【ゆっくり解説】【驚愕の事実!】信じられない戦国合戦の真実とは?/好きな戦国武将・合戦ランキングが崩壊します。。

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いとをかし日本の歴史【ゆっくり解説】

いとをかし日本の歴史【ゆっくり解説】

Жыл бұрын

今回は「戦国合戦の真実」を解説します!
戦国時代といえば、合戦・刀・武将の時代ですね!
日本史ファンからすれば、とてもとても大好きな時代です!
実は近年になって歴史的に解明されつつある「戦国時代の合戦の真実」があり、これは歴史ファンからすればロマンが壊されるかもしれないことばかりなのです!
今回は、「長篠の戦い・備中高松城の戦い・姉川の戦い・桶狭間合戦・関ヶ原の戦い・川中島の戦い」すべてを一挙一覧形式でお届けします!
#ゆっくり解説 #ゆっくり歴史解説 #日本史 #戦国
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Пікірлер: 71
@user-zr5vm3uy7f
@user-zr5vm3uy7f Жыл бұрын
世界史だけれども、高校の時の先生が「私ね!見てきた様に教えてますけどね!後から歴史は変わりますからね!私の話を信じないでくださいね!」って熱弁していたことを思い出しました😄
@hide_sugawara
@hide_sugawara Жыл бұрын
何か良い先生ですね。😂👍
@user-pj9tk2iz7m
@user-pj9tk2iz7m Жыл бұрын
歳を重ねて小学生や中学生時代にこんな感じで楽しく教えてくれてたら、歴史が好きになってたかもなぁ……
@pajeromini93
@pajeromini93 Жыл бұрын
私は、上杉謙信が好きなので、春日山城にある「お墓」にお参りに行ってきましたよ。 翌日行われた、川中島の戦いの再現も、見てきました。
@usyachannel
@usyachannel Жыл бұрын
勝頼も家臣が勝手に離反したというより、信長陣営の調略があったからこそですよね。現に信長の調略なしに自分勝手に寝返った家臣は信長に処刑されてますし。まあそのきっかけは高天神城の戦いで援軍をださなかったことにあるのですけど。その高天神城だって信玄が落とせなかったのに信玄の死後に勝頼が落としてますからね。勝頼の大きな失敗はあきらかに御館の乱ですが、その時の選択は失敗でしたが、武田が選んだ上杉景勝は豊臣政権で頭角をあらわして徳川政権でもなんとか生き残って令和の今も続く名家となってますし、御館の乱で敵になった北条氏は結局その後滅んでいますし、勝頼が選んだ上杉景勝は間違いではなかったんだと思います。勝頼はお父さんにあんまりかわいがってもらえなかったから父を越えようと意地になってたんだと思います。もし大事に育てられてたら高望みはしなかったんじゃないかなあと思います。
@tatsuonishi
@tatsuonishi Жыл бұрын
「謎は謎のままでいい」気持ちもありつつ、「真実を知りたい」部分もある(笑)
@user-mb8tg9nr8u
@user-mb8tg9nr8u Жыл бұрын
江戸期の軍記物に代表される判りやすく劇的な描写が通説になっているだけで戦国期とそれ以前の合戦の様相はよく判っていないし、その前後の経緯や時系列の模様は知られていないのが実情。 姉川の「敗戦」後の浅井・朝倉の志賀の陣などほとんど知られてない有様で姉川後に浅井・朝倉は(武田の長篠後も同様に)あれよあれよと滅亡したようなイメージしかない。 秀吉の戦を彩る三大城攻めの一つとして知られる三木城の干殺しは江戸期の「陰徳太閤記」(1716年)の周辺の食料を買い占めることで予め三木城を兵糧不足に追い込んだとする描写をもとにした通説が専らとされるが、秀吉の書簡からはそれとは異なり秀吉軍中もまた兵糧不足であったことが判る。(手持ちで凌げと書いてあるw) 高松城の築堤は「かくて城の廻り三里か間、堤をつかせけられけるに」と太閤記に至っては12kmという誇大な数字が現れているが、一次史料の「吉川家文書」には下口と呼ばれる蛙ヶ鼻の地のおよそ300m程度に堤を築いて城を攻めたと記してあり、江戸期の学者の現地検証でも下口にのみ築堤の遺構が確認されたという。 天文21年(1552年)に信長は三河に攻め入って吉良城、大浜城を攻めているが、これなどは織田と今川の勢力にそれほど開きが無かったことを示唆している。 当時の日本の人口の大部分は畿内一円に集中しており、十分な資金があれば(雇兵で)畿外の地を遥かに凌ぐ動員が出来たので織田家は石高に見合わない動員が可能であったとする説が有力。その他の戦でも織田家に限らず、しばしば「どうやってそんな動員が」という兵力が現れてるw
