【ゆっくり解説】蜀の誕生と龐統の死|劉備の入蜀

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三国志のヒストリア

三国志のヒストリア

Жыл бұрын

劉備の入蜀に関する戦場解説動画です。
▼世界史全般の戦場解説はコチラ
戦いのヒストリア
/ @user-pq2jx5pd5y
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#歴史解説 #三国志

Пікірлер: 78
@user-ho2he1vw8f
@user-ho2he1vw8f Жыл бұрын
裏切られるのを知らずにウキウキで100日間もてなした劉璋さん、さすがに同情する(
@user-kn4pq8ib2c
@user-kn4pq8ib2c 3 ай бұрын
3ヶ月以上も宴会をしてる場合か!
@user-ht6lk2ol2c
@user-ht6lk2ol2c Жыл бұрын
この人の動画って なんでだろ?って思ったとこをすぐ答えてくれるから好き
@J.and.P_fx98
@J.and.P_fx98 Жыл бұрын
郭嘉、周瑜、龐統 全員早過ぎるて。。。 個人的には郭嘉が一番気になる。彼が生きていたら曹操は統一できていたのかと。
@nobe2525
@nobe2525 Жыл бұрын
動画では触れられてないけど、張櫓を攻撃せずに居座ってた間、劉備は周囲の地域の民心掌握に努めてたから、それもあってのトントン拍子の降伏祭りだったんだろうな
@Eit1000ml
@Eit1000ml Жыл бұрын
動画待ってました!
@senzyu_ya
@senzyu_ya 9 ай бұрын
蒼天航路での張任と劉備のやり取り大好き。
@user-fp8fe7wz7z
@user-fp8fe7wz7z Жыл бұрын
劉備の蜀侵攻戦が一番好きやから興味深く見させてもらいます
@sakumenx
@sakumenx Жыл бұрын
毎回、本当に楽しみにしてます!!
@murayosi1
@murayosi1 Жыл бұрын
次は蜀の関中攻略か、馬超の長安攻略〜潼関の戦いが聞きたいですねぇ😊
@user-pk8lx2oh7l
@user-pk8lx2oh7l 7 ай бұрын
さらっと言われているけど霍峻が可笑しいくらい凄いのよね。一年間寡兵で敵軍の包囲に耐え敵軍の主将を斬るって張遼クラスの奮戦。霍峻が後十年生きていたらとか考えてしまうくらい惜しい存在。
@user-tc8ni3no8y
@user-tc8ni3no8y Жыл бұрын
動画ありがとうございました😊 あと欲を言えば 大陸は大きいので 主要都市名や長江を記載して頂ければ分かり易いと思いました🥺💦🙇‍♂️
@matukawatositane
@matukawatositane Жыл бұрын
劉備の軍略の冴えが見えて来る戦い 漢中争覇戦で絶頂を迎えるまであと少し…
@yukkunterao8529
@yukkunterao8529 Жыл бұрын
龐統の戦死は痛かったが、戦場に出てる以上そうなる事は仕方ない部分はある。 巴蜀と共に手にした法正が220年に亡くなってしまったのが痛い。法正1人が全てを変えれるとは思わんが、漢中平定に貢献した法正が孔明と同じくらいまで生きていれば北伐は法正が、孔明は内政を中心にというツープラトン体制を敷けたと思う。 ただ相当に性格に難があったから劉備亡き後法正がどこまで劉禅の言う事を聞いたかはわからんけど…。
@murayosi1
@murayosi1 Жыл бұрын
曹操も郭嘉、孫権も周瑜と、歴史にもしもはありませんが、死が悔やまれる人が多いですね。 それほど短命で亡くなる人も多かったのだろうし、能力次第で年齢関係なく名前が轟く時代だったということの表れでしょうか・・・。
@maniaxsj3946
@maniaxsj3946 Жыл бұрын
そうしたら劉封を中継ぎの君主にする可能性がありますね😢
@user-pz1pv9hk1g
@user-pz1pv9hk1g Жыл бұрын
