのは道三の父だった、というのが、最近では有力なようです。
@user-fb6ip4bf4u
6 ай бұрын
北条早雲はYUKIMURAチャンネルで詳しい動画があります
@user-xm3jm7mk8m
11 ай бұрын
信長好きじゃないけど長篠の戦いの考察は雑すぎ! 武田勝頼は破れたとはいえ戦上手の名将。信長は勝つ為にあらゆる手を打って決戦に勝利したはず。多くの大名を駆逐し戦国を統一し始め版図を拡大した能力は尋常じゃない
@user-xm3jm7mk8m
10 ай бұрын
勝頼が名将だったのは今は明白。長篠は単純に突撃し敗戦した説も今は疑問視されている。ちなみに関ヶ原も通説定説が近年覆されている。
@ichiyann1802
Жыл бұрын
事実誤認が多い動画だな。
@user-nx9cb5ql7z
Жыл бұрын
と、上から目線で言うとりますがー
@fantomugodJapan
Жыл бұрын
上から言う時はそれなりの知識を身に付けなさい
@user-ch1fy9tk5p
Жыл бұрын
上から目線で言うなら、まずはあんたが具体的にコメントで説明したらどうよ?誤認とか否定するなら、それが筋じゃねえのか?
@user-xq6sh7gd5u
11 ай бұрын
通説と最も大きく異なるのは、北条早雲の出自ではないだろうか
@user-zd6fo3rx8s
Жыл бұрын
加藤清正の最大の功績は熊本城を後の世に残してくれたこと
@user-sz7so6oq4f
10 ай бұрын
信長はかなり運が良かった。それに助けられた面がかなり大きいが、チャンスに対し事前にあらゆる準備をし確実に動き、動く時も大将自ら全力で動いてる。能力は天才レベルではないが行動力は天下一だったと思う。
@user-tb5ul4ee7g
Жыл бұрын
信長の凄い所は「味方への補給を途絶えさせたことが一度も無かった」とゆう点。これ地味だけど恐ろしいことですよ。 相手にしたら「織田軍は物資が決して尽きない」と同じことですから。 秀忠が関ケ原遅参の件で最終的に許されたのは、榊原康政の説得もありますが「信之嘆願事件」で真田親子を許したのもあったりします。 「地産の原因である「敵の親子を許した」のに、「後継者は許さない!」」は内部的にも外部的に流石に、ねぇ・・・
@oosakabakuhu
Жыл бұрын
忠勝「お許し頂かねば!!この平八郎!婿殿と共に、沼田城に籠り、城を枕に殿と一戦つかまつる!!!!」ってのが史実であってほしいww。
@kamirubidan2681
Жыл бұрын
@@oosakabakuhu真田太平記やな。あのシーン良かったよなw
@user-li6nc6vn4v
Жыл бұрын
「補給を断たれた事が一度もない」 これだけでも信長は優秀すぎますね。
@user-ms7tn8ek2k
Жыл бұрын
信長って、『付加価値』(茶器)を浸透させたし、『兵站』の重要性を知らしめた傑物中の傑物だと思います。
@user-tm5kh2cw6e
11 ай бұрын
信長が兵站やそれを支える経済(特に商業)を重視したのは確かですし それが強みだったのは事実でしょう。 特に鉄砲に関しては弾の原料の鉛(他の大名は銅銭を溶かして作ったりもしていた)や火薬は 輸入が主体の貴重品で堺をいち早く押さえたからこそそれらを調達できたという面もあるそうです。 長篠の戦いでは武田軍も鉄砲は多数用意していたが織田・徳川軍よりも早く弾切れを起こしてしまった上に 相手も弾切れを起こすだろうと思っていたら大量に用意していてあてが外れたのも敗北の一因らしいですね (それでも織田・徳川軍も通説のような一方的な勝利ではなくかなり危うかったようですが)。 あと、織田軍は桶狭間以外は常に相手より多くの軍勢を揃えていたのも大きかったようです。
@MrTorazoh
Жыл бұрын
本当はもっとすごかった武将も紹介してください!!
