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古事鏡【番組風歴史解説チャンネル】
日本史の事柄について番組風の動画で解説しています。
学術書や論文の内容をベースとした情報を発信することをコンセプトに動画を作っていきますが、複数の文献を参照しているため、解釈に揺れがある場合もあります。事実誤認などありましたら訂正して参りますので、ご指摘頂ければ幸いです。
ともに歴史を楽しんでいきましょう!!
10:31
【歴史小噺】#4 御小袖~足利将軍家重代の鎧~
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17:27
【院政闘乱史】[16/16]源頼朝の挙兵~鎌倉幕府へ続く道~
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【院政闘乱史】[15/16]鹿ヶ谷事件~平清盛と後白河法皇、亀裂の始まり~
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17:40
【院政闘乱史】[14/16]平清盛の台頭~後白河院政への道~
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11:01
【院政闘乱史】[13/16]終局!平治の乱~平清盛、覇権への道~
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14:04
【院政闘乱史】[12/16]勃発!平治の乱~院政体制の歪み~
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17:47
【院政闘乱史】[11/16]保元の乱~武者の世の幕開け~
Жыл бұрын
17:53
【院政闘乱史】[10/16]源氏の分裂~そして、保元の乱へ~
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14:21
【院政闘乱史】[9/16]王権の分裂~保元の乱への道~
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【院政闘乱史】[8/16]鳥羽院政の幕開け~白河法皇から鳥羽法皇へ~
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【院政闘乱史】[7/16]摂関家の苦闘~藤原忠実の闘い~
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【院政闘乱史】[6/16]源平の交錯~河内源氏の凋落、伊勢平氏の台頭~
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【院政闘乱史】[5/16]白河院政の幕開け~新時代への胎動~
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【院政闘乱史】[4/16]後三年合戦~渦巻く戦乱、奥州の惨劇~
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【院政闘乱史】[3/16]白河上皇と摂関政治~白河上皇、波乱の船出~
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Пікірлер
@suminoe_no_tsu
22 сағат бұрын
アーカイブにて視聴させていただきました。 実力ある者が中央から離れた隙に蠢動する輩はいつの時代にもいるものですね。 時行一派を焚き付けたのも、「戦に弱い」直義を鎌倉に赴任させたのも、尊氏を京と帝から引き離す策略だった、 なんて陰謀論的妄想が一瞬よぎってしまいました笑 配信ありがとうございました!
@gateunder422
Күн бұрын
お久しぶりの動画投稿、お疲れさまでした。 以前連載されていた『院政闘乱史』の前日譚的な内容で、楽しみながら視聴させていただきました。 歴史学的には【古代】に分類される平安時代ですが、後期はほぼ既に中世の萌芽がそこかしこで出てきている時代ですよね。そういう視点で観ると、個人的には『道長の王権』論は、かなりしっくりくる視点でした。
@user-jn3sc6zx1u
Күн бұрын
情報伝達は勿論、現代と全く違う環境に、大小有象無象が蠢く時代背景。 歴史のロマンですね。 楽しく拝聴させていただきました(*・ω・)*_ _)ペコリ
@silversurfer512
Күн бұрын
明智光秀はどうして本能寺の変を起こしたのか? まず、特に恨みがなくても、普通に「隙あらば」と前々から狙っていた可能性はありますよね。 この戦国時代末期は、下克上は当たり前だったし、信長の配下の武将たちは、光秀に限らず、何か失敗したり、信長の勘気に触れると酷い目に合うという恐怖は骨身に染みていた。 だから特に恨みなんか無くても、普通に常に「隙あらば」という考えは光秀の頭にはあって、そしてその絶好の好機が目の前に現れて、そして光秀には勝算があった。 ただ秀吉があんなに早く毛利と和睦して大軍を率いて戻って来るとは、光秀には想像出来ていなかった。 もしも秀吉と毛利との戦いがあと数ヶ月続いていて、その間に光秀が足利義昭の支持を取付けて、柴田勝家や武田、北条とも和睦していたら… きっと秀吉なんかはもう出る幕がなくなっていたかもしれない。 そういう計算が光秀の頭の中では出来ていて、それで天下を取れると計算していた。勝てると思ったからこそ謀反を起こした。 でもだからこそ、その光秀の計算を破った秀吉の中国大返しが、歴史の転換点となった。 光秀は源氏の土岐氏の流れだから、信長のことを腹の底では見下していた可能性もある。 信長がやった暴虐行為については、光秀自身は何とも思ってなくても、それらを謀反の大義名分として使えると考えていた可能性はあるでしょうね。 でもそれより何より、怨恨や何か特別な理由があったというよりも、「勝算があるからやった。」というのが最大の動機だったのでは?
