【ゆっくり歴史解説】神武東征・実在編『神武東征は歴史的事実だった』

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れーしch【歴史】

れーしch【歴史】

2 жыл бұрын

神武東征を紹介します。
神武東征は紀元前50年よりも前なら可能だとする話があります。
神武東征の動機から大和の地デナガスネヒコに敗れ、神武天皇の軍が倒れてしまう所まで解説しました。
河内潟
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Пікірлер: 190
@user-pf3ig1sb5r
@user-pf3ig1sb5r 2 жыл бұрын
神武東征って奈良湖の存在や河内潟を推測させる記述からかなり年代を絞り込めるんですよね。当時と現在とでは地形が全く変わってしまっている場合が多々あるので、現在の地図をもとに考察してもあまり意味が無いんですが、本職の学者さんでも当時の地形を考慮していない方がいるのは・・・残念としか言いようがないですね。
@user-ke1xz7lw3m
@user-ke1xz7lw3m 2 жыл бұрын
その土地に関する知識は私にはまったくないですけど 神武の東征にあたることが実際にあったのは、おそらく二世紀ごろだと考えて良いでしょう このころになると、本州の神器だった銅鐸が消え、九州の神器の剣が天皇家の三種の神器にまでなっている。 それに遺伝子学的にも、当時、九州や山口にいたと思われる中国南西部から稲作をもってきた渡来人たちの遺伝子が、古墳時代、つまり三世紀中ごろから縄文系の人達との混血が進んでいる事がわかっています 二世紀から三世紀ごろから九州の人達が本州に拡大していたったと考えてよいでしょうから その際、衝突もあったでしょうけど 縄文系の人達の遺伝子がそれも父系の遺伝子が日本人に多く残されている事実から考えれば、比較的に穏やかに本州への拡大と縄文系の人達との交流と同化が進んでいったのでしょうね
@user-pf3ig1sb5r
@user-pf3ig1sb5r 2 жыл бұрын
@@user-ke1xz7lw3m 二世紀だと地形的に記述と合わなくなります。二世紀には奈良湖も河内潟も消滅しています。記述と合致する地形の時期は北九州、吉備、河内、大和、どの地域も同じ時代です。 西暦紀元前後の時期に規模は分かりませんが日向から大和の奈良湖の畔を目指した移民集団の伝承が元になっていると思います。 長江流域から水田稲作渡来は最低でも紀元前900年ごろには北部九州で始まっていますし、紀元前500年ごろの奈良湖の畔で大規模水田跡が発見されています。 弥生時代=水田稲作の伝播と考えるなら、紀元前900年ごろ北部九州で始まり、紀元200年ごろまでとなります。そして弥生時代の始まりは更に遡る可能性はあっても、繰り下がる事は無いでしょう。 大和に水田稲作がもたらされた時期を神武東征とするなら遺跡の年代から紀元前500年以前となりますし、奈良湖消滅前とすると紀元50年辺りが限界となってしまいます。 古事記や日本書紀に記述された地形は空想の産物ではなかった、という事が最近分かってきた、というだけです。 因みに私は紀元前50ごろだと思ってます。丁度その頃に南九州で規模の大きい火山噴火があった事が判明しているので、その災害から逃れ移動した集団の終着地が大和の奈良湖畔南側だったのでは?などと空想しています(笑。
@dauny08
@dauny08 Жыл бұрын
長浜浩明さんと言う在野の古代史研究者(元々大阪府との仕事で地盤・地質などの調査をしていた会社で仕事をされていた)の著作で紀元前~古墳時代までの大阪の地形図と古事記の記述を元に奈良の橿原に至る年代を説明されていましたが長浜説によるとBC60年頃と推定されてました。 講演会の模様もKZfaqにありましたが現在は残って内容です。
@Kappa-Lub
@Kappa-Lub 3 ай бұрын
@@user-pf3ig1sb5r 北九州市八幡西区熊西 岡田宮 縄文海進の時代。当時は海の傍ら 八幡西区木屋瀬辺りまで遠賀川が遠賀湾で洞海湾とつながり 若松区は現在半島ですが当時は島 皇后崎と陣の原陣山 何れも神功皇后がらみでの軍勢が本陣を置いた場所で上陸したのが皇后崎 何故東征したかアカホヤ噴火絡み
@miyotukushitv2475
@miyotukushitv2475 21 күн бұрын
​@@user-ke1xz7lw3m 縄文人は主に男性が様々な集落を渡り歩いて交易をする、漁をして生活するというスタイルが一般的と言われているので米と魚や交易品を交換していて稲作の集落で定住し始めたとかも有り得そう。
@user-ek2qd9px2k
@user-ek2qd9px2k 2 жыл бұрын
非常に面白かったです。昔の地形が記述と一致する、というところから東征の時期がわかるというのも素晴らしいですな。宇佐に関しては宇佐八幡で皇室がかなり重要視しているところを見るとかなりの勢力だったんでしょうね。
@user-ke1xz7lw3m
@user-ke1xz7lw3m 2 жыл бұрын
遺伝子的に調べてみれば、日本人の父系の遺伝子はチベット民族と共通点が高い 父系の遺伝子というのは歴史的な史実に反映されるものだ 日本以外の東アジアの父系の遺伝子は綺麗に中国北部の遺伝子に塗り替えられている 中華帝国の拡大による影響だと思われている。歴史的に男性を殺して女性を奪う事が繰り返されてきたからな 中華帝国の支配下にはいらなかった日本とチベットだけが、その影響を受けなかったわえけだ この遺伝子はもともと東アジアに広く分布していたもので、日本では縄文人が持っていた遺伝子と考えられている 弥生人は後に中国南部から渡来してきた人達を起源とし 本州では古墳時代あたりにこの両者が混血が進んだと考えられている 神武の東征の影響と考える事もできるが。 それでも縄文人の父系の遺伝子が残っているということは、男性を皆殺しにして女性を奪うまで強引な事はなされなかったのではないかと思われているよ 日本の弥生人と縄文人の融合は比較的に穏やかに行われたと考えられている
@user-zs3ld7cj2k
@user-zs3ld7cj2k 2 жыл бұрын
古代宇佐勢力を考えるとして、 平野であり川部・高森古墳群というデカい規模の古墳・墓地郡や3世紀末(ぞくに言う魏志倭人伝が書かれた時代くらい)という古い次期の古墳が出ていること、 中国製と見られるの鏡等も出ており同じ鋳型と見られる鏡が畿内ででたものと同じと考えられること。 これらが参考になるかと。 ただ宇佐八幡は、勢力を考える根拠としては疑問です。宇佐八幡は東征の時期が不明とはいえ明らかにもっと後の時代で参考にならないと思うからです。 理由として、創祀の次期が時代欽明天皇(6世紀)の時代とされていること、聖武天皇孝謙天皇時代(8世紀)で神仏習合の為に(政治的に)重要視したと考えた方が自然な事。以上二点からです。
@user-ke1xz7lw3m
@user-ke1xz7lw3m 2 жыл бұрын
@@user-zs3ld7cj2k 八幡神社が応神天皇とされたのは平安時代からで、神職の夢枕に八幡神が現れて自らが応神天皇だと名乗ったとの由緒があり いかにも後世の作り話のような感じだ 八幡神はもともとヤワタの神と呼ばれる宇佐氏の崇める海神ではないかとの説が主流だし 天孫降臨の地とされる宮崎県高千穂町 おそらくここが九州にいたころの大王家の一族の拠点だったのだろう。 この高千穂の位置をみれば、九州の北と南のちょうど真ん中くらいの位置にある。 そして南九州は隼人や熊襲と呼ばれる朝廷に対抗した勢力が存在しましたし 筑紫での勢力拡大が難しかった大王家が、本州に侵攻したのが神武の東征ではないかと私は考えています あるいは熊襲に九州から追い払われてしまったのから本州に逃げたのかも知れませんね。
@user-zs3ld7cj2k
@user-zs3ld7cj2k 2 жыл бұрын
@@user-ke1xz7lw3m 社伝の由緒が後世の作り話というのは同意です。 上の自分の理由は、皇室がかなり重要視~との発言から皇室から見て宇佐八幡を考えた場合の発言です。(分かりにくくてすいません) 高千穂の考察面白いですね!勢力拡大が難しいとか本州に追い払われるとか。なにか考古学の新しい発見があれば~と思います。