@user-en4ue8eg3w
11 ай бұрын
通説に対する新説を取り上げるのは面いのですが。第五位の三人ついては他の方も言ってますがワーストと言うのには無理があります。島津については元々、東軍の伏見城守備に加わる予定でしたが徳川方の連絡の不備も重なってしまい入城できずやむなく西軍に参加した経緯もあります。一説には家康自身が島津軍は素通りさせるつもりだったが忠勝や井伊直政らを制止できなかったとも言われています。光秀の部分は味方には優しく、敵には苛烈なだけでしょう。撫で斬りは当時としては後顧の憂いを断つ一般的な戦略ですし力押しでは無く謀略を持って落城させただけの話。また八上城攻めによって他の反抗勢力の意思をくじき懐柔しやすくする狙いもあったのでは。信長の部分、戦前までの評価は、信玄謙信は強い武将、信長は(天皇家を助けた)偉い武将という物でしたから。連戦連勝のイメージは完全に後世の小説などで作られてしまったものですね。確かに手取川のや三方ヶ原などの局地的な戦では信玄謙信に破れましたが最終的には上杉に対しては越中まで攻め取り、武田に対しては滅亡に追い込んでいるので(次代の勝頼、景勝の話になりますが)常設軍の整備、軍団制の採用と、戦略的には優れていたと言っても良いのではないでしょうか。
@034E80E522
Жыл бұрын
楽市楽座は六角定頼だったような
@user-zj9qz3tl6y
10 ай бұрын
蔚山城の戦いで大軍相手に、籠城して凌いでるのも随分凄いんですけどね。
@user-zf8vc4ly2z
Жыл бұрын
関ヶ原の件は、新説を事実として紹介していますが、これが事実と決まった訳ではないでしょう。大体、大谷勢が敵方に背を向けて布陣する訳ないと思いますが。せいぜい通説より早めに裏切ったという程度の話ではないかと。
@user-ml5px7br2j
Жыл бұрын
秀吉亡き後建設的に乗っ取りたい家康が大坂城を不届き者に奪われないよう予め三成と戦仕立てにしたと考えれば毛利や小早川が最初から布陣したまま動かないのも合点がいきます
@user-zf8vc4ly2z
Жыл бұрын
そもそも西軍が大垣城を出てきたのも、小早川勢が敵方となっている可能性が高ければあり得ないでしょう。南宮山の西軍は東軍が大垣城を包囲攻撃しようとしたらその背後を襲うための部隊と考えるのが妥当で、むしろ西軍は籠城し続けていた方が良かったのです。家康は大垣城を攻めるつもりがなかったので、むしろ西軍が城を出てくれた方が都合が良かったのです。そうなると最初から小早川勢が東軍だったとすると、西軍が出てくれるわけはなく、通説の流れの方が納得出来るのです。
@user-zf8vc4ly2z
Жыл бұрын
あと、島津勢の扱いですが、彼らは1,500程度と少数ですが、極めて精強なので三成も大きな期待を持っていたはずで、何もせずに味方が敗走して取り残されたとは考え難いでしょう。むしろ最初から最後まで戦っていたので背後に逃げることができなくなり、敵中突破を図ったというだけのことでしょう。どうも新説は前後関係を考えていないのではないかと思うのですが。また、西軍諸将を馬鹿にしているとしか思えないのですね。
@pianochandaisuki
Жыл бұрын
白峰旬信者も大概にしてもらいたい😊
@user-zf8vc4ly2z
Жыл бұрын
小早川秀秋勢に対して徳川方が鉄砲で催促したと言う話は位置関係から否定できるのは最初から分かり切っています。おそらくですが、小早川勢は1番良いタイミングで裏切るつもりでいたと思うので、あえて最初から裏切ると言う選択はしないでしょう。もし最初から裏切ったとすると、脇坂、朽木、小川、赤座らが、最初から裏切らないとおかしいのですが、小川、赤座が改易、朽木が減封という処分は不公平すぎて不可解です。また戦後に佐和山城攻めに彼ら裏切り勢を使っているのも、これはどちらかと言うと懲罰的な扱いなので、最初から西軍についたとすればちょっとどうかなと思います。まあ、家康がこの時点で誰もがおかしいと思うような処分をする立場にはないので小川、赤座があらかじめ裏切ることを通達していない、形勢を見て裏切ったから改易だが命までは取らないよという処分であれば、不公平とは思わないでしょう。となると、やはり通説通りの流れに多少修正を加える程度が真実ではないかと思うのですが。あくまでも心理的な考察を加えての推測です。