@nekono_mimikon
@nekono_mimikon Жыл бұрын
長篠の戦で信玄以来の重臣が討死したことにより、信玄から次期当主の信勝が元服した後は引退しろと命じられていた後見人の武田勝頼の影響力が強化され、組織としてまとまりが生まれたとも言えますね。 とはいえ長篠の戦で真っ先に逃走し戦犯となった親類衆(立場上は勝頼より上なので勝頼も処罰ができない)や、依然として影響力を持つ信玄以来の家臣も少なく無く、それが武田家滅亡の布石ともなります。
@user-hy6hq7fs1t
@user-hy6hq7fs1t Жыл бұрын
備中高松城は【岡山県岡山市】にあります。【岡山県高松市】は存在しません。
@745yop6
@745yop6 Жыл бұрын
桶狭間の戦い(1560年)当時、信長の領土は尾張半国であり、信長の尾張統一は1565年。しかし、信長が桶狭間に動員した兵力より、義元が侵攻した兵力の方が多かったことは事実だと思う。義元は鷲津・丸根砦攻め、あるいは一帯に兵力を分散させており、義元本陣をひたすら突いた信長に対し、本陣付近は義元の方が兵力が不足していたことは確かだと思う。加えて、付近の地理は信長は熟知していた上、あたりはぬかるんでいて今川軍の動きを悪くした。信長は勝つべくして勝った。
@user-kp8sk2jg5y
@user-kp8sk2jg5y Жыл бұрын
信長の家系は守護代の家来だったが、親父さんの信秀のときに、主を凌ぐほど実力者になっていた。しかし尾張を統一することなく信秀は亡くなり、その事業は信長に受け継がれた。今川義元が尾張に侵攻してきたとき、信長はまだ尾張を統一できていなかった。信長は尾張統一に手こずり、約10年かかってやっと統一している。
@-msc
@-msc Жыл бұрын
関ケ原は近年発見された島津家の関ヶ原生き残りの武将の日記から 「徳川方は頭がおかしい。味方の戦死者の屍を踏みつけ、踏み越えて突撃してる。まさに鬼畜の所業だ」って 書き残されてるんだからな。とても鬼島津とか現代持て囃されてる最強兵団島津のしかも関ケ原の退き口を 生き残った勇士の言葉とは思えない。小早川隆景の開戦直後に参戦といい。島津の勇士の弱音と言い昭和の 歴史都市伝説が訂正されるのは良いことだと思いますね。
@user-oy8wg2mb4w
@user-oy8wg2mb4w Жыл бұрын
説楽原の戦いでは信長が朝廷に武田を朝敵と工作して上杉にも北条にも武田を味方にさせない武田包囲網を作った話をして欲しかったです。桶狭間では、今川義元が出陣して来るまで清州城で柴田勝家黒母衣赤母衣衆を待機させて今川義元の進軍の知らせを聞いての計画的な奇襲だったかと思います。
@user-up3uv2vj1t
@user-up3uv2vj1t Жыл бұрын
基本的に、好意を持って見ておりますが、秀吉の派手好きに1言。 派手好きの前に実利を何より第一にした人物な筈です。でなければ、織田家の中で出世は出来ない筈です。派手に出来たのは関白になったり天下をとったからな筈。 そうなると備中高松城攻めのポイントは、とは言え敵陣地である場所で敵方の城をどうやって水攻めさせられるか? しかもそれを実行できてしまう機動力の凄さにある筈。水攻めが出来るなら堤防の長さは関係がない。 また、そこからの本能寺、中国大返しも、本能寺からわずか12日後に明智光秀がなくなっている事実。たったそれだけの期間に、近畿まで戻り、明智と合戦をし、勝利した、またしても恐るべき機動力に注目、また、それが何故に出来たのかを見る必要があると思います。
@abbtk14
@abbtk14 Жыл бұрын
武田家の場合、出兵はしても乱取りが主目的であって、戦闘には非常に慎重だったといいますね。川中島の不意遭遇戦で数千人もの被害を出してしまって以降、和平路線に切り替わっています。でも勝頼は被害おかまいなしの戦いを繰り返し、滅亡まっしぐら…。
@matukawatositane
@matukawatositane Жыл бұрын
勝頼は信長が和睦路線に転向しない限りは勝ちつづけないと未来が無さそうなのがなんとも
@nekonohige2
@nekonohige2 Жыл бұрын
