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@AkihitoDaidoDHeike
@AkihitoDaidoDHeike 5 ай бұрын
《【日本の悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質とは?】》  日本経済のバブル崩壊後のデフレの状況を例えるとするならば、【悪足掻き(わるあがき)または、悪藻掻き(わるもがき)】と言えるように思う。しかし、そのバブル崩壊以前から、【悪足掻き(わるあがき)または、悪藻掻き(わるもがき)】は始まっていた。その【悪足掻き(わるあがき)または、悪藻掻き(わるもがき)】に、私自身も巻き込まれていたようだ。 〘名〙 ① 度を過ぎたいたずら。わるふざけ。 ※俳諧・西鶴大句数(1677)八「わるあかきいくたび袖を引破り 御文殊に手本あけたか」 ※門三味線(1895)〈斎藤緑雨〉二「根からが優しい質(うま)れと見えてつひぞ悪(ワル)あがきしたことなく」 ② しても効果のないことを、あれこれと必死に試みること。わるもがき。 ※水彩画家(1904)〈島崎藤村〉八「悪踠(ワルアガキ)も好加減にしな」 ※俳句の世界(1954)〈山本健吉〉八「俳句の形式を手放すまいとして、血みどろの悪あがきをつづけてゐる」  私自身が日本経済に寄与貢献した実績としては、私(29歳)が金沢医科大学(昭和47年、金沢に近い内灘の地に初代理事長に現在の鳳珠郡能登町出身の政治家、益谷秀次(東京外国語学校(現東京外国語大学)仏語科、京都帝国大学法科大学仏法科を卒業。浦和地方裁判所判事から、弁護士)氏が就任して設立)に勤務していた頃、旧『ナナオ電子工業株式会社』の開発部長と1979年の春頃に知り合い、『グラフィック(セファログラム)・アナライザー』の共同開発を提案し、受け入れられて、1980年の秋の九州大学キャンパスでの日本矯正歯科学会で展示発表できた事が最大の実績となった。  また、同じ頃に、医師薬出版の四分冊の矯正歯科専門書、歯科矯正臨床シリーズ4 その基礎と臨床『開咬』の最も若い共同執筆陣の一人となった事も、実績の一つと言えるかも知れない。この金沢医科大学では、助手、医局長、外来医長、退職後の非常勤講師としても、それなりの貢献をしたつもりである。  しかし、金沢医科大学の私立大学としての経営には疑問が多かった。事務局が全ての実権を握っていたからである。だから、実績を残すには、外部で活躍するしかなかった。事務局と仲良くする事だけが、金沢医科大学で生き残れる世界だったのである。その点、国立の大阪大学とは正反対であった。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  逆に、国立の大阪大学の場合は、事務局の存在は影のように支えてくれていたように思う。また、私自身、学校で習った事よりも、雑学に徹してきた事が、結果として、実績を残してきたように思える。  私は、昭和24年生まれの戦後の団塊の世代である。鯖江市の藩校の名前を引き継ぐ惜陰小学校入学時には、急増する入学生に対応するため、後者の増設が継続していた。だから、講堂も無く、入学式は校庭で行われた記憶が残っている。  その入学式の校長の挨拶は『惜陰の意味は、陰は時の事であり、陰を惜しむの意味は、時間を惜しむ意味となり、皆さんも時間を惜しんで勉強してほしい』と、素晴らしいスピーチだと思えた。教頭は『君達は、先生方を踏み台として、先生方よりも偉くなってください』と、これも素晴らしいスピーチだと思えた。  そう言えば、『惜陰小学校は、明治5年(1872年)の開校以来、150年にわたる荘厳な歴史を積み重ねてまいりました。(鯖江、上鯖江、西鯖江、長泉寺、五郎丸、定次の組合立小学校在設置することとし、校名「惜陰」は、鯖江藩江戸藩校「惜陰堂」からとったもの。 この「惜陰」の言葉の意味は「時の過ぎゆくことを惜しみ 努力する」ということ。 由来は中国の『晋書』(しんじょ)という歴史書(648年「唐」の時代)にある一文。)』のようである。しかし、入学後に教科書を開いてみると、面白いとも、読みたいとも思わなかった。  その内に、父が毎日読んでいた大人の新聞三紙(日経、朝日、福井)の読める所を探しながら、読める所を全て読み始めていた。毎日、三時間を費やしていた。  その内に、学校の勉強は、馬鹿馬鹿しくなってきて、宿題もやらなくなっていたので、先生も生徒も、私が劣等生であるかのように思っていたようである。