よく法正が生きてたら北伐任せた言われるけど参謀である法正自身が諸葛亮の代わりに軍を率いることはないと思うよ。従軍する可能性は高いけど。
@matukawatositane
@matukawatositane Жыл бұрын
郭嘉にしろ龐統にしても早死した連中は若干過大評価されてる感
@user-ti7ve3uk6v
@user-ti7ve3uk6v Жыл бұрын
@@matukawatositane 特に龐統は従父の龐徳公の名声が凄まじいから、評価に色を付けられている感はあるね
@user-fr8vy2zj1t
@user-fr8vy2zj1t Жыл бұрын
蜀志では須得涼州、當以荊州相與とあり 呉が荊州を貸したとするのは呉志にしか見えません さらに呉志でも貸したとする割には返還の期限や条件すら決めておらず、これが本当なら魯粛も孫権もアホすぎます 戦歴を見ても呉が自力で取ったのは荊州で言えば甘寧が取った夷陵城だけ、その部分だけは劉備の関与が記録上はまったく見られない 曹仁を江陵で囲んだのは魏志では劉備と周瑜の共同、呉録にも劉備が周瑜、曹仁との戦いについて策略を語って周瑜がそれに従った記録があり、魏志には劉備、周瑜が曹仁を包囲し関羽がさらに北道を封鎖したことが書かれてます なので江陵周辺には劉備の将と呉の将が共に駐屯してる。 それに対して南方四郡は呉が関与した記録が一切なく、魯粛伝によると呉が『返還』として求めた土地はその四郡のうち三郡、 これらは劉備が切り取ったものだから揉めた。 関羽との魯粛伝のやりとりでも呉書では魯粛が論理的にやり込めたことになってるけど、実際は雑居状態の南郡江陵を正式に手放し、一度奪った零陵も返還するというもので呉が有利に交渉を進めてもいないし、劉備の行動の前後を改変してることが指摘されている。 借荊州の史料矛盾は千年以上前からずっと指摘され続けており中国版のwikiで借荊州読んだらわかります
@kaigetuyukke1
@kaigetuyukke1 8 ай бұрын
この辺りが一番わくわくしたかな、オールスターがいたころは楽しかった
@enemon2340
@enemon2340 Жыл бұрын
理由があったのかもですが益州攻略に時間かけすぎましたね劉備   結局全面戦争みたくなっちゃうし
@kanken9267
@kanken9267 10 ай бұрын
光輝三国志(演義)が知識の大部分を占めてるせいか(そうだったのか…)と思われる部分が多すぎて普通に楽しいですね まさかネタに多く使われる「ムムム」の人の馬超説得が正史だったのが今回の最も驚いた内容でしたね(正史では孔明かと思ってましたw) ところで龐統の死は出陣前に劉備の愛馬である的盧を預けられた結果、劉備と間違えられ射られたというのはやはり演技なんでしょうか? こういう細かい所も紹介して欲しい限り^^
@sh-hd5nq
@sh-hd5nq 10 ай бұрын
三国志真戦で張任の固有戦法が落鳳なのはそういうことなのか
@user-ew5hg8xn1x
@user-ew5hg8xn1x Жыл бұрын
三国志って目まぐるしく局面変わるから面白い、孔明亡き後は微妙だけど
@kokoa6580
@kokoa6580 Жыл бұрын
他の三国志動画より面白くてわかりやすい😊
@from4284
@from4284 Жыл бұрын
南群4県は江夏群西部との交換じゃないのかな? 特別な記載はないけれど、ここに比定しないと江夏が孫権領になる理由が見当たらない
@user-st5dh5wz5s
@user-st5dh5wz5s 9 ай бұрын
劉琦が江夏太守として夏口にいて、赤壁後に劉備に荊州刺史に擁立されていますね。209年と210年の劉琦と周瑜の死に合わせて、江夏郡と南郡4県の交換で江夏郡を孫権領とし、南郡を劉備が領して対曹操戦線の漢水西岸側を担ったと考えるのが自然でしょう。魯粛は劉備に好意的なのではなく、対曹操戦線に積極的に利用するつもりだったとみる方が実情に近いと思われます。
@user-gf8pm8qy9j
@user-gf8pm8qy9j Жыл бұрын
凄い内容に驚きを隠せません。
@user-gm5wq5ec3l
@user-gm5wq5ec3l Жыл бұрын