@user-hx7xv7nu3r
10 ай бұрын
史実で創作でも覚悟決めるとやべぇ行動取る薩摩隼人なのは変わらんか…あまり追撃されなかったとはいえ豊久失う程の追撃受けて島津の柱である島津惟新(義弘)が逃げられたのが凄い。
@famy2989
10 ай бұрын
確かに結果的に見ると結局正面突破して逃げ切れてるし凄いことには変わりないよね
@user-zu8sx3us4z
11 ай бұрын
少なくとも信長が尾張一国からあそこまで領地を広げた人間が大したことないと言える理由が説明を受けても分からない
@ren.k3874
Жыл бұрын
ちょっと信長を貶めすぎだな。物事にはスポットライトの当て方でどのようにでも評価することができる。先駆者か否か、保守的か革新的かなどの評価は歴史家の自己満足でしかなく、理論だけでは現実を治めることなどできん。 また信玄や謙信と比較すると戦上手とは言えないかも知れんが、戦には様々な要素があり絶対的な強者など存在せん。信長の長所は尾張の弱卒を最大限戦力にするところであったり、兵力の大量動員力であったり、積極的な武器の導入、勝負所の見極めだろうと思う。
@user-kn1fx6bg6i
11 ай бұрын
えぇっと信長政権のとった政策を手本に豊臣政権、徳川政権があるんだが 実際問題、信長の行った政策で特筆すべきは、徴税権の整理だろう。 貴族寺社仏閣などの荘園領主、在地領主、地頭、守護大名勢力 平安時代から鎌倉室町時代に至る経緯で生じた土地支配利権の整理、領民(村)は誰にどれだけ年貢を納めるのか?複雑化しており 信長は、これを整理し始める、比叡山の抵抗の裏にはこれがあるし、一向一揆も加賀とかだと一向宗の利権の世襲があり、一向宗内でこの争いが生じている。 一度、織田領に編入されれば、領民たちはそれまでの抵抗がうその様に鎮まる。 貫高から石高への移行も、太閤検地とセットだが、太閤検地で豊臣政権は激しいの民一揆の抵抗にあっている、そして、各地で虐殺を行っている。 これを信長時代に出来たかと言うと、農民一揆を引き起こす時点で出来ないし そもそも、武士たちの地縁を断ち切り、在地の城館を焼き払い、単身赴任ではなく、一族で城下に住むように命じ徹底したのは信長である。(結果、出陣による人口増減が低下し、出陣中でも城下の経済が回るようにした) 他の戦国大名でこれを徹底した人物はいない。これが達成していないと石高制への移行も厳しい。
@tabipero6141
Жыл бұрын
動画のインパクトとしてしょうがないのかもしれませんが、あまりに一部の失態を大きくあげつらう感じになってませんか? 例として、信長がかなり手痛い敗戦を何度もしているのも事実ですが、逆にそういった度重なる逆境を跳ね返して大成したのには必ず理由があるはずです。 (外交・内政・軍事・組織運営のような才を抜きにしても、並みの人間ならまず精神状態がもたないでしょう) 新説が全て正しいと確定しているわけでもありませんし、いままでこういわれてたけど実はちょっと違うかも、ぐらいの語り口の方が好感がもてます。
@user-tx6xc4om6n
Жыл бұрын
清正は近年の研究により、そろばん感覚に優れていたと云われていますね。その証拠に主計頭に任じられたり、討伐した大名家の残務整理などを任されていますね。秀吉は、三成は官房長官、清正は財務大臣として育てたかったんじゃないでしょうか。
@user-tc4ck5kn4n
Жыл бұрын
伊達政宗とかまさにこれ あとは島津義弘以外納得かな
@user-ix3gh3dh8i
Жыл бұрын
島津も関ヶ原の退き口とか逃亡成功した以外ほぼファンタジーみたいなもんだからなあ 他家の史料みると 「島津は旗隠してコソコソ逃げただけで何もしてない」 「本多忠勝隊に奇襲仕掛けるも返り討ちにされ総崩れ」 とかボロクソ貶されてる
@user-up9vb9jm6t
10 ай бұрын
@@user-ix3gh3dh8i他家の史料って、何家のことを言ってんの?