だから、生徒達の虐めが酷くなり、先生も虐め側の肩を持ち始める最悪の状況だった。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  その虐め体質は、日本の何処でも起こっている事は、後に知る事になったが、その結果は、鯖江中学校に入学したら明らかになった。  鯖江中学校に入学した直後に、実力試験が行われた。団塊の世代だから、13クラス650名の全員の実力試験の成績が廊下に張り出されたのである。その多くの生徒達が、私が劣等生だと思い込んでいたのだから、生徒達の反応は、実に面白かった。その劣等生の私が、五番目だったからである。途端に、虐めは無くなっていた。つまり、私が学校の勉強を全く行こなっていなかった事で、馬鹿にしていたのである。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  中には、五点だと思い、下から五番目の劣等生だと思い込んで話し掛けてきた生徒があった。中学校の先生でも、私の成績に驚いて『頑張ったね!』と驚いて、話し掛けてきた。頑張った事は全く無いのだ。それでも、彼等が私を馬鹿にしたい気持ちは無くなった訳ではなく、依然として馬鹿にしたい気持ちを持ち続けていたようである。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  この状態は、何を意味するのであろうか?当然、私の成績は、惜陰小学校の先生達にも知れる事になったのである。このような結果は、惜陰小学校の先生達も全く予想していなかった筈である。小学校時代に優秀だった生徒達が、私の遥か下に並んでいたからである。高校入学後に、小学校の同窓会が行われたが、彼等と話が合う筈が無い。  その時に出席した小学校の最後の6年生の時の担任の伊藤先生も、あなたは成績が良くなると思っていたと言ってくれたが、そんな事は思ってもいなかったはずである。宿題すら全くやらない生徒だったからであり、毎日のように居残りを強要していたのであったからである。  だから、同じクラスから藤島高校に合格した女性(1970年〜1973年の福井県の教育長の加藤秀雄氏の長女)の横に座ると、忌々しい表情が明らかだった。彼等は、それなりに勉強をしていたのである。しかし、中学入学時の実力試験の結果が示すように、手の届くレベルを遥かに超えていたのである。しかも、宿題すら全く行わなかった劣等生であるはずの私だ。
@AkihitoDaidoDHeike
@AkihitoDaidoDHeike 5 ай бұрын
その私は、中学校三年頃から、惜陰小学校以上に、150年を超える歴史と伝統を誇る我が藤島高等学校(前身は安政2年(1855年)に福井藩16代藩主・松平春嶽が開学した「明道館」である)の二年目の春に掛けて、急性アレルギー性副鼻腔炎に罹患した。  自覚症状は、集中力の欠如と記憶力の欠如だった。だから、中学三年生後半から、高校二年に渡って、成績は下降の一途を辿っていた。だから、私の成績の低下を喜ぶ輩が、私を揶揄って、中学3年生の時に、張り紙を付けた輩さえいたのである。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  しかし、藤島高校には楽に合格した。その後、高二の通学電車の中で、嘔吐したのである。左の副鼻腔の手術を受け入院したが、術後の経過は良くなく、記憶力と集中力は全く回復しなかったのだ。  だから、受験勉強は諦め、その後も新聞三紙は継続して、毎日三時間を掛けて読み続け、他に現代日本文学全集(二七巻)、岩波文庫海外文学、対訳英文などを読み続け、学校の勉強は授業を聴いていただけだった。だから、中間試験と定期試験の成績は最悪だったが、実力試験だけは、かなり良かった。  高三に、志望校を決める必要があり、大学での勉強量の少なそうな歯学部に決め、高三の秋の『能研テスト』で、志望校を『大阪大学歯学部』として受験した。成績は、『大阪大学歯学部』志願者中、ダントツの一位であり、藤島高校の同じクラスの東京大学理二志望者の平均点を五点上回った。  この直後、電車の中で、中学時代の同級生に会った。僕の顔を見るなり、進学大学を尋ねたので、『大阪大学歯学部』だと伝えると、驚愕の表情になり、自分の進学大学を言わずに、僕から離れて行った。彼は、私の高校での成績の低下を聞き知っていたのであり、大した進学もしていないと思い込んでいたようである。  そして、彼はそれなりに勉強して、それなりの大学に進学したようである。