@user-me5ie4my9p
@user-me5ie4my9p 2 жыл бұрын
@@user-ke1xz7lw3m 天孫降臨の高千穂は宮崎県の高千穂町ではなく、鹿児島県と宮崎県の県境の霧島連山だと思います。 私もずっと高千穂町だと思っていたのですが、高千穂町には皇室ゆかりの神宮もなければ、天孫降臨の高千穂峰もないんです。 しかし霧島神宮には背後に高千穂峰があり、天逆矛があります。 霧島神宮の神は天孫降臨のニニギの尊です。 この近くに神武天皇の生誕の地があり、 霧島神宮と宮崎神宮、鵜土神宮の中心には都城市があります。 鵜土神宮の神は神武天皇の父のウガヤフキアエズです。 都城市の北東には九州最大の古墳の西都原古墳群があり、神武天皇の出征の地である美々津も近くにあります。 おそらくなのですが、 ニニギから神武天皇までの日向の宮は都城市にあったのだと思います。
@reizoukoreizouko
@reizoukoreizouko 2 жыл бұрын
東征は、戦闘もあったんですけど、姻戚関係を結ぶ旅でもあるんですよね。近畿に入ったあとの支配の仕方でもそれを重視したようにも見えます。
@EBIFRY20hey
@EBIFRY20hey 2 жыл бұрын
解説お疲れ様です 建御雷「えぇっ剣投げる準備したのに!!!」←(笑) 「何で末っ子のイワレヒコが後継者に??」という疑問を解決できました。 他の方のコメントでも挙がっていますが、合理的な相続だったんですね。 神話からも抜け切ってないけど、実在した証拠とも言えるのがあり、一番ロマンが沸き立つ時代になって来ましたね。 激闘編楽しみです 個人的にもっとぷにぷにして良い派でしたが、この感じも好きです。 これからもぷにぷにして頂きたいw
@yukenak
@yukenak 2 жыл бұрын
ためになった。ありがとうございます。
@user-bs7ky8zr7d
@user-bs7ky8zr7d 2 жыл бұрын
当時の地形や気候の考察というのも重要ですね
@basilbasilicum
@basilbasilicum 2 жыл бұрын
ナガスネヒコがきめぇ丸で笑った🤣 次回の激闘編楽しみにしています!
@Kappa-Lub
@Kappa-Lub Жыл бұрын
日本の神は人間の喜怒哀楽や優れたところのこと。 24:50 当時の大和川は現在の大阪市内に流れこんでいて 江戸期に現在の柏原市役所前のところで川を付け替えて 現在の流路になってます
@BassMicchan
@BassMicchan 2 ай бұрын
大阪では、子供の頃、大阪の戦前戦後の習俗も学びます。戦後直ぐまで、多くが蓮レンコンに覆われ湿地帯。民は、丘を除いて、小舟で移動していたと。私の子供の頃でも、古びた小舟が残っていました。  つまり、たった何十年前まで、湖ではないが湿地(水深2m以上、底ぬかるみ粘土質)が多く...古代の西暦3~4世紀くらいなら、船で移動は可能だったと推測されます。
@user-wj5yo9xx4l
@user-wj5yo9xx4l 2 жыл бұрын
たかが2000年程度でこれほど地形が異なるとは・・・ビックリですね・・・ 神武天皇の東征は妙にリアルな記述が多い・・・ 私も単なる神話と片づけることは出来ないと思ってました
@user-ke1xz7lw3m
@user-ke1xz7lw3m 2 жыл бұрын
神武の大和入りと、継体天皇の即位に関する記述には共通点が多く 神武の大和入りは継体天皇の大和入りを投影したものではないかとの説がある 私もこの説は正しいと思う 東征にあたる歴史的な史実があったのは事実だろうが 神武の神話は複数の史実を練り直して作られたものではないかと思いますよ
@user-me5ie4my9p
@user-me5ie4my9p 2 жыл бұрын
@@user-ke1xz7lw3m 神武天皇が東征で、海から上陸した生駒山付近は、 紀記が編纂されたときにはすでに陸地だったんですが、 神武天皇の時代には海という記録があり、 ここを地質調査したところ、少なくともこの地域が海であったのは、紀元前50年より前のことだということです。 継体天皇は、それよりもはるかに後世の人物なので、同一人物ということはあり得ないと思います。
@user-ke1xz7lw3m
@user-ke1xz7lw3m 2 жыл бұрын
@@user-me5ie4my9p 同一人物というのではなく 神武天皇の話を作るのに至り、継体天皇の大和入りの過程を参考にして作ったと述べているのです それにしても神武の東征が紀元前とは私は考えていない せいぜい二世紀ごろ、古墳時代が始まる前くらいだと思っています 東征にあたる何等かの伝承はあったのでしょが、それを核としておそらく複数の支配者の功績を参考に作られたのでしょう
@caiocesar7919
@caiocesar7919 Жыл бұрын
共通点が多いからと言って同一人物だと言い出したら世界中の歴史が覆されてしまうな
@user-dv3fo5dm6c
@user-dv3fo5dm6c 8 ай бұрын
2000年前どころか戦国時代も今現在には存在しない池とか出てきます
@宴は終わったが
@宴は終わったが 2 жыл бұрын
動画ありがとうございます。 れーしさんは九州南部出発説を採用をしているのですね。wikiだと九州北部出発説があるようですね。 ナガスネヒコ、女賊との戦争の話は旧約聖書でのヨシュア記、士師記をイメージさせます。 古代史はロマンというかいろいろな謎な部分があるところに面白さがありますね。
@100EIZO
@100EIZO 2 жыл бұрын
東征の必要性というのは大事ですね、末っ子だから残りの財産が少なかったということもありそうですね
@syoheyxxx681
@syoheyxxx681 2 жыл бұрын
神武東征の流れは大まかに把握しているつもりですが文章で読むより短編劇にしてもらった方が面白く楽しめますね。どこかの会社でゲーム化していませんかね?RPGでも戦闘ものでも楽しめそう。
@user-ve7un8hy7m
@user-ve7un8hy7m Жыл бұрын
筑紫で1年、安芸で7年、吉備で8年...は東征と言うよりも安住の地を求めたロマ族、ユダヤ民族、 ゴート族等の移動が 浮かびます。...河内湾、河内潟、河内湖....等..神話とは思えない当時の地理的状況. 又..瀬戸内とは違う.外海..熊野灘の荒れ模様..地域土豪との摩擦..等は.神武東征を 実際に起きた事を.. ベースにして..編纂された感が 強いですね..!
@user-tl3yo3nw7w
@user-tl3yo3nw7w 2 жыл бұрын
神武東征は当時の稲作の収穫量の限界が来て、入植を行ったんじゃないかな。宮崎は平地が少ないですし、他の九州の国を討伐するのはリスクが高い。 瀬戸内海の交易が活発化して今の近畿地方なら大きな国もなく入植しやすいだろうと考えたのかも。
@Shinzine
@Shinzine 2 жыл бұрын
入植船団説、ありそうですね 大和の地に入るまで各地で年単位で滞在していたのも、兵士(実際は移民)の現地での生活を手伝っていたのかも
@user-ke1xz7lw3m
@user-ke1xz7lw3m 2 жыл бұрын
大和朝廷黎明期には吉備の影響力が強かった 神武東征はおそらく吉備と組んで行われた事でしょう 吉備は現在の岡山県だけではく広島県など、瀬戸内の広い範囲を支配した大国です 九州の宮城県高千穂を拠点とした部族が、吉備と組んで畿内に侵攻したと考えればわかりやすい
@user-cl9en1ju1m
@user-cl9en1ju1m Жыл бұрын
たぶんそれが正解で神話は先祖が西方からの移民であったことを描いている。神武どうのこうのは作り話
@user-pv3ow1jg9o
@user-pv3ow1jg9o Ай бұрын
宮崎が平地が少ないなんてとんでもないです!何かの番組ぽつんと一軒家の見過ぎだと思います!宮崎平野と言われる程広いですし稲作は超早場米が出荷される等温暖です、問題が有るとすれば高知県や同じで平地が広いので南海トラフ地震の時津波で避難場所つまり高い所が少い事です!