@user-ix3gh3dh8i
10 ай бұрын
@@user-up9vb9jm6t 毛利家文書にある吉川広家が本国に送った書状に記載してありますけど何か?
@user-up9vb9jm6t
10 ай бұрын
@@user-ix3gh3dh8i この前、毛利博物館に行ってみたけど、そんなの無かったぞ。その書状、どこに所蔵されてんの?そもそも、そんなものが、あるの?
@user-ix3gh3dh8i
7 ай бұрын
@@user-vf7np4qq2s 本多忠勝落馬に関しては薩摩旧記が元ネタね つまり君が言ってる自家の史料だから話大分盛られてる可能性あって信憑性怪しい訳だが ちなみには 「島津軍は本多軍に攻撃仕掛けるも返り討ちに遭い総崩れとなった」 の元ネタは信長公記で有名な太田牛一の太田和泉守記ね 薩摩旧記と違って中立の立場
@user-vi9vv2iu5z
11 ай бұрын
加藤清正は財務官僚だった。石田三成とはそれほど仲が悪くは無かったらしい。
@kiyotei2000
Жыл бұрын
信長は大したことはない。 と言うのは語弊がありすぎる。 武田、上杉が好きなんでしょうが、デタラメな主観で歴史を見過ぎですね。 ええ、歴史ファンは怒りますよ(笑) 私もチャンネルを登録を解除しました🤗
@user-ng6rf5nk2m
Жыл бұрын
信長はなんかジェラシーたっぷりやな。
@user-kz9th1we3x
10 ай бұрын
コメ欄 ノッブファンお怒りで草ww 自分的にはイメージどおりだったけどなぁ、強い相手との闘いは避け気味だった上、勝率も低いし。 武田信玄に全戦全敗しとるしなww 桶狭間は、今川が隊列を伸ばし過ぎていた上、豪雨または雹(「石水混じり」)で馬の足音が消えたのは大きかった! 総合して、攻める相手を選んだりタイミング計るのが上手かった印象。 ずるいようだけど、一族もろとも生きるか死ぬかが決まるような環境ではった者が正義だから、そこを高く評価してあげたい。
@user-ix3gh3dh8i
7 ай бұрын
強い相手を避けて勝てる時に勝負仕掛けるのなんて大将として当たり前だしな 別にそれをdisなんて思ったことないな 信長貶されたとか思ってキレてる輩は戦をスポーツの試合と勘違いしてんのかね?w
@nomoney8296
Жыл бұрын
信長の戦闘の強みは生まれ持った強運もあるのだろうけど大事な戦での勝負強さやその勝利を最大限に活かせる手腕でそこが自分より戦が上手い奴等より領土を拡大出来た理由だと思う
@shigenaga5014
10 ай бұрын
大変興味深い考察の動画でした。
@TheMeganeyan
10 ай бұрын
信長の天下統一は「京=天」を中心としたエリアの安泰を指しているんだとか 信長の居る尾張は常に紛争に晒されていた為、良い経済を築くに京を中心として平和な街作りをしたいと考えており、家康の江戸の街作りのモデルになっていたかもしれないと思います。
@user-vr1vb3rm9r
7 ай бұрын
全てに言える事ですが、人物論評は論評者感想と言う事であると改めて考え方の差を感じます。 個人的な考え方ですが人は本人すら理解出来ないものかと、本人が考えて発信する内容と受け取る方に差がでます。 場合によっては本人すら理解して無い行動や発言をする事も有りますからね。 論評は論評、歴史的内容であれば内容の改竄や介入も考えられる 全て参考資料でしか無いから知るすべては無い ロマンですね。 私が改めて認識する様な事が出来ましたので感謝します。 動画制作お疲れ様でございます。 またの配信お待ちしてます
@user-gk2bs1cm9m
10 ай бұрын
追撃がさほどでもないそうな。・・・・井伊直政その時の怪我で。。。
@user-tn4zb9ne5h
10 ай бұрын
なんか、意外性重視で作ったみたいな動画…史実をストーリーに合うよう都合好く切り取ってない?