だから、馬鹿にして、薄ら笑いたい気持ちで尋ねたのであろう。その薄ら笑いの表情の予兆が顔の表情筋の緩みに現れていた。ところが真実が予想もしていなかった事だと分かり、表情筋の緩みが、緊張のすり替わったのである。それ以上の緊張が続けば、痙攣するとさえ思えたから、私に背を向けて、離れたのである。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  恐らく、成績の良かった生徒も、悪かった生徒も、小学校や、中学校や、高校の先生達も、驚愕の結果だったのであろう。しかし、私は受験勉強に魅力を感じなかったから、受験勉強をしなかっただけであり、良い成績をとろうとは思った事も、エリートになろうとも思った事もなかったのだ。  私にとって、受験勉強は当に【悪足掻き(わるあがき)と悪藻掻き(わるもがき)】に過ぎないのである。その結果、その後の日本を生きて来たが、この【悪足掻き(わるあがき)と悪藻掻き(わるもがき)】に過ぎない現象が、あらゆる所に見られたのである。  最近、東京大学の駒場キャンパスと本郷キャンパスを訪れる事が多くなって来たが、大半の学生が、受験勉強で合格してきた秀才である。私のように受験勉強をせずに合格した学生は僅かであろう。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  たまたま、私が外国語会話の初心者コースに参加した時に、東京大学の大学院生(国際政治)が来ていた。舛添 要一(法学部第3類政治コース卒の国際政治学者)は先輩であろう。私が、急性アレルギー性副鼻腔炎で馬鹿になり、東京大学には行かなかったと言うと、自分は東京大学国際政治の大学院生だと、顔面に自信と笑みを浮かべて誇って言っていたが、東京大学の本質を知らない一般人は尊敬の眼差しであり、その後も彼に近付こうとしていた。娘の花婿候補にとでもの気持ちが芽生えたのかも知れないが、これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。舛添 要一(法学部第3類政治コース卒の国際政治学者)も同罪であろう。  大阪大学歯学部進学課程合格後に、母の京都女専(現在の京都女子大学)時代の国文科の同窓生の社長邸宅(豊中市刀根山一丁目の丘の上)の二階の長男(早稲田大学社会学部に進学)の部屋が空いているので、住むように薦められて、居候させて頂く事になった。食事、風呂、洗濯も女中の長尾さんがしてくれるという。当家の次女は、階下の一階の部屋であり、後に大阪大学に合格した。  しかし、学生運動が吹き荒れていた頃であり、大阪大学生と職員が作った正門のバリケードが簡単に破られてしまった。翌年は東京大学の安田講堂が占拠されて、東京大学の入学試験が無くなったのである。この学生運動も、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。たかが、大学生となったくらいで、世界の全てを理解した気持ちになっていた事は、彼等と話して見て明らかだった。  大阪大学歯学部進学課程合格後の一年目は水泳部に入ったが、プールが泥水であり、水質改善の見込みがないので、ワンダーフォーゲル部に変更した。しかし、夏休みの東北の奥羽山脈縦断遠征は、残雪とガスの為に無惨なものとなり、これも辞めてしまった。このワンダーフォーゲル部にも悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質が有ったと言えるように思う。  私の体力はアスリート並み(身長180cmで基礎代謝量が日本人平均の三倍、背筋腕力が最高で、ゲームセンターのキングコングや横綱に全勝)だったから、毎回、最後の食材を担ぐのが、決まっていた事も、嫌になった原因であった。また、先輩達は忙しいのか、日頃のランニングに参加せずに、だらしない為体の醜態を見せていた。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  私が退部してからは、私と同じグループの二人がワンダーフォーゲル部部長と副部長となり、かなりしっかりしてきたように伺えた。私の退部が自覚をもたらしたように思えた。  私の体力はアスリート並みである事は、その後のゴルフやスキーで証明された。ゴルフクラブもスキー欧米のトップ・プロ用でないと、合わないのである。因みに、ドライバーは350ヤード、ドライビング・アイアンは300ヤードである。欧米のトップ・プロと変わらない飛距離である。スキーでは冬季オリンピック・アルペン種目初代三冠王のトニー・ザイラーやHEADのチーフ・デモンストレーターと二人だけで一緒に滑ったり、サイン入りブロマイドを頂いたりした。  教養部の歯学部進学過程(二年間)では、結局は、読書三昧での元の生活に戻った。英語はリンガフォンを買って、英会話のレベル向上に努めていた。丁度、大阪万博の開催があり、外人との英会話を試みていたが、なかなかチャンスに恵まれなかった。そのような毎日だったが、万博後は、大阪、京都、奈良、神戸の美術館に行くように勤めていた。  実は美術や芸術にはトラウマがあったのだ。