@mitsutaka8592
Күн бұрын
あっ!久しぶりに動画を更新されてる!笑 めちゃくちゃ嬉しいです☺️ ゆっくりペースで構いません、また次の動画、楽しみにお待ちしております😌 (声が良いですね、落ち着きます)
@user-pz1es6or9d
Күн бұрын
43:30 千葉・安保に与えられた恩賞の内容は解っているのでしょうか? 倒幕の時に空いた権益や尊氏の自腹だった場合、説の傍証になると思います。しかし、恭順している勢力の権益、特に(尊氏にとって重要度が薄い)寺社権益に関わるものだった場合、寧ろ既に両者の距離が開いてしまっている論拠になってしまわないですかね。 そこらへんの状況を(伝わっているのであれば)教えて下さると有り難いです。
@user-pz1es6or9d
Күн бұрын
検索したら安保の分は出てきました。敵方についた安保宗家の権益だったのですね。 なるほど、討伐に出した大将に与える権限の範囲としては妥当です。 そうすると本当に尊氏討伐に風向きが変わったのが不思議です。 護良派の政治的反撃はちょっと無理がありそうな。 新田義貞はここで討伐軍の大将になったからこそ持ち上げられた気配がしますし…。
@user-pn2ni5pl3m
Күн бұрын
コメントありがとうございます。 千葉については手元にあるものでは分からなかったのですが、安保については阪田論文に書いてあり、一族である安保道潭の所領を拝領したようです。調べたところ、この道潭は鎌倉幕府滅亡に際して鎌倉方として討死した人物で、中先代の乱ではその子息が時行に与して自害したようですので、光泰は尊氏に与することで一族の所領を拝領することができたといえそうです。
@user-pz1es6or9d
Күн бұрын
@@user-pn2ni5pl3m 返信有難うございました。同時期の東海道方面恩賞方と差配範囲をどう分けたのか気になったのですが(鎌倉奪還前ですし)、安保氏の例だと、被らないだろうし納得出来ますね。
@user-wq1pj9rh1y
2 күн бұрын
犯人斎藤利三なんだよね、家臣想いだから押しきられたか
@user-xe5dt6bg6u
3 күн бұрын
いやぁ、面白かった。ありがとう
@user-pn2ni5pl3m
2 күн бұрын
こちらこそ、最後までご覧くださりありがとうございました。 楽しんでいただけたなら何よりです。
@user_abc132
7 күн бұрын
途中を広告が入ると観づらいですね。
@88biichuuya80
8 күн бұрын
ありがとうございます。 久しぶりに非常に秀逸な考察談話が視聴出来て楽しかったです。歴史〈過去の物事〉を客観的に語って下さいまして面白かったです。チャンネル登録させて頂きました。
@user-wi2lw6ec2g
9 күн бұрын
藤原良房からでは?
@user-cy3gn5vf9x
10 күн бұрын
こうであったら面白い、という黒幕説は確証がないかぎり定説になることはないから。
@user-nq9jo4vd8d
18 күн бұрын
そもそも、奈良時代、平安時代を古代の枠組みに入れることこそ、間違いなのではないでしょうか?我が国の古代分類は、大陸や朝鮮半島に比べてはるかに長く、違和感しか感じません。摂関政治が何だったのかを学会で論じることも大切でしょうが、いい加減、自虐史観から脱却した議論がなされてほしいものですが、学会こそ、自虐史観の大元とも言えるので無理でしょうね。とは言いましたが、古代と中世の定義も良く知らないので、的を射ていない意見かもしれませんが、大陸や朝鮮半島と比べると、何で平安時代が古代なの?と疑問に思うわけです。
@user-mn1om4tz2x
16 күн бұрын
ソースがどこか思い出せないですが、ヨーロッパの時代区分を日本に合わせてみたらあの枠組みになったとか聞いたことがあります。確かに枠組みそのものに疑問を持った方がいいのかもですね
@social_com
12 күн бұрын
その時代区分を作った原勝郎は自虐史観とは逆の意図で制定しました。 明治初期の欧米ではドイツの歴史学者を中心に経済発展段階説や唯物史観が唱えられていたため、「封建社会を経ないアジアは歴史は長くとも劣等だ」と言われていました。 そんな中、平安時代末期〜鎌倉時代を境目に、近世まで君主の下にいる諸侯が、土地と民を領有する社会が形成されている事を発見します。 これを欧州における封建社会と同一と捉えたのが中世の定義の始まりです。 そのため「俺たちは欧州と同じ社会変遷を辿ってきた。アジア諸国と同じにするな」というのが定義の趣旨です。 その中世以前、つまり欧州におけるローマ帝国と同じ中央集権社会を便宜上古代と位置付けしたのが、日本の古代区分の始まりです。 ですので、「古代っていつから始まる?」の問いには「中世を発見した時点より前」というのが解になるかと思います。