@majihima
10 ай бұрын
今回の動画で、チャンネル登録解除しました。 結局、ウプ主様の独断と偏見でしょ。
@fantomugodJapan
Жыл бұрын
有名どころで言うと伊達政宗や真田信繁もですかね😆
@user-dp7jh6dl8x
10 ай бұрын
光秀の残した言葉、「仏のつく嘘は方便、武士のつく嘘を武略と申す。」 この言葉で光秀の人間性が見えてきますね。 私は最初知った時、ギョッとしました。
@7kyuubey197
7 ай бұрын
やはり光秀は悪党でしたか、個人的に僕の人生で光秀というやつにろくなやつはいないと認識している
@user-tj5pn2tf2y
Жыл бұрын
…信長公の残虐プレイの数々は、 ほとんど 明智光秀によるものだったのか…😂😂😂😂😂
@tabibito800
Жыл бұрын
まー総てあなたの感想ですよねw
@poponsingers
11 ай бұрын
すべての意見、皆感想です。歴史は見てきた人はいないので受け売りだけ。ユーチューブビジネスはそれで成り立ってます。仮想現実を流しギガの消費も増えて携帯キャリアもそれで食べてます。
@user-cf9ts6im3x
10 ай бұрын
まぁ、はるか昔の話やからね( ´∀`)
@user-kt8oz1rp7p
11 ай бұрын
面白かったけど胡散臭さもたんまりって感じやな。
@user-ov3tj6pc6e
Жыл бұрын
もし信長が無能なら一代であんな大大名になれる訳なくて草。信秀あっての信長だけどね
@user-bz6hq4tx9r
Жыл бұрын
祖父の代から台頭してきたのは事実ですが、信秀が死んだ時は尾張全体に号令をかけて美濃や三河に進出したしっぺ返しを食らって今川に領土を侵食され、織田家内でも出過ぎた信秀を叩く流れになってきてたところでした 織田一門は敵だらけ、弾正忠家も弟との分割統治のような形になってしまって分裂状態。かなり厳しい状態からのスタートだったと思います
@user-zj9qz3tl6y
10 ай бұрын
熊本出身ですが、清正は内政に優れていたイメージですね。 熊本城以外にも、治水工事で水害が起きないようにし、また現在使われてる水道で、加藤時代のものがあるくらいですからね。
@LandMark291
10 ай бұрын
あれぇ?おっかしいなぁ? 信長は常に戦える常備軍を組織したから季節を問わず戦ができたのに。 それって革命じゃないのか?