楽しく見ました! 色んな戦いを時系列ごとにまとめて見れて非常に見やすかったです 魯粛的にもここまでは計算通りなんでしょうね 連絡役に龐統を置いていたので状況は分かっていたでしょうし(個人的に龐統は呉のスパイだったんじゃないかな…) ゆくゆくは荊州も返還して(吸収させて)もらって天下統一を…と段取りはあったと思うんですが、 合肥であいつがなぁ… 正直天下三分して膠着するきっかけになったのあいつのせいだと思うんだよなぁ…
@user-fx9zh8ec2d
@user-fx9zh8ec2d Жыл бұрын
あいつ強すぎ問題
@Kei-zh9fh
@Kei-zh9fh Жыл бұрын
龐統謀殺説みたいのはないのかなw いくら局地的な攻城戦に苦戦していたとしても、 戦略的に圧倒的に優位な状況で唐突に死ぬのはやはり不審
@user-op5qg2zf5n
@user-op5qg2zf5n 9 ай бұрын
江森備さんの小説やと孔明の仕業
@user-st5dh5wz5s
@user-st5dh5wz5s 9 ай бұрын
龐統伝にある死因の「流矢」は日本語と違い中国語では「矢の雨」の意味です。 「統率衆攻城,為流矢所中」なので、雒城の険しい地形の城攻めで、うっかり督戦中に危険地帯に踏み込んで戦死したものと思われます。龐統の軍事活動は入蜀戦が最初ですので、現場実働には疎かったのが原因の「事故死」でしょう。
@user-jm6pe3xn1i
@user-jm6pe3xn1i 7 ай бұрын
ありますよ。龐統は呉のスパイだった説は経緯や状況的に濃厚だし、ある程度筋道見えた段階で退場させたと考えるのが自然だったりする。
@rmrf-sd8qw
@rmrf-sd8qw Жыл бұрын
SEGAの三国志大戦においてなら龐統の影響力は絶大で最強クラスの妨害計略なのですよね。こいつがいると呂布は詰む。
@user-fd6du2jw1m
@user-fd6du2jw1m Жыл бұрын
スリキンだと龐統が死んでから諸葛亮が進軍してたけど あれは演技の話だったのかな
@Legendary_mapo_tofu
@Legendary_mapo_tofu Жыл бұрын
龐統はスリーキングダムでも良い死に方してたもんな。中国人にも印象が良いのだろう
@HANIWAYA
@HANIWAYA Жыл бұрын
孫権からの援軍要請はどうなったんだろう
@user-tc8ni3no8y
@user-tc8ni3no8y Жыл бұрын
たぶん 孫権からの援軍要請、無視だと思えます🥺 劉備は益州に群勢を回すためしか考えていない筈です🥺💦 自身の領土獲得を優先したのかな?🥺💦
@nomoney8296
@nomoney8296 10 ай бұрын
そこのツケが孫権が曹操より劉備を嫌う事になり結果的に関羽を殺す事になったわけで
@user-st5dh5wz5s
@user-st5dh5wz5s 9 ай бұрын
入蜀戦を優先して無視したと思われがちですが、青泥の戦いとして知られる楽進・文聘と関羽の戦いが該当します。曹操の濡須口侵攻に合わせて領土交換で孫権領となっていた江夏郡へ漢水沿いに楽進が、北からは文聘が侵入しました。関羽は楽進を青泥山で防衛しましたが、文聘に蘇非(蘇飛?)が破られたため、杜普・梁大を残して救援にむかったものの、彼らは楽進に破られます。関羽は蘇非と合流して尋口で文聘と対陣、楽進は文聘と合流して関羽を破ろうとするも果たせず、曹操本隊の撤退に合わせて退却しました。
@user-st5dh5wz5s
@user-st5dh5wz5s 9 ай бұрын
上記の青泥の戦いを知ると、劉備側は孫権領の江夏郡失陥の危機を救っています。孫権側がむしろ孫堅から因縁のある荊州領有にこだわり(長江上流保持の意味もあったでしょうが)、かなり不義理を働いていることが分かります。呉書は韋昭の呉書をほぼ引き写しているため、陳寿が自身でまとめた魏書・蜀書に比べると身びいきのバイアスが高く事跡の矛盾も多いので、他の資料と引き合わせて考察する必要があります。
@1win1win1
@1win1win1 5 ай бұрын
益州に長期間いた劉備、劉璋との対立が明確になった後、兵站はどうやってたんかな?