@nagino_matasaburo
19 күн бұрын
大変勉強になりました。 自分は大河ドラマ「光る君へ」を毎週楽しく視聴しています。史実的には主人公の紫式部の方が道長よりも早くにこの世から去るようなので、晩年の道長が政治を壟断した辺りが描かれるのかどうか、興味があります。
@takeara2970
20 күн бұрын
投稿おつかれさまです。 どこを見るかで全然変わってくる"鵺"の様な体制ですなぁ。
@user-pn2ni5pl3m
19 күн бұрын
どこに重きを置くか…という話にはなりそうですよね
@user-kx4pm6mi9k
21 күн бұрын
今回も面白かったです😊
@user-pn2ni5pl3m
19 күн бұрын
ありがとうございます🙇
@d.k.p5436
22 күн бұрын
とってもいい動画ありがとうございます。楽しく観覧しました。 最後に指摘された公的(律令)な権力関係から私的な権力関係への移りを院政や武家政権の先駆けと視る見解は興味深い発想でした。摂関家が天皇の母方の保護者という権威を基盤としたことに対して院政は父方の保護者という権威を基盤としたという論理で見たら、あの見解は権威は移動してもその実際での権力の駆使では似てた或は院政期に引き継がれたとも言えるのではと思うようになりました。本当に今後の研究がどうなるか楽しみです。
@user-pn2ni5pl3m
22 күн бұрын
ありがとうございます。 兼家や道長の権力についても、どこまでが公的なものでどこまでが私的なものだったのか…というのが難しく、まさにその点が論争の的になっているように思うのですが、その双方が混じり合っている状況こそがこの時代の特質であるようにも思えます。研究の進展に期待したいですね。
@tokishp
22 күн бұрын
うおおおおお!久々の動画投稿待ってました チャンネル登録解除しなくてよかった~
@user-pn2ni5pl3m
22 күн бұрын
ありがとうございます。なかなか首が回らず、遅くなりすみません。 今後も細々と活動していくので、見守って頂けると嬉しいです。
@user-ky9et1ms9t
22 күн бұрын
道長の権勢前後を、古代と中世の境目とみるのは本当に興味深い 素晴らしい動画の投稿お疲れ様でした
@user-pn2ni5pl3m
22 күн бұрын
ありがとうございます。 古代社会の尾を引きつつも、中世社会が顔を出し始めている…という辺りの複雑さがこの時代の魅力でもあるように思います。
@user-Usokusai
22 күн бұрын
摂関政治の研究史、とても貴重な動画ですね。 旧態依然とした理解も強い中、とても意義があるように思えます。
@user-pn2ni5pl3m
22 күн бұрын
ありがとうございます。 なかなかこういった研究史の話はKZfaq上では話題にならないように思うので、1つくらいこういうのがあっても良いかなと思い投げ込んでみました。 そう言って頂けると私も作った甲斐があります。
@KuRO.Qro46-96
23 күн бұрын
キターー!
@user-dq4fc3kn5n
23 күн бұрын
最近みた動画で一番面白かった。有難うございます。
@user-pn2ni5pl3m
22 күн бұрын
恐縮です。諸先生方の見解を上手くまとめられていれば幸いです。
@user-sl8fs5fp1k
23 күн бұрын
新動画うp乙並びに感謝御礼です!! 政所政治論、何か聞き覚えがあるなあと思ったらあれだ、鎌倉幕府の「寄合」ですわ(得宗の私的な会合に過ぎなかったのが鎌倉幕府を牛耳るまでになった)
@user-pn2ni5pl3m
22 күн бұрын
ありがとうございますm(__)m 確かにイメージとしては近いかもしれませんね。 もっとも、政所政治論は今となってはほぼ成立の余地を残していないわけですが…。
@user-hj7cg8qb4w
23 күн бұрын
勉強になります!