@user-om3md5rm5i
Жыл бұрын
信長が初期から天皇家を尊重してたのは織田家が神主の家系だからと聞いた 明智が残忍なのは聞いたことあったけどよく考えると信長のお気入り武将なので元から冷酷凶悪な人間だった、本能寺の謎も糞もないく狂犬が手を噛んだだけなのかも
@kamirubidan2681
Жыл бұрын
織田信秀って信長の親父も天皇家に献金してたよな。確かに織田信長の織田家って越前の神主の家柄やな。斯波家が越前、尾張、遠江の守護家でその関連で仕官して尾張に派遣されてんだよな。応仁の乱のどさくさで越前は朝倉家に乗っ取られ、遠江は甲斐家に取られ→今川家に取られる(元々今川家が遠江の守護だったらしいけど)尾張は織田家に取られ斯波家って散々だよな。足利尊氏の実兄(妾腹)の家やったとは思うけど。織田信長って熱田神宮で桶狭間の戦勝祈願をやって勝てたから織田信長が壁を寄進してて今でも残ってるからめっちゃ金かけて寄進してるから神社は大事にしてたのかもね
@batsuosada3305
11 ай бұрын
私的に見て・・・と言う見出しを入れてほしかったですねぇ なるほどと思えてきません。
@imagawakiiti
11 ай бұрын
桶狭間の奇襲は、江戸時代の戯作家の話を明治政府が採用したから奇襲が定説に成った。 関ケ原の家康の陣から秀秋の陣迄距離が大砲の射程圏外だったのだが戯作家の話を採用した。 大概は、後年の戯作家の話が採用された例は、枚挙に暇がない。
@MZ-pj4sd
10 ай бұрын
信長は、経済面では他の国の良いところを取り入れる柔軟性があった。 戦では、負け戦は多かったが後で勝っているし、運も良かった。(本能寺でつきていたが・・・) 秀吉や家康は、バックに信長がいたから戦勝が多かったといえるのだが・・・
@user-qg9jk7vx5m
10 ай бұрын
織田信長はここ二三十年で人気出た感じ。徳川家康、豊臣秀吉のふたりには及ばなかったのに、信長人気はゲームやマンガの影響かもしれないね゙。
@user-ob2qj1ps1j
6 ай бұрын
歴史は勝者が作るものだし、最後に勝ち残った者が強者。 そしてifの考察が、歴史から学ぶということ、ですね。
@user-lp4mn4kx9n
Жыл бұрын
いつもいい動画で楽しんで観ていますが、今回の動画は、大変残念な内容です。
@user-ji2yv8uk5c
10 ай бұрын
今回のテーマとは反対の意味で、最近研究の進んでいる三好長慶・松永久秀の通説・史実の差も紹介していただければ。
@user-lv5ex9mw4w
Жыл бұрын
こういうのは全て結果論ですからね
@user-ti5sz8tn4j
Жыл бұрын
本能寺の変の実行犯は別人で、明智光秀は冤罪という説もあります。 光秀の孫は、長宗我部を頼って土佐に落ち延びた。そして、祖父の居城に因んで坂本姓を名乗った。その傍流子孫が坂本龍馬という説もあります。 歴史の裏側って面白いですね🎵
@tomkazu4850
6 ай бұрын
新資料が発見されると様々なことがわかるが、だからと言ってそれが正しいかというとそうでもないんですね。ひとつの資料だけを評価しすぎるとこの動画のような解釈になってしまうんですよね。
@apeman8527
10 ай бұрын
【 番組配信 】、ありがとうございます。 「通説と史実が大きく違う戦国武将・・・・」という興味深いタイトルに魅せられて、拝見しました。 ですが、この番組で「史実」とする「論拠」にしても、「??? or 検証が不十分」というのが、率直な感想です。 ということではありますが、「興味深いタイトルの番組」、ありがとうございました。
@user-gq4wf3uo5l
10 ай бұрын
信長をめちゃくちゃさげてるけど、なら何であの群雄割拠を小国から天下間近まで行けたの???なんか解説聞いた感じとても勝ち抜ける程の人物に思えないけど。
@user-up9vb9jm6t
10 ай бұрын
そもそも島津義弘公を卑しく改竄したサムネ。この動画を上げた人間は島津が憎くてしようがないみたいだな。
@user-qi9bf3zb3t
Жыл бұрын
通説も、ここで挙げられている面もどちらもあったと思う。この戦国時代の価値観、風紀から偉大な人物それぞれに一つの物事に対する意図は一つではないだろうし、ましてや、争いを当時はしている訳だから、光の部分と影の部分があって当然であると思うから、人物像や成したことを総合的に評価すれば良いと思う。 加藤清正に関しては少し極端な見方かと思う。個人の槍働きはあったか?どうか?は別にしても将たる差配や、領主として、築城の名手としてはやはり偉大な人物と言えると思う。
@Ml-nj3ib
11 ай бұрын
大谷隊は小早川隊が東軍側に寝返る事は予想してたようで下山させないように抑えてたようですよ。 後方から壊滅させられた話しは聞いた事ないですね。 七本槍の4人が寝返って横槍突いてきて西軍が崩れたのが大きいのではないでしょうか?