@chie9089
@chie9089 Жыл бұрын
麹町中学校の7か月勉強しなかった子・・・について考えさせられました。 確かに、よほど力が無いということがない限り、最後の1週間で、1学期分の学習やドリルをやっちゃうことは、小学校の1年生でもありました。この子のどこにそんな力があったのかと驚きましたが、つまり、子どもたちには力があるということ。自主的な思いさえ芽生えれば、子どもにはやる力があります。そして、心の片隅に、一応、やるべきことはやらないといけないという意識がちゃんとありますね。 たぶんその子は、受験の挫折か何かで、心に大きな傷を負っていたのではないでしょうか。傷を治すのに、7か月の療養が必要なことを自分にはわかっていたのではないでしょうか。受験の挫折ではないにしろ、考えるのに、気付くのに、自分の心を納得させるために必要な期間だったのですね。そして、そんな時間はとても貴重だと思いました。 みんなと歩調を合わせようと焦る先生や大人の気持ちもとてもよくわかりますが、よく我慢して見守ってくださったと思いました。私も、子どもたちのそういう時間を大事にしてあげられる先生になりたいと思いました。
@AkihitoDaidoDHeike
@AkihitoDaidoDHeike 5 ай бұрын
東京の麹町や、横浜では、おそらく大多数の生徒が塾などの受験勉強機関に通っていると思います。その事は、慶應義塾の幼稚舎でも同じです。その結果、学校では、勉強や宿題をしなくても、心配無いと言う安心感が、家庭内部に行き渡っているのでは無いでしょうか?だから、宿題も出さないという教育方針が、受け入れやすいように思います。この方針が、果たして、福井県で容認されるか疑問です。しかし、私は、それを私自身でも、二人の娘達にも実行しました。その結果、教育界、司法界、行政界からの、差別的妨害に遭い、親権を持つ私は娘達に、アメリカ東海岸のボーディング・スクールへの留学を計画し、ボストンに親代わりを引き受けてくれる方の邸宅に伺って、後は、中学一年の長女の訪問旅行を企画しましたが、離婚していた母親から、親権の移譲を申し立てられ、結局のところ、親権が取り上げられました。二人の娘達には、カナダのブリティッシュ・コロンビア州のブラックコム・ウィスラーにスキー旅行で連れて行き、子供のスキー・スクールに入学し、英語の世界に浸っていましたし、一人旅で’アメリカのコロラド州、アスペンの夏季音楽学校に約1ヶ月間の留学を経験させて準備を済ませていました。しかし、福井家庭裁判所は、司法界、教育界、行政界、宗教界の意向を汲んで、私から親権を奪ってしまいました。東京や横浜のような状況とは全く異なる世界が、日本の過疎地方の根強い背景にあるのです。 『読解力』の考え方には賛成できません。日本人の英会話力は単語と文法を覚える方法に依存していますが、これでは『英語で考える能力』は伴いません。そもそも、英文を全て日本語翻訳できると考える事がに無理があります。ノーベル文学賞受賞作品『ドクトル・ジバゴ』は日本語に訳せないと思います。翻訳文が出ていますが、英文の内容と表現の素晴らしさは伝わりません。そもそも、原文はロシア語ですから、読んだ事はありませんが、ロシア語は、東京外国語大学のロシア語合唱団『ルムーク』に参加して、国立音楽祭に参加した事も有りますが、とても英訳文の表現がロシア語原文に記載されていたとは思えません。それほどに英訳文は素晴らしかったのです。だから、英訳文でノーベル文学賞を受賞したと思われるくらいです。基本的に日本人の哲学論議は哲学にすらなっていません。金沢に近い羽咋市の西田幾多郎哲学館があり、以前は毎年のように夏季合宿が行われて、日本感性教育学会の理事の私も、特別講演を依頼されて、何度か参加しましたが、日本の大学の哲学教授は、哲学さえ知りませんし、勿論、英会話すら出来ない程度であり、日本中の哲学講座が廃止されてきた現実の背景を露呈しています。