@user-hg5no2bz4j
@user-hg5no2bz4j 3 ай бұрын
私の推測では、神武東征伝説は九州の勢力が東へ都を移しながら最終的に奈良にたどり着いた話ではないのかなと思います。
@juntakada1020
@juntakada1020 2 жыл бұрын
お待ちしておりました! ぷるぷるゆっくり嬉しいです( ⸝⸝⸝ᵕᴗᵕ⸝⸝⸝ )
@mocchi2643
@mocchi2643 2 жыл бұрын
九州で強国に圧迫されて滅亡の瀬戸際にあったから、神武天皇は乾坤一擲の大勝負として東征したのでは無いだろうか?
@user-un6zp8de7m
@user-un6zp8de7m 2 жыл бұрын
次回にサッカー日本代表のユニフォームに描かれている八咫烏が来ますね。
@kansuke1126
@kansuke1126 2 жыл бұрын
東征軍というより、移民団だったというのが真相のように思います。交通手段が発達しておらず通信もない時代に日向にいながら大和の様子が分かったというのは不自然です。何らかの事情で日向を出ざる得なくなったのでしょう。親交のあった九州の豪族に立ち寄り情報を入手しつつ、中国地方に入植する予定だったのでしょう。特に吉備に6年いたのは、実際にそこである程度入植が成功したと思われます。ただ、6年たつ間に、吉備と地理的に近い大和の情報を入手し、むしろそちらに行ったほうがいいという判断に至ったのかもしれません。6年もいれば軍備を整える時間もあったでしょう。あるいは、吉備の現地勢力との間に諍いが起き追い出された可能性もあります。古事記、日本書紀で安芸や吉備に関する記載が少ないのは、現地勢力に追い出された事実を伏せているからかもしれません。
@user-zk9sh6dr3y
@user-zk9sh6dr3y 5 ай бұрын
そもそも神武東征って何人ぐらいで移動したのでしょうか?整備されてない道の移動・全員の朝昼晩の食事・武器とか着衣とか食材備品の移動など信じられない程の費用がかかりますよ。それをあの時代に有名でもない人間の団体が出来るとは思いません。
@user-yn5mg3od8l
@user-yn5mg3od8l 2 жыл бұрын
科学的、論理的に考えると長浜浩明の「日本の誕生」にある通りの結論が非常に合理的。気になるのは長髄彦と同じルーツだったみたいだけど、そのルーツとは何だったのかというところ。
@doryuji
@doryuji 2 жыл бұрын
チラッと地元が出た^^ ぷにぷにしてる方がかわいいし、誰が話しているのかわかりやすいです。
@masaf2717
@masaf2717 Жыл бұрын
古い時代の備前国の一宮である神社、安仁(あに・兄)神社というところがある。 東征の時に亡くなった3人の兄を奉ったとされている。場所は根拠とした高嶋宮から当時の海路で東の湾に入った場所。 比較的大きな神社である。
@takashi-aoki
@takashi-aoki 2 жыл бұрын
大学の時の卒業論文でした。ビコになるのは名詞の第2音節の子音が濁る関東方言でイワレヒコの方があってますね。
@user-ct8fk3cx8t
@user-ct8fk3cx8t 2 жыл бұрын
ただ九州に他に大国が存在するのに、東征の為に兵力を割くのはリスキーすぎる気がするんだよな… 手薄になった本国が侵略される可能性も高いし
@user-kf6xc2lq6j
@user-kf6xc2lq6j 6 ай бұрын
戦後における初代神武天皇から9代開化天皇までの実在論を総括すると、実在論者が架空及び後世造作論者の論拠や主張を論破しても、実在論者自身が上記の初期歴代天皇が実在したことの決定的な証拠を発見していないことが特徴である。 例えば、系譜伝承の古さを論証しても、伝承中の各代天皇そのものが実在した証拠の提示に至っていないのである。 それはまた、なかったことを証明することが、あったことを証明する以上に困難であること、いわゆる消極的事実の証明(または悪魔の証明)の論理を盾にしているように見えるからだ。
@chartreux8673
@chartreux8673 10 ай бұрын
本当にこう言う形で東征が行われたのであれば、後に土蜘蛛退治と言われる再西征を行うのが不自然な気がするし、天皇の格と面子を立てる為にこういう話にしたが実際の所は九州の他の強国に圧迫されて東に“落ち延びた”と言うのが実態に近かったんじゃなかろうか? 大遠征軍と言うには合戦に弱く、奈良付近に落ち着くまであまりに平和的に移動出来ている そう考えると東征開始後、全く九州にある筈の遠征出発国家との関わりが全く見られない事やその国すらはっきりしない事 かなり長い期間にあちこちに駐屯しながら移動を続けた事も四国や中国の地で落ち着かなかった事も納得がいく
@hsp7621
@hsp7621 2 жыл бұрын
とても分かりやすくて面白いです。 五瀬命が泣きさけんで海に血が流れたのが男里川の北側の海岸で、イワレビコが重症の五瀬命をつれて浜に上がった場所が尾崎。 そこから山中渓を歩いて紀国の竈山で崩御した、と言われています。 尾崎からはご先祖様の領地内だったので、道まで教えてもらってます。
@user-qz3go1ft3p
@user-qz3go1ft3p 2 жыл бұрын
西日本王権による秩序の再編物語でも ありそうですね吉備までの行動や現地側の 対応などを見て行くと。で熊野まで行くのもその一環では?