@user-gj9hn3zk9y
10 ай бұрын
近年の一次資料研究や発掘調査から、通説の「関ケ原の合戦」は実際には遭遇戦でありこれまでイメージしてきた鶴翼VS魚鱗の会戦ではなかったと言われ出していますね。大谷隊が西軍の最前面で行軍していたところを前方の東軍に遭遇、後方側面からも小早川隊が挟撃の形でなだれ込んできてほぼ瞬殺の勢いで壊滅したみたいです。その後方にいた石田隊も前方の大谷隊が壊滅、後ろには後詰の島津他の隊がいるころで身動き取れずあっという間に壊滅。最近の研究ではこの様な状況が見えてきているようです。
@user-mh6gj6yk9g
10 ай бұрын
熊本の櫓や城が崩れないのは清正が非凡の証だと思います
@user-lj8we4cf7r
10 ай бұрын
100戦100勝なんてありえないし、経済政策だって誰が初めにやったかではないよね。 信長は天才だと思います。
@user-ik8yc9qq9s
Жыл бұрын
追加でお願い🙏、秀忠が叱られた理由は、遅刻ではなく兵を疲弊させたことらしい。
@kamirubidan2681
Жыл бұрын
それ大阪冬の陣やなかったか?
@user-ik8yc9qq9s
Жыл бұрын
@@kamirubidan2681 関ヶ原の戦いの時でも同じ事をやらかしたらしい
@kamirubidan2681
Жыл бұрын
@@user-ik8yc9qq9s マジかw
@user-ik8yc9qq9s
Жыл бұрын
@@kamirubidan2681 つまり、秀忠は2度も同じ事をやらかしたと言うわけだ。
@user-qb2go5sw3x
Жыл бұрын
@@user-ik8yc9qq9s 秀忠は切腹させられた松平信康に比べて実戦経験に乏しかったのもあるんだよなぁ...
@user-co4kw4lj7i
11 ай бұрын
戦国の時代からかなり経ってから書かれた軍記物がそのまま信じられて定説になっていることが多い。1次資料として当時の手紙などが出てくると定説が違っていたとなる。 コメント見てると信長公記なんてものを参照に語ってる人がいるがあれもかなり眉唾もの。
@user-dg3te8mh6b
Жыл бұрын
明智光秀は上司と意見が違ったとしても、それに逆らわず命令に忠実だった あの専制極まりない織田政権で決定に逆らうと命がない
@user-oq9kc4wk3j
11 ай бұрын
つまんねぇ
@Edopurpure
Жыл бұрын
前田利益さんが入って無いじゃないですかー そうか、題目が創作と史実ではないからか。
@user-se5wb4sb2u
Жыл бұрын
織田信長は既得権益をブッ壊せ人間!て言われてるけど自分が既得権益になりたい格式大好き人間だった
@user-bz6hq4tx9r
Жыл бұрын
格式を重んじたけど自分がなりたいというわけではなかったかと 当時下剋上を成し遂げたあらゆる大名がそうだったように自身の正当性の確保のために将軍や朝廷を重んじた 義昭を支援したのも天下が治まった方が自分の領内も安定すると判断したからでしょう
@user-tk3dt6zn3t
Жыл бұрын
真っ先に伊達政宗が思い浮かんだ 持ち上げてる人にしろ低評価してる人にしろ 「天下取り狙った野心家・梟雄」(笑) という間違ったイメージで語られるという
@Ei-bi1en
18 күн бұрын
四柱推命に詳しい者です。明智光秀は偏官が良くても 帝旺=劫財が2つ + 比肩が2つ =比肩劫財が4つ分と同じ。 ゆえに偏官は自星大過に反剋されてしまっているし、食傷は空亡で意味をなさない。