@cancan5892
23 күн бұрын
新動画がアップされるのをずっと待っていました!摂関政治についての各研究の流れ、とても見応えがありました。朝廷の最高行政機関太政官と摂政関白の独立性、そして両者の力関係の変遷など、なかなか複雑ですが、とても興味深く拝見しました。道長の権力も太政官の官僚機構の上に成り立っていたという指摘には、大いに賛同します。無官になって以降も道長が以前同様に公卿受領を自身の臣下のように使い寺院を造営したのが、それまでの彼の業績による慣習なのか、彼のみの特例なのか、確かに不思議です。それが以降の院政の萌芽であり、後の江戸時代の武家の主従関係の基礎にもなるというのが、新鮮な気づきとなりました。
@user-pn2ni5pl3m
22 күн бұрын
ありがとうございます、なかなか動画が作れずすみません。励みになりますm(__)m 道長が受領や公卿を動員したのが「彼の業績による慣習なのか、彼のみの特例なのか」というのもまさに焦点になっているところで、実資にも類似の事例が見られることなどが評価を難しくしているように思えます。
@user-re5wf2mf7w
23 күн бұрын
これは院政闘乱史シリーズ動画の前日譚ですね。「摂関政治の黄昏」をまた見たくなりました。
@user-pn2ni5pl3m
22 күн бұрын
気付けばあれも2年前の動画になってしまいました…。 覚えていてくださってありがとうございますm(__)m
@houkun7668
23 күн бұрын
日本って名目上のトップ以外が実権を持つことも多くて権力の在処がいつも分かりにくいです 藤原道長ほどの巨人に関してですらこれですからね… 道長が摂政・関白として朝廷を牛耳ってたと無邪気に信じていた頃が懐かしいです
@user-pn2ni5pl3m
22 күн бұрын
道長は職制上は関白ではなかったにもかかわらず、「御堂関白」と呼ばれている辺りも面白いところですよね。
@sp-nh5fk
29 күн бұрын
歴史って全てがわかるわけでないし難しいなー 俺はへいげものが好き
@J6twX
Ай бұрын
夜の関白こと藤原顕隆って今回の大河に出てくる藤原宣孝の子孫なのよね。
@wjkdetyo2603
Ай бұрын
そもそも本能寺の変は明智光秀がやったのか??
@kuzushiji
Ай бұрын
大変興味深い内容でした、ありがとうございます
@user-xm3my2vz6c
Ай бұрын
結局織田家を滅ぼしたのは秀吉だからな 光秀は信長の側近を見逃してる
@user-mu6wg2uk9i
Ай бұрын
この時代で油断してしまった信長ですからねぇ、、誰に殺されても不思議ではありません。複合説でしょうね。
@ucucka123
Ай бұрын
僕はキリスト教という新興宗教に光秀たちが、いわゆるカブレていたことが謀反という行動を光秀に取らせたのだと思う。 (思想が人の思考と行動を支配するものだから) 西洋では謀反とは言わず革命というように、宗教が光秀一家の思考や世界観を日本式から西洋式に変えていた。 当時西洋では自国に有利な世界貿易(領土拡張)のために宣教師を先立てて他国に侵攻していた時代だし、彼らの日本支配計画に入信者たちは利用されるのもまた、彼らの目的から見ても当然のことだと思う。(実験の使い捨てみたいやけどね)
@user-mg4nv1ut2n
Ай бұрын
真っ先に消えるのは将軍・朝廷黒幕だろうな黒幕有りなら 行動が急なのとその後の調略失態にしろ文訴状つっかえされてるのと一番は余計味方側につく利有る細川がつかなかった事 長宗我部絡みも同様長宗我部自体味方してない事 秀吉大返しカラクリは小西等元々大阪商人味方につけてた事でなしえた大返しで 秀吉黒幕なら毛利側に手紙送られる前にもっと先に行動取れてる事 単独説が濃厚になるが 恨みなら事前に計画性行動有るに対して 衝動的行動なら野心になる 光秀自身になかったとして 配下に触発されも有る事 本能寺急襲時は目的知らない配下多いから付き従ったは有るが次まではとなると 利にかなわぬなら味方されて無い事 同じく配下がこうなら大名とて同じになる利にかなわぬなら味方しない そうすると衝動的が一番濃厚になる 後々の調略失態踏まえれば 計画性みかけられず 黒幕とするなら準備性 みかけられず 単独かつ衝動的なら配下におされやむなき 一番怪しいのが斎藤利三 が家康にそそのかされ 調略されてた そこで期をみて進言 敵は本能寺〜まあ利三の娘が 後々重宝がられてる因果関係からするとね・・・ 根っこは家康 信長の庇護受けてた朝廷や将軍がミスミス腰巾着失う行動計画は無理有る イエズス会にしても恩恵受けてるのに失うは無理有る 計画=恩恵なら 家康+利休+有楽斎+大阪商人・・一番繋がる どう転ぼうが儲かる仕掛けするのは商人心理 すると一番は大阪商人権力になる 後々の矛盾と照らしても? 