@user-zn4xl9id8d
@user-zn4xl9id8d 9 ай бұрын
本宮ひろ志先生の「天地喰らう」で、この頃の中国史を知りました😅
@hohoemidebu2022
@hohoemidebu2022 Жыл бұрын
流れ矢って味方のも当たったりするし、前線で指揮採ってなくても当たる事はまあまあある。三國志だと周瑜も流矢当たってるしね
@user-st5dh5wz5s
@user-st5dh5wz5s 9 ай бұрын
中国語の「流矢」は日本語と違い「矢の雨」の意味です。攻城戦では防衛側が殺し間を設けているのは常套戦術で、激戦だったり現場実働や地形に疎い将が前線に出たりするとやられるケースが多発します。史実の江陵城攻めの周瑜も「瑜親跨馬擽陣」と士気鼓舞のため騎乗の目立つ形で督戦した結果、集中射撃を浴びての負傷です。
@user-jm6pe3xn1i
@user-jm6pe3xn1i 7 ай бұрын
初動は龐統を使わざるを得ない状況だったけど、ある程度筋道みえた段階で内部の情報を呉に送る龐統を暗殺したんじゃないかなと個人的に思ってる。
@re0508
@re0508 Жыл бұрын
黄権だまらっしゃい!😂
@waterfront777
@waterfront777 Жыл бұрын
17:32 やりくちがヤクザで草
@user-st5dh5wz5s
@user-st5dh5wz5s 9 ай бұрын
地形と時系列をまとめた動画、楽しませていただきました。 蜀書霍峻伝では葭萌城を最初から手勢の数百人で守備し、扶禁・向存らの一万余の軍勢に1年以上籠城し、最後に精兵を手勢から選りすぐって攻撃して向存を斬ったとあります。”2000人の城兵”の情報はどこに記載されていたのでしょうか。
@user-pi1bm7pc2u
@user-pi1bm7pc2u 8 ай бұрын
😮😮
@moipa808
@moipa808 Жыл бұрын
諸葛亮が荊州に残っておけば
@user-tj4fe5bt2n
@user-tj4fe5bt2n 10 ай бұрын
劉備が軍勢を呼び寄せたのは214年、龐統が戦死するちょっと前でしょ
@がきデカ
@がきデカ Жыл бұрын
お前ら…そげな教養あったんかいな…
@user-pk7jl4dd6q
@user-pk7jl4dd6q 9 ай бұрын
義経が平家を滅ぼす為だけに輝いたみたいに龐統は蜀を作るために輝いた名軍師。孔明はおろか、誰にも出来なかった功績だと思う。
@user-lg1uj4uv1j
@user-lg1uj4uv1j Жыл бұрын
魯粛は劉備と滅茶苦茶気が合いそうだなあと思う どっちも曹操アンチだし戦強いし
@user-uq7bs2yu3h
@user-uq7bs2yu3h Жыл бұрын
周瑜が65歳位まで生きていたら、晋じゃなくて周による中華統一だったかもね。
@user-st5dh5wz5s
@user-st5dh5wz5s 9 ай бұрын
黄祖を抜くのに208年までかかり、江陵城の曹仁も北方を関羽に遮断してもらいながら1年の籠城で、張飛の援軍を劉備に要請して落としていることを考えると、周瑜や当時の呉軍の攻勢侵攻能力は高くないです。蜀の豪族の調略を進め、内部から入蜀戦を始めた劉備が2年以上かけていることを見ると、周瑜が入蜀戦を行ったとしても頓挫した可能性の方が高いでしょう。
@user-ux9fq6ug7m
@user-ux9fq6ug7m 3 ай бұрын
​@@user-st5dh5wz5s 信長も尾張統一、美濃攻略に何年も掛けていましたが、その後は雪だるま式に攻略の速度があがっていきました。劉備に至っては赤壁で周瑜が曹操撃破するまでは取ったり取られたりで領土がプラマイゼロだったのは言うに及ばず。 弱小のうちは苦戦するのは当然のこと。黄祖は劉表という強大な後ろ盾がいたわけですし。 歴史のifはただの妄想のお遊びですが、一度は全てを失った孫家を三国の一角になるまでに躍進させた原動力であり、(演義と違い)ほぼ単独で曹操撃破した周瑜が荊州という沃土を得て更に求心力を得れば、益州を攻略し曹操と対抗するだけの力を蓄えることができたというifは荒唐無稽と無碍にできるものではないと思います。 まあ呉は豪族名家の影響力が強いし孫権が後年になるほど耄碌するので、ある程度上手くいったとしても国内の統制に相当苦労するでしょうが。
@Mrkyoukenn
@Mrkyoukenn Жыл бұрын
なぜ孫権に荊州南部を借りることになるのか20年以上分からないまま。赤壁云々で立場が弱かったっていえばそれまでだけど、劉琦もいるし自力で南部を取った時期は周瑜は南郡に拘ってた訳だし、これは劉備(劉琦)の土地に他ならないのでは?