@BB-lb7pi
@BB-lb7pi 2 жыл бұрын
神武東征を「無い」と考える方が無理っしょ…
@haginoichiryu388
@haginoichiryu388 2 жыл бұрын
五瀬命を祀っているのが、和歌山電鐵竈山駅近くの 竈山神社だそうな。今度、お参りに行ってみようぞ。大和とは目と鼻の先なのに、さぞ無念だったであろう!イワレビコ一行は、生駒山での戦を退いた後、紀ノ川沿いから北上した方がいいと思ったが難しかったか。
@user-gc4lu1ur2p
@user-gc4lu1ur2p 2 жыл бұрын
素人考えだと「塩」を扱い様々な物品と情報を交換した行商ネットワークがあって、「塩」が行商を指す言葉で「塩土老翁」は塩と土器を取り扱っていたのかもしれないなぁと考えてみたり
@maron9648
@maron9648 2 жыл бұрын
くっそ面白く見てるけど倭人伝の通りなら、投馬国の南に邪馬台国って配置ですね。しかも投馬国と邪馬台国は隣接レベルに近接してるようです。
@Shinzine
@Shinzine 2 жыл бұрын
魏志倭人伝によると 投馬国の長官は「ミミ」といい、副官は「ミミナリ」と呼ばれていたという キスミミ・タギシミミの二人の名前に繋がるものを感じますね。 投馬国=後のヤマト王権と考えると奴国・邪馬台国との関係が気になりますが、個人的にはかなり友好的な関係だったんじゃないかなと思います 邪馬台国にとっては敵対の狗奴国を挟撃出来るし、太平洋に面していて海上交易がしにくい投馬国にとっては大陸交易の中継や鉄器の確保が出来る 神武天皇の東征で当初北部九州に滞在したのも、奴国・邪馬台国を通じて鉄製の武器防具を調達していたんじゃないかと
@user-vd1jw9nf8u
@user-vd1jw9nf8u 2 жыл бұрын
神名や古代の名前には末尾にミやミミが付くものが多いですね。現代の女性の名前も○美や○実などミが付くのはその名残という話も^ ^
@takahiroi5522
@takahiroi5522 2 жыл бұрын
イワレヒコは最初は総大将ではなかったんだろうな 上3人が死んでしまったので、最初から総大将だったって事にしたんだろう
@user-wo9oy8vb2r
@user-wo9oy8vb2r 2 жыл бұрын
いえ、動画にも有った通り、当時は末子が家を次ぐことが普通だったから、最初から末子であるイワレヒコが大将ですよ。 大国主命が素戔嗚尊から出雲を受け継いだのは、素戔嗚尊の末子の「スセリビメ」と結婚したからですし。
@takahiroi5522
@takahiroi5522 2 жыл бұрын
@@user-wo9oy8vb2r 末子相続の基本は上が「独立」していって、最終的に末子が残った父親の財産を相続するって事で、神武東征に関して言えば兄弟が共に東征に参加しているのでその例には当てはまらない 独立して別の家なのに何で弟の言うことに従わないといけないんだ?って話になる その話がなく、兄弟仲良く東征してるので、末子相続に関しては疑わざるを得ない
@user-wo9oy8vb2r
@user-wo9oy8vb2r 2 жыл бұрын
@@takahiroi5522 本来の末子継承の意味合いとしては、おっしゃる通りですが、この当時は既に長子が独立したかどうかは関係無く成っているんですよ。 二代天皇である「綏靖天皇」も、二人の兄が居て長兄が政務の多くを取り仕切っていたにも関わらず、皇太子になっていましたからね。 神武天皇の父親「鵜葺草葺不合命」は一人っ子でしたが、その父「火遠理命」も天孫降臨の「邇邇芸命」の末子です。 また、仮に末子相続ではなく3人の兄が死んだからイワレヒコがトップになったのなら、それを隠す必要なんてないでしょう。 「日本書紀」や「古事記」などが編纂された時代は、既に長子相続の時代なのだから。
@Amichans
@Amichans 2 жыл бұрын
国津神さん亀仙人説浮上@_@
@user-ow1ww6cf7p
@user-ow1ww6cf7p 9 ай бұрын
神武東征は実態は数百人規模の移住集団だったのでしょう。 年代紀元前200年から紀元100年の間あたりではないかと思います。 後々ヤマト王権として奈良をまとめ上げた家系のルーツがその移民集団だったというだけで移住当初は大したことない小集落だったと思います。 欠史八代は弱小だったため記録がなかったのだと思います。 つまり強力になった大和朝廷が自分たちの先祖の入殖事業をかっこいい物語にして祖先に伝えたものが神武東征だと思います。
@toma282
@toma282 2 жыл бұрын
なんか古代の島津四兄弟が天下統一の為上洛してるみたいw
@2ytku723kp
@2ytku723kp 2 жыл бұрын
神武東征は日向の国が疫病や自然災害などで壊滅的被害を受けたための乾坤一擲な大遠征だった可能性もあるのだろうか? 単に耕作地とその水源や森林伐採地が欲しいのならまずは周辺の地や小国(集落)を制圧するって思考の方が先だろうし
@れーしch歴史
@れーしch歴史 2 жыл бұрын
自分もその可能性があると思います!世界的に見ると民族の大移動って、気候変動で食料が不足し別の土地に移動する事が普通だと考えております。噴火と考えた人もいるみたいなんですけど、それもあり得るかなと個人的には考えております。投げ銭ありがとうございました。感謝です!
@modoricyan6076
@modoricyan6076 2 ай бұрын
熊の毒気にあてられ兵士が次々と倒れていったのは、たぶん硫黄ガスのせいじゃないかな?玉置神社で特異な枕状溶岩を見たのを思い出します 熊野には火山はないけど、地下マグマの痕跡や硫黄泉や水銀の原料となる赤い賢者の石の鉱床、飲めない水が流れる川もある
@sunsun2181
@sunsun2181 8 ай бұрын
広島と岡山に立ち寄ったのは、水銀鉱脈があるからです。そこで朱を作っていたのです。当然売れば、軍資金になります。 そして、神武天皇が狙ったのは、まあ畿内で安心な土地ですが、大和水銀鉱脈ですね。
@malkotoisu9730
@malkotoisu9730 Жыл бұрын
丹敷戸畔と戦った場所と思われる錦から宇陀に行くには高見山を一つ超えるだけでいける。大軍が宇陀に行くのに現実的な道はそこしかないと思う。
@user-pb7vh9tt5l
@user-pb7vh9tt5l 2 жыл бұрын
この頃って沢山の国?があって何回も戦うはずなのに大和の手前で初めて戦うってどうゆうことや…神武天皇グループが強すぎて戦おうとしなかったんですかね
@EBIFRY20hey
@EBIFRY20hey 2 жыл бұрын
お互い血を流して消耗するよりは、それなりに地位や権限が保証される同盟や婚姻関係を結んでおいた方が為だったと思います。 イワレヒコ側も懐柔を主にしてたのでしょうし。
@user-vd1jw9nf8u
@user-vd1jw9nf8u 2 жыл бұрын
河内まではすでになんらかのネットワークが出来ていたのでは?
@user-pb7vh9tt5l
@user-pb7vh9tt5l 2 жыл бұрын
@@EBIFRY20hey はえー。でもやっぱり中国史とか見てると違和感しかないっすね
@nekono_mimikon
@nekono_mimikon 2 жыл бұрын
縄文時代、日本における人口のほとんどは東日本にあり、西日本は九州に多少いる程度でした。 ところが弥生時代から西日本の人口が増え始めて、西日本の人口は東日本に匹敵するほどになります。 神武東征は九州の民が無人の荒野だった西日本に入植し大繁栄する物語なのでしょうかね。
@user-kf6xc2lq6j
@user-kf6xc2lq6j 5 ай бұрын
津田左右吉は、『記紀』の神武天皇の日向つまり南九州からの東遷について、潤・脚色以上にその東遷自体の事実を、確かに否定している(一方で神武天皇以降の歴代の実在は肯定)。その内容は、戦後の著作『日本古典の研究(上)』(岩波書店)第2篇第6章「神武天皇東遷の物語」を参照である。 しかし一方で、同著作第3篇第16章「ヒムカに於けるホノニニギの命からウガヤフキアエズの命までの物語」では、天孫ニニギの命の子であるヒコホホデミの命(別名、山幸彦)の大和東遷が伝承の原型であると述べていた。そして後世になり、ヒコホホデミの命から後に神武天皇と言われるイワレビコの命(別名、ヒコホホデミの命)が分離して、その間にウガヤフキアエズの命の伝承が造作・挿入されたと述べていた。 以上のことから津田は、神武天皇の東遷を否定していながら、後の大和王権(同朝廷)の祖先が南九州から畿内大和への東遷の伝承を最終的には否定しきれなかったと理解せざるを得なかった(そして大和王権の祖先そのものの実在もである)。
@user-bc4ki1hi6x
@user-bc4ki1hi6x 2 жыл бұрын
れーしさんの歴史解釈いつも面白いです。大和政権が誕生する、いわゆる謎の4世紀は色んな学説があって面白いです。自分はb九州説も畿内説もどっちも好きです、むしろ永久に謎であってほしいと思うほど(小声)そのほうがロマンがあっていいじゃないですかww
@hermitlogger
@hermitlogger 2 жыл бұрын
「河内潟(湖)の存在」で神武東征実在説を言うのなら、さらにそれを深掘り補強する「『南方』を通って、の記述」にも触れるべきでしたね。  「日本書記」の作者は、これを動画作成者と同じように「南方に移動した」と解釈してますが、この解釈だと「大阪平野の『陸地』を船で和泉方面の海に行った」ことになり、本居宣長も「これおかしいな?まあ神話だしな…?」といってます。  この謎は、大阪に『南方みなかた』という地名がしっかり残っており、これは「水潟」もしくは「南潟」で、現在では陸地だかかつては「潟=浅い海」だった事を意味します。  「日本書記」が書かれた時代は「みなかた」はすでに陸地だったので、日本書記の著編集者は、当て字である「南方」をそのまんま「南の方向」と解釈して「南の方を通って」と解釈してしまったのです。
@user-ol2nw2hz9j
@user-ol2nw2hz9j Жыл бұрын
神武東征は「正統竹内文書」では西暦紀元1世紀ころですね。この動画にほぼ近いが微妙なずれが見えるが、大した誤差でないとみておきますか。
@giantszero6962
@giantszero6962 Ай бұрын
河内潟と河内湖の違いから東征時期を絞り込む、なるほど。 個人的には史実だが邪馬台国時代以降の話かなと思ってます。
@panda688
@panda688 2 жыл бұрын
マップルの地図なんですけど、大和川が直接大阪湾に流れ込んでますね。付け替えが成功した江戸時代までは生駒山の麓に沿って河内湾(淀川)に合流していたと思うのですが、新説がありましたっけ?