誰が結果一番得したか? に繋がる 秀吉か??証より実のが力有る 実得て得するのは商人になる 有楽斎生き残り=利休の弟子 利休=大阪商人権力 共通得する者が秀吉と家康になるが一番得するのは結果商人だから黒幕大阪商人権力 キャスト秀吉・家康・有楽斎・利休・斎藤利三になる 秀吉にとっての不都合?弱み=利休の知る事にも繋がる 家康にとっての弱み=斎藤利三になる 前後の矛盾と無理なく繫ぐならね・・
@user-be8nj3xs8s
Ай бұрын
平成なら産み分けで女子の受精卵を殺し皇子を作れるのにね
@user-abcdefghi987
Ай бұрын
この時代は現在のように映像など歴史の事象を鮮明に残せる時代ではなかったから、推測、憶測でしか考えられないのが残念
@tallpinetreemmr
Ай бұрын
光秀と信長は一緒にバチカンに渡った説もある バチカンにその痕跡もあるそうだ
@sugu-aniki
Ай бұрын
あ〜のハァゲ出張するゆて攻めて来たん。ハァゲの軍勢1万に対し織〜田の軍勢30www
@user-jn4vx9ut5e
2 ай бұрын
水原一平並みの傑物。
@social_com
2 ай бұрын
八幡太郎義家、やたら伝説的な武勇だなぁと思ったら人間ダビスタの結果生まれた武士サラブレッドだったのか。
@social_com
2 ай бұрын
天皇家の三種の神器、藤原摂関家の大餐器(元旦の食器セット)、源氏八領(鎧セット) 名家ある所にレガリアありですが、それがレガリアになるキッカケなんて些細なもの何だなと思いました。 何をレガリアとするかよりも、それを用いてどうなったかが箔をつけるのだと思います
@user-wd4jd5si9l
2 ай бұрын
織田信長がやろうとしていたのは南朝復興、織田信長は南朝の末裔であり、北朝は偽朝ですから。明智光秀は再び南北朝の争乱になることを阻止しました。
@user-hg6cw6kw5w
3 ай бұрын
先日小谷さんの本を買って、これから読むところですが、読むのがとても楽しみ!義晴が好きなので、解説を聞いてるだけで泣きそうになりました。丁寧で分かりやすい解説で素晴らしい✨
@user-hg6cw6kw5w
3 ай бұрын
来月、上杉博物館に実物を見に行く予定で、とても良い予習になりました。ありがとうございます😊
@user-fo7sc8zr4j
3 ай бұрын
私は、光秀の単独発作的行動説。物事、単純なほど様々な解釈を生む。
@user-yakisoban
3 ай бұрын
本能寺を取り囲んだあと、使者が本能寺に向かったり、取り囲んだ兵士の中を人が行き来しているから、実はそこまで殺気立っていたわけではなく、兵士たちは単に命令通り取り囲んだだけ、そして光秀は恐らく「押し込み」によって何かを信長に訴えた、または了承を得ようとしたのを、当時精神不安定だった信長が思い詰めて自害、最悪の結果になり言い訳できないと光秀は腹を括り信忠を強襲、時間があったので逃げればいいものを何故か信忠が立て籠もり自害。自分はこんな感じで思ってます。おそらくはそこまで光秀に深慮遠謀があったとは思えない
@user-qz3go1ft3p
3 ай бұрын
古事鏡さんの動画は映像がいつも 美しいな。丁寧な解説とドラマをバランスするセンスが素晴らしい。 語りも良いすな
@user-qz3go1ft3p
3 ай бұрын
信光の亡くなり方が謎めいてますね この人の子孫や家臣はどうなったんだろ。
@user-qz3go1ft3p
3 ай бұрын
頼長の偏屈かつ奇異な人格が面白い 公家の日記というのは子孫のための 財産として残される大事な書 寝所に呼んで気持ち良かったとか 後世に残すなや