@nn-tp7el
@nn-tp7el Жыл бұрын
普通に赤壁云々で立場が弱かったからに他ならないでしょ
@Mrkyoukenn
@Mrkyoukenn Жыл бұрын
@@nn-tp7el まあそうなのかもしれませんが…力が全てなら益州取った劉備が孫権に土地返す謂れなんてはなからないのでは?と思ってしまう。
@eurmeiminanki
@eurmeiminanki Жыл бұрын
孫権が貸したのは「荊州南部」ではなく「荊州南郡(江陵や夷陵の周辺)」。 孫権は諸葛瑾を使者として荊州諸郡を返すように求めた。 諸郡とは南郡(江陵周辺)と劉備が南郡から切り離して設置した宜都郡(夷陵周辺)の2郡のことと推測される。 劉備はこれを拒否したため、孫権は荊州南部の長沙、零陵、桂陽郡に「太守」を派遣した。 南郡には関羽軍がいるため守備の手薄な長沙零陵桂陽を狙ったのであろう。 太守を派遣した(軍隊ではない)とあることから、この3郡は軍隊がほぼいないことを把握していたと思われる。 守備が手薄な理由は諸葛亮が益州攻略に軍隊を動員したからであろう。 武陵郡が含まれていないのは、ゲームと違って武陵郡はもともと孫権の領土だったため。 荊州南郡を返さないなら代わりに荊州南部を貰うということであろう。 これらを踏まえて、では両者にはどのような思惑があったのだろうか? という考察が始まるわけですね。
@matukawatositane
@matukawatositane Жыл бұрын
@@Mrkyoukenn そんな感じで孫権舐めてたら逆襲されたのが樊城なんだと思います
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 Жыл бұрын
@@eurmeiminanki 「借荊州」は本質的に戦略的利益にかかわる領土交換である。周瑜が貸したのは全荊州で最も人口の多い南郡の主要地帯である。その代価として、劉備の支配区は曹魏と直接国境を接し、「孫権と曹操の間の戦略的バッファ」となるだろう。劉備が将来返済しなければならない部分については、孫権と魯粛が主張しているのは南郡の大部分+荊南四郡であり、ある意味領土高利貸しである。この時期に劉備が長江上流と中流を制圧したのは、もはや東呉の盟友ではなく、孫権の重大な軍事的脅威だったからだ。
@user-wk2ql7pi1t
@user-wk2ql7pi1t Жыл бұрын
劉焉は漢の使者を斬り連絡を絶ち独立した 劉璋はそれを知りながら後継の座につき、さらに逆賊曹操に降伏しようと画策していた 劉璋の漢に対する裏切りは明々白々なり どんな手段を用いても討伐しなければならないのである
@matukawatositane
@matukawatositane Жыл бұрын
曹操は言っても漢の丞相よ()
@sugisinfkk
@sugisinfkk 10 ай бұрын
逆賊は次男坊の曹丕
@user-ss3qe4oq6k
@user-ss3qe4oq6k Жыл бұрын
浸透さんとは別の人? かなりの影響を感じるけど
@user-jq4ew2ft8j
@user-jq4ew2ft8j 8 ай бұрын
「軍団」とは、「軍」という近代の軍事上の単位の下位にある単位です。ですから、この軍団は、この時代には存在していません。日本の戦国時代にも「軍団」という呼称はありません。 「軍団」という言葉は、強さを強調する言葉として現在かなりつかわれています。 現代では、第二次大戦時のドイツの「アフリカ軍団」が有名です。しかし、「アフリカ軍」とはなっていません。すこしっ前のことですが、「たけし軍団」があったようです。 恰好が良ければ、それでいいのでしょう。「石原軍団」もありました。 「軍団」とは軍事用語であり、近代の言葉なので、容易に「軍団」という言葉は使わないほうがいいと思います。軍事用語は専門性があります。
@user-jm6pe3xn1i
@user-jm6pe3xn1i 7 ай бұрын
全くもって話に関係ないコメントですね。当時の状況を今の言葉を使ってわかりやすく解説する事は当然の事。的外れなイチャモンつけるクレーマーと思考が一緒。笑
@user-vb8ce1xk4r
@user-vb8ce1xk4r Жыл бұрын
この手の動画は孫呉史観が強すぎて話にならんのだよなぁ 赤壁で曹操が撤退したから荊州は孫呉の領土!とかわけわからんわ
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