@user-dp7jh6dl8x
10 ай бұрын
加藤清正に関しては、そもそも『賤ヶ岳の七本槍』自体が秀吉の演出ですからね。 そこまでの猛将ではなかったと言うのは腑に落ちる話です。 ただ築城の才能はホンモノではなかったかと思います。
@yamabiko8015
10 ай бұрын
楽市楽座の説は「国盗り物語」で道三が信長に指南したような描かれ方してますね。
@user-kj2vc8qz5r
Жыл бұрын
小早川は若い頃からたくさん酒飲まされて可哀想な人なイメージ 個人的には幕末に土佐が敵になった遠因を作った山内一豊を推したい。 功名が辻を見た人に是非知って欲しい土佐の実状
@user-eh9fe3yl5v
10 ай бұрын
尾張津島の近くの地元だと 信長公は凡人的な明るいヤンキーだけど 親類縁者を大事にするけど敵対したり刃向かう親類縁者には 問答無用 周りの友達みたいな武将の面倒見もよかったらしい。 やっぱり愛弟 織田信興くんを自刃まで追い詰めた一向一揆 本願寺 許すまじは有名。 ヤバい時は意地を張らずに逃げるのも凡人的 故の強みだろう🤣🤣🤣
@user-dm5il7qv5y
Жыл бұрын
加藤清正、5000石からいきなり大名になったのは知っていたけど、軍功なかったのか。裏切り者の片桐且元の方が城持ち(小名)になったの早かったの知っていたけど、ここまで貶されるとは。
@user-hf2et5cs6z
11 ай бұрын
これはひどい動画
@user-dz8hz3xb5j
Жыл бұрын
見たのか? まるで、その場にいたみたいに話すじゃないか。
@user-uz7ic3nk1f
10 ай бұрын
直江兼続 八王子大虐殺。
@user-ck4wb6ds7d
Жыл бұрын
安国寺恵瓊が入ってないのはおかしい!
@fantomugodJapan
Жыл бұрын
投稿お疲れ様です😊 領民と主そして妻煕子家臣思いだった人物は確かです😊 正義感はあるがフロイスに曰く 光秀は謀略の達人と評している そんな人間が無計画で謀反を起こすとはやはり思えない
@5150_EVH
4 ай бұрын
実は大したことなかった!? 実は大したことなかった!? 実は大したことなかった!? . 煽り文句に身悶える アップデートできない人々の姿が目に浮かぶようで実に楽しかった . グッジョブ! 素晴らしい動画! .
@my.2661
Жыл бұрын
いくら調べても結局分からなかったんですが、波多野兄弟が味方の裏切りで討ち取られたという話の出所はどこですか? 信長公記に八上城に関する記述があるようですが、波多野兄弟は討ち取られたのではなく「召し捕る」と記載されているようですが。
@Dr.SF.
Жыл бұрын
私は「信長公記」の現代語訳を読んだ者です。 「信長公記」の「八上城攻略」の記述は「兵糧攻めを仕掛け八上城内に餓死者が出始めた時点で調略し、波多野兄弟を捕えて安土に護送」となっています。 波多野兄弟の処刑は安土慈恩寺の町はずれで磔となっていますね。
@syuamaumi8980
10 ай бұрын
信長は弾正という位に誇りを持っていますから 保守的なのは当たり前なんだよな
@user-tv9bu4lz7x
10 ай бұрын
島津の退け口で生き残った者の末裔ですがそんな事情があったのですね。
@MFSGEORGE.S
10 ай бұрын
みんな意外と地味だったんだな
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