その背景は、勝頼は自らの武田家統率力をより強くするため、戦いに出ざるを得なかったことがあるのでは? また長篠の場合は、鷲巣山を落とされ、退路を断たれたような形になったこともかなり影響したと思う。
@kenzo5641
@kenzo5641 Жыл бұрын
@@nekonohige2 信玄は体と金で家臣を繋ぎとめてたけど、勝頼はノンケだし金山も枯渇してたし ホモのジジイが一気に離反したのは可哀そうでしたね
@user-hv2rc4ph9n
@user-hv2rc4ph9n Жыл бұрын
真相は?と言いつつも、通説に対してNOと一言を突きつける程度の事しかなくて詳細が全く無いのが残念…水責めの話の顛末も本筋と関係ない部分も触れるのであれば通説用いちゃダメだと思う
@user-zl8rv5uu3g
@user-zl8rv5uu3g Жыл бұрын
勝頼は高天神城に援軍を何としても送りたかった、だって自分がやっとの思いで落とした城だもの。 だけど、どうしても送ることが出来なかった。その時の勝頼の気持ちを思うとやりきれないですわ。新府城にしても別に勝頼が作りたくて作ったわけじゃない、そういう風に持ってかれた結果だった。(妄想です) あの時代に自分の奥さんと息子と一緒の肖像画を残す人って、やっぱりそれなりにいい人だったと思う。だから勝頼が無理無理のゴリ押しで政治を進めたなど考えにくいのです。(妄想です)
@user-un2lm9lx4f
@user-un2lm9lx4f Жыл бұрын
高天神城に援軍をやれなかったのはずっと信長と和平交渉してたのがあって、信長の同盟相手の家康と戦う訳にはいかず見殺しにしました 城が落ちたあときっちり信長に交渉打ち切られたりと、完全にやられてますけどね… 勝頼の時代に信玄を超える最大版図を築きましたが、逆に領土を広げ過ぎた事が仇となってますね あと動画で触れられてるけど御館の乱の際北条と切れたのも…これは運が悪いとしか… 信玄時代の外交は上手く使い分けていましたが勝頼の時代の外交は裏目裏目に出てますね それでも地理的に考えてもよくやってる方だと個人的には思います あまり大きくなり過ぎなければ滅亡までは行かなかったでしょうね😢
@matukawatositane
@matukawatositane Жыл бұрын
戦国期の合戦なんてものはよぐわがんねってのが実情だかんな
@netalou300nen7
@netalou300nen7 Жыл бұрын
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方,仇は敵なり」信玄の名言と言われる言葉だが多くの家臣が離反したのは勝頼が実行出来なかったからだろうと思ってる。高天神城を見殺しにしたと思われたのが決定的だろう。
@user-ng4sl1cp1u
@user-ng4sl1cp1u Жыл бұрын
そもそもあの姉川にどうやったら十三段の隊列を組むことができるのだろう 現地を見たこともない人が創作したのだろうな
@nekono_mimikon
@nekono_mimikon Жыл бұрын
あれは江戸時代の徳川史観の軍記物の話でしかなく、実態は織田信長と美濃三人衆の少数が浅井長政の大軍に向かって突撃したみたいですね。 信長公記からすると織田信長は浅井長政の本陣があった野村まで突き進んで撃破(野村合戦)、その後姉川沿いに転進し三田村城の朝倉勢を側面から襲撃し追い出した(三田村合戦)感じがします。 徳川勢は軍記物と違い姉川の断崖絶壁を利用し朝倉と対陣していた(姉川合戦)だけで、追撃には参加したでしょうが大きな働きは無さそうです。
@discovery-defender
@discovery-defender Жыл бұрын
「鳴くまで待とう時鳥」という言い方は徳川家康を現わすときに使われますが、それは、時期が来るまで待つという織田信長の生き方から学んだのではないでしょうか。
@user-tc2yn1vd6m
@user-tc2yn1vd6m Жыл бұрын
時期を待って光秀にぶち殺されましたとさ
@survivor288
@survivor288 Жыл бұрын
それもあるかもしれないし この時代の人たちは 中国の歴史をよく勉強してたから 機を待つ曹操を真似したのかもしれないし 色々な要素が合わさってそうなったのかもしれない
@fghvghh11
@fghvghh11 Жыл бұрын
浅井長政は徳川家光にとって義理ではなく、母方の実の祖父では?