@eijisakai9878
@eijisakai9878 Ай бұрын
生駒山の西、大阪府大東市に津の辺町、野崎という地名がある。この辺りが白肩の津でしょう。弥生時代、記紀が編纂された時代でもこの辺りまで海。神武東征が紀元前であったことにはならない。
@user-wz3vk7ip5o
@user-wz3vk7ip5o Жыл бұрын
血=>地 になっています。 長男の傷を洗うシーン。 8年も吉備周辺で費やしていた 理由は何なのか? 古代のカウントで実際はその半分だったのか?
@user-rx2mo3pu9n
@user-rx2mo3pu9n 2 жыл бұрын
神武兄弟が宮崎弁 ながすねひこ?が関西弁だったらもっとリアルだったかもしれない
@866083
@866083 2 жыл бұрын
日向って前から「ひむか」って読んでましたっけ?
@れーしch歴史
@れーしch歴史 2 жыл бұрын
「ひむか」と読んだ方が雰囲気が出る感じもあるので、以前から読んでいる感じです!
@user-wg4ng7rn7v
@user-wg4ng7rn7v 10 ай бұрын
神武天皇の先祖は誰々ですか? 何処に住んでいたのでしょうか。まさか雲の上に住んで居たのではないでしょうね。
@kawaguchikolupinus9570
@kawaguchikolupinus9570 Жыл бұрын
大阪周辺ではありませんが、東北の「松島」も江戸時代は海、今じゃ陸続き。 まぁありえなくはない話ですね
@kazukazu2285
@kazukazu2285 2 жыл бұрын
九州だと火山噴火の影響で新たな地を求めた可能性が有ると思います
@れーしch歴史
@れーしch歴史 2 жыл бұрын
その可能性もあると考えております!噴火の詳しい記録とか分かれば、また面白いかも知れませんね!
@nihontaro9
@nihontaro9 2 жыл бұрын
古事記では神武と物部の東征がごっちゃになって描かれていますね。物部の東征は二回ほどありました。
@minakatamanabu7413
@minakatamanabu7413 2 жыл бұрын
阿蘇の破局噴火によって九州の縄文文化が滅んだのとリンクしているという説も・・・「紀元前66x年、九州は破局噴火の炎に巻き込まれた・・・あらゆるものが死に絶えたかに見えた・・・だが、人類は死に絶えてはいなかった!」というナレーションから始まる作品として作れそうですね。
@user-uz2wn6zi8n
@user-uz2wn6zi8n 10 ай бұрын
所々ツッコミ所がありすぎる笑
@user-jh1or4lj1x
@user-jh1or4lj1x Ай бұрын
わざわざ引き潮の時に海峡を遡る馬鹿はいない。また、湾内は引き潮時は水深が浅くなり座礁し易くなったり干潟が発生して進み難い。神武東征はもっと陸化が進んだ5世紀以降の草香江の描写ですね! 河底池付近にあったとされる水路は人工的に掘削されたものではなく、自然に決壊したものです。
@user-gg1tl6jl3l
@user-gg1tl6jl3l Ай бұрын
東征が5世紀というのはナンセンス。実在が確定している雄略天皇は5世紀の人で、天皇家の21代目とされる。東征が1世紀頃にあったと推定するのは妥当な見解。
@user-jh1or4lj1x
@user-jh1or4lj1x Ай бұрын
@@user-gg1tl6jl3l記紀には神武と 崇神の2人の初代天皇がいる。崇神は九州倭国の初代。神武は畿内ヤマトの初代。神武と欠史八代だけが天武の先祖。
@YO-high
@YO-high 2 жыл бұрын
動画お疲れ様です。個人的には、狗奴国こそが大和朝廷の前身なのかなぁと思っております。 イザナギイザナミの国生みの中で、築紫島(九州)の4つの顔、白日別(築紫国)、豊日別(豊国)、建日向日豊久士比泥別(火国)、建日別(熊曾国)のうち 白日別が伊都国(奴国)。豊日別は扶桑(うさ)国もしくは邪馬台国。 建日向日豊久士比泥別こそが邪馬台国っぽいけれど、投馬国かなぁ。 その南側にある熊襲国こそが、日本を建てた国(建日別)かなぁと。 ま、我ながら妄想の類だなぁと思ってますよ。 次回も期待しております。
@sunsun2181
@sunsun2181 8 ай бұрын
日向は、実は宮崎県ではないんだよね。九州北部 今の春日市に「日向峠」がありますが、そこです。実は神武天皇は伊都国の王子だったのだ。原田大六先生の本にあるから、読むとわかります。九州北部なら、今まで「なんでやせた土地の南九州に住んでいたんだ?」とか、「イザナミたちが暮らした瀬戸内海周辺から、えらく遠い」という謎が消えます。
@Mr.Nobody-rk3eo
@Mr.Nobody-rk3eo 4 ай бұрын
神武東征はあったかもしれないが、古事記・日本書紀に書かれていることとは実態は違ていたのでは? 多くの人が、九州から畿内へ都が移ったみたいな大規模な話に解釈するけど、自分は違うと思う。 神武東征の実態は、畿内で起こった内乱で、そこに全国から援軍として駆け付けた。その中に神武軍がいたと思う。 例えるのなら、応仁の乱は畿内で起こって、将軍家や管領家の家督相続の戦争が主要因だが、 その中に、周防の大内家なども援軍として参戦していた。神武軍もそれに近いと思う。
@user-kf6xc2lq6j
@user-kf6xc2lq6j 11 күн бұрын
神武天皇は、実在を立証するのは困難とされるが、架空を立証するのは実在を立証する以上に困難とされている。だから、「架空」が確実に立証されない限り、「実在」を前提に歴史を語らなければならない。 ただ今日の日本古代史研究の基本となっている津田左右吉説について、津田は神武天皇の架空を立証したとされているが、これは誤解だ。それは津田左右吉全集第24巻471~472頁に掲載されている津田事件裁判控訴の上申書には「(前略)或る時期に於いて大いに皇威を伸長あそばれた英主、即ち神武天皇の御名によって後に伝えられました御方からの御歴代の天皇の御名はこのやうにして言い伝へられて来た(後略)」として神武天皇以降の実在を肯定している文章だった。
@user-jk6dn2ov2c
@user-jk6dn2ov2c 2 жыл бұрын
奈良湖なんて初めて聞いたよ
@tktk5656
@tktk5656 2 жыл бұрын
35:10 低体温症かな?