また、数々の素晴らしいロシアは、数々の素晴らしいロシア文学作家を生み出してきましたが、大抵のロシア人は読んでいるはずだとは思いますが、おそらく理解できる人は極く僅かだと思います。そのロシア人の教育レベルだから、現在のプーチンの独走を許しているのです。読解力が有れば、英語を含む外国語も単語や文法を覚えなくても、理解できるようになるのです。如何に読解力を高めるかが、学力に直結するのです。私と二人の娘達が、受験勉強をしなくても、東京大学に楽に受かる程の実力が身につくのです。『学力🟰読解力』だと言えます。日本の教育は『読解力』を育てずに、学力を付けようとする自己矛盾を呈しているのです。 教育に関係してきた人々は、口達者な人である傾向が強いのか、発言が多いが、中身が乏しい傾向が強い。この中で『教科書は自習のための教材ではなく、教師が教える為の教材である』との発言には疑問を感じる。特に、英語の教科書の音読を毎日続けて来た事が、その後の英会話力の習得に最も役立った事は、急性アレルギー性副鼻腔炎で記憶力と集中力を無くした私にとっては、最も影響のある教材であった。その意味では、英語の教科書の教材は、自習用の教材であった。また、参考書などを買わずに、教科書だけを教材にして来た私と二人の娘達にとっては、充分な教科書であった。また、私のような戦後の団塊の世代には、小学校五年生の頃に、近くを通る北陸本線の蒸気機関車(SL)の大きな駆動車が蒸気ピストンと連結されていて、何故、カーブを曲がれないかを分からずに疑問を持って、注意深く見ていて、そのカーブを曲がれる原理を理解できた事や、図画工作の時間に配布された教材に記載されていた黄金比の計算方法を見出した事や、中学二年生の理科で習った凹面鏡が真円だと、焦点の一点に集光しない事に気付き、焦点の一点に集光する凹面鏡断面のカーブの放物線を導き出した事も、教科書には記載されていなかったが、学ぶ事の楽しみを味わえた思い出として残っている。その意味では、教科書は教師の利用する教材としてだけではなく、生徒が様々な疑問を持ち、それの疑問を解決する戦場であるとの印象が残っている。『教科書は自習のための教材ではなく、教師が教える為の教材である』との発言には疑問を感じる。 現在の文科省と、学校教諭が存続する限り、どんなに教育の議論をしても、僅かな効果しかないと思われる。私は、自分の出来る事だけを行うしか無いと思う。例えば、学校教諭達が自分の子供の可能性を最大限に引き出せた人が、どのくらい居るだろうか?皆無に近いと思う。下に記載した、私自身の学習は、学校教育とも、学習塾教育とも、全く異なる自己啓発法であり、そのほうが確実に成果が上がり、大学卒業後の実績も、学校教育に依存してきた人々を遥かに凌駕してきた。また、私の経験を、私の二人の娘達にも応用して、自宅では学校での勉強を禁止し、予習、復習、宿題、ドリル、問題集、塾などの受験教育の一切を禁止していた。しかも、二人は、藤島高校では弓道部に所属し、インターハイ出場を目指して、早朝から夜まで、練習に励んでいた。それでも、長女は防衛医科大学に合格、次女は大阪大学理学部に合格。長女は防衛医科大学で空手部で優勝歴多数、空手部の先輩の内科医と結婚、自身は整形外科医となった。次女は同大学院、理化学研究所、仁科加速器研究センターで研究し、原子核物理学者となって、同僚と結婚している。学校の生徒に多くを求める事の方が、結果として、『角を矯めて牛を殺す』結果に陥っている事を認識するべきである。現在の受験勉強で育った学校教諭に、受験勉強以外を求める事は『角を矯めて牛を殺す』結果に陥いる事が帰結となる事を思い知るべきである。また、現在の保育園や幼稚園は、単なる託児所化していて、教育の効果は皆無に近い事も認識するべきである。その意味で、私はプレスクールをヴァイオリン教育を柱とし、予防医療でサポートした食育と体育と読み書き算盤の習慣付けを柱の支えとした医療法人『貴志和会』三恵座育児センター『日本感性科学院』を新幹線主要駅に全国展開したいと考えています。ヴァイオリンは一歳からの1/32サイズ以上の8サイズを、医療法人『貴志和会』ヴァイオリン制作者育成工房『クレモナ』で作成して、レンタルする計画です。レンタル料金は作成者に還元しますので、負担軽減となり、毎年の制作本数によっては、授業料を超え、収入となり、イタリアのヴァイオリンの街クレモナへも留学できるようになります。また、医療法人『貴志和会』ヴァイオリン制作者育成工房『クレモナ』への入学会員権などは、譲渡も相続も可能ですから、入学会員権の高騰も可能性があります。しかし、高騰しないように、増設する予定です。