@user-je2lk8qn5h
@user-je2lk8qn5h Жыл бұрын
江戸時代の書物が徳川家ヨイショ。豊臣家サゲの影響が大きいんだね。
@user-ec9dl7qg2k
@user-ec9dl7qg2k Жыл бұрын
逆にあれだけの大軍を2時間弱で撃破する根回しした家康凄くない?と思う
@user-tm5wr3qj9x
@user-tm5wr3qj9x Жыл бұрын
歴史は勝者が作ると言いますね 勝者が(都合のいいように)後世に伝えるんでしょう
@matukawatositane
@matukawatositane Жыл бұрын
それもあるだろうけど 戦国時代なんかは特に世間受けする作品を作るクリエイターと受け入れる大衆が作ってる感
@user-tc2yn1vd6m
@user-tc2yn1vd6m Жыл бұрын
勝者ってあれ?織田豊臣徳川ってことね?w
@zafdoga
@zafdoga Жыл бұрын
全然関係ないけど、ベクターの無かった当時に織田家みたいな家紋の描きかたをどうやって規格化していたんだろう。 和算にも幾何学みたいなのはあるみたいだけど不思議。
@user-kg1sw8np3s
@user-kg1sw8np3s Жыл бұрын
こうして見ると武田の滅亡は悲しくみえてくるな~頼みの同盟相手や家臣、国人衆から見限られて情勢の流れによって敵味方に成ったりする世界だしな~(ー。ー#)
@user-eq1kh7ts1j
@user-eq1kh7ts1j Жыл бұрын
宇喜多秀家が備中高松城水攻め時の堤防つくりの技術を用いて築かせたとされる堤防「宇喜多堤」は結構な規模だけどね。時間どのくらいかかったか不明だけど。
@georgejohns6419
@georgejohns6419 Жыл бұрын
戦死⇒討ち死に
@user-nt2kb5eq1f
@user-nt2kb5eq1f Жыл бұрын
長篠の合戦での鉄砲は、初弾は三段式 二弾目以降はランダム。 要するに天才信長はモットモ合理的な 戦術を用いたと考えられる。
@sugisinfkk
@sugisinfkk Жыл бұрын
武田信玄の駿河侵攻は結果的に滅亡のきっかけになった。 (当たり前だが北条がキレた。勝頼があとあと困る)
@user-tc2yn1vd6m
@user-tc2yn1vd6m Жыл бұрын
ボケ老人氏康が死んでから氏政くんは武田と同盟を結んだわけだが
@user-un2lm9lx4f
@user-un2lm9lx4f Жыл бұрын
あそこで駿河に侵攻する以外どうせいっちゅうねんっていつも思うんやけど 川中島であんだけ上杉家とボロボロになりながら戦ってるのに、領土拡大を考えたら駿河一択だと思うけどな 家康も滅ぼしかけた訳やし、方向性としては間違ってないと思うけどな
@sugisinfkk
@sugisinfkk Жыл бұрын
@@user-un2lm9lx4f てかもう詰んでる(笑)
@banpaku3312
@banpaku3312 Жыл бұрын
まあ極論すると歴史は当時の勝者にとって都合がいい記録に過ぎず 今は有力とされている今回の動画で紹介されている各説も 十年経ったら実は誤りでしたということになっている可能性は否定できない
@kkkkkk5303
@kkkkkk5303 Жыл бұрын
しかし、長篠の戦で武田家は80%は戦力は落としていた。 もういつでも、滅ぼすことができるので、織田信長公は攻めず、あと回しをしていたに過ぎない。 徳川家康公だけに任せて。 織田家にとって、他の方面の方が大事で大変なので。そちらへ戦力を向けていたので。
@user-uz9gq7ov2f
@user-uz9gq7ov2f Жыл бұрын
今川と北条と武田で三国同盟してたから!長篠の後もまだ持っただけ
@NHK-Scramble
@NHK-Scramble Жыл бұрын
室町後期の関東で小弓公方、古河公方とかが有り、武田や上杉も関東各地の東京、埼玉、千葉とか彼方此方に有り、一般的に言われる越後の上杉や甲斐の武田との関係が知りたい。確か家紋も同じだった筈。でも何で同じ姓でも争って居たの⁉️ 後北条は伊勢北条ですよね⁉️
@matukawatositane
@matukawatositane Жыл бұрын
越後守護家の上杉氏と関東の上杉氏は同族 上総武田は甲斐武田の支流
@NHK-Scramble
@NHK-Scramble Жыл бұрын
@@matukawatositane さん。 有り難うございます。 同族や支流でも、時には争って居た。時には頼って身を寄せて居たと言う事で良いかなぁ!!?