@ToshiF
@ToshiF 8 ай бұрын
神武東征はあったし、それは邪馬台国や女王国の東遷ではなかったでしょうね。邪馬台国と大和の王権は別々だったでしょうね。考古学者は日本の神話をもっと参考にしなければいけないと思います。
@kappanouen
@kappanouen 2 жыл бұрын
長男から(順番に成人するので)独立していき『結果的に』残った末子が家督、というか残った財産を継承するのは遊牧民なんかの文化がそうですね
@user-qz3go1ft3p
@user-qz3go1ft3p 2 жыл бұрын
結構合理的で感心する慣習だと思いましたね。
@user-vd1jw9nf8u
@user-vd1jw9nf8u 2 жыл бұрын
海洋民族にもありますね。
@user-bm8ci1vy5f
@user-bm8ci1vy5f 2 жыл бұрын
順当にいけば年長者から先に戦場に出ることになるし、当然ながら寿命も先に来るので、最後に残った一番若い人に財産を託すのは理にかなってる。
@EBIFRY20hey
@EBIFRY20hey 2 жыл бұрын
200へぇ
@user-ol2nw2hz9j
@user-ol2nw2hz9j 8 ай бұрын
ミケイリヌはエジプトに行ってピラミッドを築き、イナビは新羅に行って脱解になった話知りませんか。 まあ、日本からエジプトは遠すぎるが。脱解だとイナビは神武軍の支援軍かなあ。神武軍を新羅が後方支援??? 参考にしてね。
@user-qz3go1ft3p
@user-qz3go1ft3p 2 жыл бұрын
ワイもぷにぷに派かな
@user-qu1wt2of9o
@user-qu1wt2of9o 2 жыл бұрын
以前自分がコメントした小舟だったら船で行けるんじゃね?という奴も取り上げてくださりありがとうございます 今回コメントしたいのは、歴史は点ではなく線で繋がるものであるって事です これを踏まえると、神武天皇の年代がある程度絞れるのではないかなと思っています 日本の古代の天皇で年代も存在もほぼ真実だろうと言われているのは 30代敏達天皇(572年即位)くらいからだと思います (前後の天皇がいないという意味ではなく年号も確実という意味です。 自分は失史八代も含めてすべての天皇の存在を否定するべきではないと思っています。 もちろん存在しない証拠があるならそちらを信用しますが、ただの説では説得力がありません) 21代雄略天皇は鉄剣が出ておりまして471年頃の天皇という見方が強そうです この10代分の天皇は約100年、世代にしたら4世代となり、1世代平均25年です (継体天皇がいる為、実際は4世代より若干短くなりそうですが一応大きめに25年とします) 次に広開土王碑文に描かれた物語ですが、それに該当する日本書紀などの記述は神功皇后に当たります 神功皇后は14世仲哀天皇の皇后ですので雄略天皇から4世代、時代は約80年となり1世代平均は20年です 古代の人は平均寿命が30歳くらいと言われており、天皇家は当然良いもの食べてるだろうから寿命は長めでしょうが こういった平均寿命を考えると男子も女子も精通、初潮が着た頃には子作りに励んでいたのかなと思いますので 子の世代は20年程度の区切りはあったのだろうなと思います また現代より栄養価は低いと思いますので、初潮の来る年代は今より遅いと推測します また平均寿命から考えて連続して30歳以上の時の子供が世継ぎになることは少ないと思います 上記の天皇の世代と年齢の推測データでも20年~25年が1世代の平均ですので この予想はある程度正しいとします これを踏まえて、次の推察に入ります 7代孝霊天皇は仲哀天皇から7世代遡ってます 先ほどの計算式で考えると西暦220~250くらいに即位したと予想できます 皇女の倭迹迹日百襲姫命の箸墓古墳が炭素年代測定で3世紀中~後半(260年頃)です ここから予測年代とのスレは少ないとは思いますが 炭素年代測定の結果と在位年予想を寄せて考えると西暦250年に近い即位の方がありそうです なお、魏志倭人伝の記述と箸墓の形状が異なるから4世紀の古墳だとする説はここでは考えていません あくまでも科学的調査結果をそのまま尊重しています 更にそこから6世代遡ると神武天皇となりますが そうすると計算では西暦100~130年頃となります もちろん、これは誤差もあるかと思いますので+-40年程度はズレるかもしれませんが 天皇が人間である以上は150年以上のズレは絶対に起こらないかと思います もしも神武東征が紀元前だった場合は 「天皇家の系図が大幅に間違っており、もっと天皇の数が多い」 「神武天皇は皇室の祖先ではない、崇神天皇や応神天皇、継体天皇あたりが本当の祖先であり、全然関係ない東征伝説を皇室の祖先にくっつけた」 こういったパターンになってしまうかと思います そうすると記紀の系図や伝承から日本の建国年を推察しようとしているのに その前提条件を否定してしまいますと結果も無意味になってしまいますので このことから紀元前の神武東征は記紀の皇室の系統図が正しければあり得ないかなと自分は考えています
@れーしch歴史
@れーしch歴史 2 жыл бұрын
こちらこそ、ありがとうございます。小舟で行けるなどは自分にとっては凄く斬新で興味深かったです。
@yuzosirakawa3701
@yuzosirakawa3701 2 жыл бұрын
白肩(しらかた)が枚方(ひらかた)となったのかも知れません。
@user-vd1jw9nf8u
@user-vd1jw9nf8u 2 жыл бұрын
肩は潟で枚は平の意味がありますから湿地が広がっていた場所というのが枚方の地名の由来の説がありますね。位置的にもあの辺ですし^ ^
@yuzosirakawa3701
@yuzosirakawa3701 2 жыл бұрын
なるほど、そうでしたか。よくわかりました。ありがとうございます。
@shou-sho
@shou-sho 2 жыл бұрын
古事記には「白肩津は楯津あるいは日下の蓼津ともいう」と書いてあり、現在の東大阪市新庄~日下町のあたりと考えられています。 枚方だと京都に行ってしまうので、ちょっと離れてますね。
@hermitlogger
@hermitlogger 2 жыл бұрын
同時、河内潟から見ると枚方・交野市がある「交野台地」の端が「肩」のように河内潟に張り出していたので「肩野→交野」そして白い砂礫(淀川の砂礫は白い)の肩だったので「白肩→枚方」(河内弁は「し」が「ひ」に訛る。「しつこい→ひつこい」「しち→ひち」など)説ですな。
@hermitlogger
@hermitlogger 2 жыл бұрын
@@yuzosirakawa3701 @なん氏の説もあり、その場合は現在の枚方市駅~枚方公園駅の淀川沿いが、かつて大きな湿地帯だったと推測されるので、そこを指してることになります。
@user-hj5wo8cy4g
@user-hj5wo8cy4g 4 ай бұрын
東征は九州から始まっていません 菊地家ゃ゙オウガ家は早期平定をのぞんデイマシタシた😂
@may23k68
@may23k68 6 ай бұрын
ほとんど武器出土がない地域 に東征などおかしな話。 侵略、掠奪、虐殺の部類では?