@matukawatositane
@matukawatositane Жыл бұрын
@@NHK-Scramble むしろ血族の方が危ない感
@tmotchy93
@tmotchy93 Жыл бұрын
同族で争いがないのは後北條だけじゃないかな?後北條は家の結束が物凄く強いから。
@justice1182
@justice1182 Жыл бұрын
ウソか本当か分からない歴史を義務教育で教えるのは本当におかしいと小学生の頃の自分は思っていた。最近では1192とか教えてないしねぇ。
@user-tf8or7de4o
@user-tf8or7de4o Жыл бұрын
長篠の戦いで自分(勝頼)の言う事聞かない信玄時代の古参がいなくなってかえって動きやすくなったとかなんとか。 まあ、結果的に滅んでしまってはどうしようもないんですがね…。
@sugisinfkk
@sugisinfkk Жыл бұрын
動きやすくなっただけで正しいこと(生き残れること)をやってるかは別ですし
@nonposuit
@nonposuit Жыл бұрын
まあよくあるものだが題名が大袈裟すぎ
@user-hd7tz4yv3r
@user-hd7tz4yv3r Жыл бұрын
歴史研究部顧問は「見てきた?ような嘘を言う」と私に言い残した。
@user-rh7nb5dq4d
@user-rh7nb5dq4d Жыл бұрын
史実通りだと映画や小説になっても全然面白くないって合戦は多いよねw
@user-hd7tz4yv3r
@user-hd7tz4yv3r Жыл бұрын
ChemistryはLieはつかないかな?
@ETeppei
@ETeppei Жыл бұрын
川中島って変なんですよね。なぜ奇襲部隊が12000もの大兵力なのか。 ふつう逆でしょ。
@user-xm6kb4pz2p
@user-xm6kb4pz2p Жыл бұрын
こんにちは
@user-uz9gq7ov2f
@user-uz9gq7ov2f Жыл бұрын
信玄が長男を殺した時点で!滅亡
@luciferr8884
@luciferr8884 Жыл бұрын
戦国最強は引き分けも含め無敗の長尾景虎だよね。
@tmotchy93
@tmotchy93 Жыл бұрын
臼井城で負けてるよ。その負けで関東の国衆が離反して関東管領としての立場がなくなり北條と和睦してる。
@nichirowar
@nichirowar Жыл бұрын
もう小早川秀秋を裏切り者というのはやめようや
@sugisinfkk
@sugisinfkk Жыл бұрын
なんで裏切り者なんだろう? 明らかに東軍寄りの思考してるはずなのに。
@user-nh6ji8db6s
@user-nh6ji8db6s Жыл бұрын
罪無き人達に切腹させんな!
@sarome888
@sarome888 Жыл бұрын
ここまではっきりと分かっていないことを、日本史や世界史として授業などでおぼえさせることって、意味ないよなぁ。あくまでも、こういうことがあったらしい、でいいのではないかと。受験勉強とか、テストとかでやる意味ない、やるなら、はっきりと分かっている時代からにしたほうがいいのではないのかなぁ。
@koheimitsuda
@koheimitsuda Жыл бұрын
驚愕の事実が一つもない全て常識レベルの内容。タイトル詐欺。 後半二つなんてセンゴクと桶狭間戦記読んだの?ってレベル
@user-hd7tz4yv3r
@user-hd7tz4yv3r Жыл бұрын
真実はいつもひとつとある名Detective目立ちたがり屋?
@ndrzinttrzin5755
@ndrzinttrzin5755 Жыл бұрын
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