@ernest-tachibana
@ernest-tachibana 2 жыл бұрын
神武天皇は瀬戸内海を通ったというのに見事に四国をスルーしていますね。やっぱり本家とは喧嘩したくはなかったんでしょうね。
@user-eo7rp1ty6p
@user-eo7rp1ty6p 8 ай бұрын
🔴大神宮の時代です‼️ 古代史ファンタジーですネ‼️ 神武東征が邪馬台国時代にタイムスリップ‼️ 古代史戦国自衛隊‼️・・・おもしろい‼️‼️‼️ ⛩️🇯🇵🦜🐦🕊️🐍🪂🌈🌠🌏㊗️🎌❤️💘🔴
@user-vs7gl7zl4y
@user-vs7gl7zl4y 2 жыл бұрын
個人的には神武天皇どうこうの話題は やはり確固たる証拠が見つかってほしいというところですね (実在の証拠が出せない限りは神話の域を出ないですから)
@shou-sho
@shou-sho 2 жыл бұрын
いやいや、江戸時代でも白肩津どころか奈良盆地まで船で行けますから(笑) リンク先の地図ですが、大和川の流路が完全に間違っています。今の大和川は江戸時代に大工事を行ったごく最近のものです。 実際はこっちが正しいです。↓ 淀川河川事務所HP 「淀川の成り立ちと人とのかかわり」
@laudywnony4549
@laudywnony4549 2 жыл бұрын
ここで問題にしてるのは汽水湖の特徴の潮流であって川を遡上することではないと思います。
@sanemasamizuki9
@sanemasamizuki9 2 жыл бұрын
神武東征とたたら製鉄との繋がりを考えて神武東征実在説をとなえる方もいますよ。俺も、その方の説を支持しております
@hikarusakihara6567
@hikarusakihara6567 2 жыл бұрын
神武東征は日本の歴史の中でも一番ゾワゾワしますよね。神話と実際の歴史が混在してる感じが旧約聖書じみてます。末子相続は遊牧民特有の社会制度だし、国津神と天津神の国譲りは先住民への侵略を侵略者側の視点で正当化した表現にしか見えない。はたして古くから言われてるように九州に勃興した渡来系の侵略王朝が東に向かって征服していったのが日本の起源なのか?そう単純な話でもないんでしょうがとにかくゾワゾワしますね。
@user-vd1jw9nf8u
@user-vd1jw9nf8u 2 жыл бұрын
遊牧民以外にも末子相続はあるから特有というわけでもないと思います。いろんな可能性がありますね。
@user-me5ie4my9p
@user-me5ie4my9p 2 жыл бұрын
遊牧民族説はないと思います。 後漢書には古代の日本には牛や馬、羊はいなかったと記録されているし、 古代の日本は湿地帯や山や渓谷が多く、平地が少なかったので遊牧には適さない土地です。
@yskztkhs7986
@yskztkhs7986 Жыл бұрын
天津神は外国ではなく天皇家とその家臣の一族のことですよ。 日本書記を読めばわかるけど、外国はアウトオブ眼中です。 ひたすら列島のみです。もし外国ならそのことを書きますよ。 中華の民が野蛮な倭人を教化してやったと。
@seiji5431
@seiji5431 Жыл бұрын
こんにちは。日向風土記には古事記以降の編纂です。古事記の竺紫の日向の高千穂が勝手に宮崎の千帆郷(高千穂)にしてます。日向は神武東遷以前は土蜘蛛集団です。竺紫の日向は筑紫の日向国ではないです。また、高千穂って書いてあるのに千帆郷が高千穂と言ってます。意味は竺紫は尽きる所日向は東です。東に尽きる所の高千穂です。阿波に東の尽きる所の高千穂(地名がある)です。ニニギノミコトも神武天皇も彦五瀬も阿波に史跡が残ってます。神武東遷は阿波から淡路島に行って明石海峡から浪速の白肩(東大阪市日下)に行ってます。東遷の瀬戸内海の出来事は東遷前に旅に出かけてます。
@wan6347
@wan6347 Жыл бұрын
豊前・豊後が邪馬台国で、肥前と肥後との三つ巴の戦いが筑後川流域で起きていた。 筑後川流域の西九州から鉄器類が多く出土しているのはここが戦場だったからです。 そこに日向から豊後へ天皇家の先祖が北上して来たのではないでしょうか? もちろん仮説に過ぎません。 結果、宇佐神宮にて和睦交渉が行われて、邪馬台国は天皇家のものになったのでしょう。 そして宇佐から神武東征となったのです。 宇佐神宮の主神が卑弥呼で、左右の神は天皇家の祖先です。 卑弥呼の祟りを抑える目的でしょうね。 事実として、筑前・筑後の豪族たちはその後、何度も大和朝廷に対し反乱を起こしています。 つまり、邪馬台国は豊前・豊後としか考えられません。 その後の景行天皇が豊前・京都郡に仮の御所を作って、九州を再統一していますからね。 じゃあ邪馬台国の中で卑弥呼はどこにいたのか? 田川郡香春町です。 ここは宇佐神宮と関わりが深いのです。 香春岳の麓の鏡山神社には宮内庁の管轄の古墳「河内王の墓」が有ります。 鏡山神社で造った銅鏡を宇佐神宮に奉納する神事が今も行われています。 香春三ノ岳は古来より銅を産出します。 天皇家の三種の神器の一つの鏡はここで作られて贈られた物でしょう。 魏志倭人伝の卑弥呼に贈られたと考えられる三角縁神獣鏡が4枚このから出土しています。 こんな山の多い場所に卑弥呼が居たの? と疑問を持つかも知れませんが、そもそも開けた平野部に都があったと考えるのは間違いです。 日本のお城を見て下さい。 平野部にお城が作られるようになったのは、戦国時代が終わってからのことです。 それまでは山城が中心でした。 これは防衛上、当然のことです。 香春岳は防衛に適した場所にあり、山頂からすぐ近くに豊前海を望めます。 邪馬台国の民は海産物を食べていると記されています。 豊前・豊後はトヨのクニですからね。 福岡県と大分県の境を流れる川は山国川です。 昔は山都川でした。 そうです。 ヤマトであり、ヤマ国川です。 ヤマタイコクではなく、ヤマクニなのです。 卑弥呼の墓は? って話になりますよね。 グーグルマップで近年、ハッキリと前方後円墳としか見えない地形が香春町のお隣から見つかっているのです。 田川郡赤村です。 卑弥呼の時代の石器類も見つかっているのに、学会が古墳と認めないんです。 円形の部分の直径150m 長さ450m 何と魏志倭人伝に記されている卑弥呼の墓と同じなのです。 仁徳天皇陵の次に大きい2番目のに巨大な古墳なのです。 学会が古墳と認めないのは、ここが間違いなく卑弥呼の墓だからです。 ここは田舎です。 逆に言えばこんな田舎の山深い場所にこんな巨大な古墳があると言うのが驚きですよね。 ここが邪馬台国の都であったからこそ、沢山の民を動員出来たのですよ。
@blueskyjet5321
@blueskyjet5321 5 ай бұрын
中々、視点がいいですけど、卑弥呼の墓は大和朝廷の時代に入ってないので、円墳だと思いますよ。邪馬台国が豊前豊後というのは賛成です。 何故前方後円墳でないかわかりますか? まあ、西日本が統一される前、すなわち大和朝廷に代わる前だからです。前方後円墳は統一の象徴と思います。 ということは、宇佐神宮の亀山でいいのではないでしょうか?
@usa7006
@usa7006 2 жыл бұрын
神武の曽祖父は邇邇芸命。邇邇芸命の出身地は畿内で間違いないけど、邇邇芸命は天孫降臨といって、畿内高天原から九州高千穂に降臨した。畿内王朝が出雲を屈服させて全国制覇を達成すると、日本各地に地方官を派遣した。その中に邇邇芸命がいた。その邇邇芸命の曽孫の若御毛沼命(神武天皇)の代に再び畿内に移住した。これが神武東征と後の人が言っている。
@KT-pt7eh
@KT-pt7eh 2 жыл бұрын
自分もこれだと思う。神武天皇は中央にゴタゴタがあったときに天皇家の血筋ということで中央に東征して、新王朝を始めたんだと思う。後の継体天皇と似たような感じだったのでは?
@user-wb3qi2ew6l
@user-wb3qi2ew6l 2 жыл бұрын
よそからやってきた侵略者を撃退しただけなのに、「卑しき者」とか言われて。天孫族に抗った敗北者達は卑しめられ差別されたのだろうな。
@user-hj5wo8cy4g
@user-hj5wo8cy4g 4 ай бұрын
語り部ガヤマト民族ではありませんから😅
@user-pq2db8xc9l
@user-pq2db8xc9l 2 жыл бұрын
神武東征に関しては有無よりもいつあったかが大事な気がします。 天孫降臨は「尊い血が九州に入った」話で、それ以前にある程度の権力構造が別の場所(単純に考えれば近畿圏)に生れていたとも考えられます。 その子孫の神武が「東征」をするというのは、里帰りともとらえられます。 当時、大和の地で疫病が流行って、それを収めるためにかつての高貴な血である神武が呼び戻されたという説があります。 当時、疫病は西からやってくるものだったので、西側に何とかしろ、と思う感情には説明がつきます。 加えて、神武東征の中にも「嵐を収める」描写があるように、天皇の血筋には呪術的な信仰が伴っていました。 ナガスネヒコの反抗は、大和政権の内部分裂という説明になります。 西からくる疫病を西の神で抑えようとする考えに反対したくなる心情も理解はできるので、それなりに筋の通った説だな、と思っています。
@KT-pt7eh
@KT-pt7eh 2 жыл бұрын
神武東征が、継体天皇のように中央でお家騒動が起きた時に凱旋してきたって考えるのはどうだろう?それなら天孫降臨ってのは、天皇家の一家系が日向に土着した話と説明できる。
@user-pq2db8xc9l
@user-pq2db8xc9l 2 жыл бұрын
@@KT-pt7eh 凱旋というほど貴重な人材が九州にいるというのは、ちょっと違和感があるんですよね。奈良は位置こそ近畿ですが地勢的には東日本に属します(纏向の土器の構成や、壬申の乱の際大海人皇子が尾張に行って勢いをつけたことからもわかります)。後の世でも邪魔になった菅原道真が飛ばされたりと、基本的に九州の扱いは大和にとって“僻地”です。ただ宇佐八幡の一件のように呪術的な文脈では九州は権威を持ちます。大和側にも神武東征が起こる動機があるのなら、そのあたりが回答になるんじゃないかな、と思っています。
@bruenhildehaiena
@bruenhildehaiena 2 жыл бұрын
魏志倭人伝は、作者が日本に来ることなしに書いたファンタジーだということが、判明しましたよね。
@co80462
@co80462 2 жыл бұрын
地形からの年代推理というのは面白いですね。 ただ邪馬台国以前とは思えません。 どちらにしても真実はまだ分かりませんが(笑)
@woodbook1014
@woodbook1014 2 жыл бұрын
「当時の日本では長男から順番に独立して家を構え」 と 「イワレビコの長男であるタギシミミは、神武東征に参加するんですけど、次男のキスミミは日向の地に残った」 とは完全に矛盾しませんか。
@user-wo9oy8vb2r
@user-wo9oy8vb2r 2 жыл бұрын
先代旧事本紀では「饒速日命」の正式名を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」と表しているので、饒速日命が実際は「天照大御神」だと言う説がある。 また「饒速日命」は素戔嗚尊の五男である「大歳神」と同一視する説もあります。 「日本書紀」や「古事記」は、当時の権力者である「持統天皇」と「藤原不比等」が自身に都合が良い様に編纂しているので、事実が分かり難くなって居るんですよね。 「天武天皇」がもう少し長生きしていれば、そうは成らなかったと思いますが。
@mbl3529
@mbl3529 Жыл бұрын
実際になければ、古事記や日本書紀にわざわざ、記載する理由が無い
@Kaito5327
@Kaito5327 7 ай бұрын
簡単な話。 日本と言う国が現存し、神武天皇の男系子孫とされる皇室も現存している。 故に、神武東征も事実だった筈であろう。
@snowmountain6804
@snowmountain6804 2 жыл бұрын
つまり、神武の東征ってのは・・・剣山もですが出雲の葦原中津國の勢力圏を避けた瀬戸内海挟んだ四国沿岸を東へ向かったと言う事ですねwww それなら自分も同意。 そして西を攻撃して侵略するのに向けたのが桃太郎(両神)。 そんな状況でも民を護った大国主(≠大黒)大神は真剣に尊敬致します。 ※大黒はインドのシバ (破壊神)。 日本の大国主大神とは後に買ってに創作されただけ。 大体、日本の大神が稲俵の上に自ら座りますか? ここからして大黒信仰は在日外国人によるものとしか判断できません。
@pleasure5458
@pleasure5458 2 жыл бұрын
ワカミケヌだから、長男ですよ。【若】と付いてるから跡取り。母方が三輪の人かもしれませんけど、イツセは義兄では? 素戔嗚尊大王家の大国主命の孫で、事代主の子にして、ヒメタタライスズ姫の兄。名前は、天日方奇日方・タケミナカタ。 三輪族になる跡取り。奧さんは、日向賀牟度美良姫。 クニビキ神の子孫北部九州~島根の八十神に認めてもらえず、父神の天之冬衣神の石川・富山で素戔嗚尊王家を継承して、吉備?の神矢楯姫との間に事代主が生まれ、事代主の富山の妃との子がタケミナカタ・天日方奇日方と?と解析出来るんですが?北部九州~島根の八十神が居るから、日向から南九州の統治をしていた。 伊予の大山祇神神社の由緒には、神武東征の時に孫の小千命が瀬戸内海の治安維持をしていたと👍 大山祇神は、伊豆の三嶋大社・娘は浅間大社のコノハナサクヤ姫。ニニギ命の甥が小千命【計算では、80才?】越智家の初代ですね。 神武東征は、ただの引越で御毛沼=イザナミ?のモデルでワカミケヌとは、実姉?になると思い、文献解析中(^^) 考古学でも、吉備や尾張との関係は確認されてるので、この時のワカミケヌが皇太子になったのは、天津神の阿賀太郎坊宮?と推測。いよいよ【弥】と書きますが(^^) 八十神に耐えきれず、また、西暦に入ってからの九州の火山噴火6個所の影響で姉が嫁いだ日向に義兄を迎えに行き、義兄の妹と後に結婚して、素戔嗚尊王家の王も継ぎ、天津神の王だったので、初代天皇となるのでは? 皆さん・富山関係者ばかりですよね。天之冬衣神・大国主命・事代主・タケミナカタ・神八井耳に綏靖天皇。 義兄は、三輪でワカミケヌの母とミケヌと3人で暮らし、ワカミケヌは、ヒメタタライスズ姫と姫の母と暮らし、仕事場が伊勢遺跡?かな。 熊野から進軍したのは、崇神天皇では?熊野大社創建は、崇神朝。 伊勢神宮は、垂仁26年 崇神天皇・垂仁天皇は、伊賀の城之越遺跡説ですから。 東征時には、何ものなかった。こんな家系図で家庭事情だから、ワカミケヌ意外は、消えた事にして大王家は、神武天皇の系統のみ‼️と大海人皇子が断言したんじゃないんですか⁉️ 知らんけど(^^) 和習。記紀の時代。中国と日本は逆さまの文字の使い方なので、発音がヤマトなら、逆はトヤマとなり、 邪馬台国は、神武天皇が富山に住んでいた、一時の時代かな?(^^) 北部九州・畿内・欠史8代 後、半万年妄想かな? 動画連動なので、この辺で。 動画ありがとうございます。 クオリティ高いから、いつもびっくりです👍
@user-rs8wt6uv9d
@user-rs8wt6uv9d 2 жыл бұрын
実在したよ しかも二回もあった
@s-yo
@s-yo 2 жыл бұрын
銀髪キャラがいまいち何喋ってるか聞にくい…
@user-ke1xz7lw3m
@user-ke1xz7lw3m 2 жыл бұрын
六世紀に磐井の乱があった。磐井は筑紫の国造と記紀に記されている 筑紫、つまり九州の広い範囲を支配した豪族だったのでしょう こんな後代まで大和朝廷は筑紫を完全には掌握してなかったことになります。 もちろん神武天皇の東征が史実とすれば二世紀ごろのことでしょうから それから年代が四百年も異なっている。四百年もあれば、国同士の関係とかいろいろと変化するでしょうから 五世紀や六世紀の豪族の状況で二世紀のことを考えるのはかなり強引な事ですけど 実際のところ、二世紀ごろのことは良くわからないですからね。記紀の記述とかはっきりした記録が残っている五世紀ごろの状況で推測するしかない このことを前提に述べさせてもらいますけど 筑紫を大和朝廷が掌握していたとしたら、磐井の乱のような事が起こるように、大和朝廷が筑紫を掌握しきれていなかったことを説明できないのではないか そう私は考えるわけですよ そのことから神武の東征とは筑紫での勢力競争に敗れた部族が畿内に逃げて行った逃亡劇だった そう考えられるのではないかって事ですね 私も神武の東征は、記紀の伝承の通りではないにしても、それに値する何かがあったとは思います。 二世紀ごろに銅鐸が消えて変わりに九州の神器であって剣が本州でも神器になっている。この突然の文化の変化は筑紫の勢力が本州に勢力を拡大したと考えれば説明が出来ますから ただ、それが神武の東征の記述のように華々しいものとは限らないのではないか って事です
@user-yo9su6tz8v
@user-yo9su6tz8v 2 жыл бұрын
くそメンタルすぎるw
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