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アメリカの計算機科学者であり、C言語の設計者およびUNIXの開発者の一人として知られるデニス・リッチーを紹介します。
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こんにちは。人からわかる3分技術史。
今日はデニス・リッチーについて勉強していきましょう。
デニス・マカリスター・リッチー。1941年生まれ。アメリカの計算機科学者であり、C言語の設計者およびUNIXの開発者の一人として知られます。
リッチーは、32代大統領フランクリン・ルーズベルト時代のアメリカ合衆国、ニューヨーク州のブロンクスビルに生まれました。
父親はベル研究所に勤める技術者であり、リッチーもその影響を受けて育ったと考えられます。リッチーは幼くして優れた才能を発揮し、ハーバード大学に入学。1963年に物理学の学士号を取得しました。
リッチーは博士号を取得するため学業を続けます。そのなかでリッチーは、マサチューセッツ工科大学(MIT)のアルバイトとして、「Project MAC」に携わりました。
Project MACとは、MITにおけるコンピュータの研究プロジェクトです。それにはロバート・ファノ、フェルナンド・J・コルバト、マービン・ミンスキーらが携わっていました。
リッチーはそのなかで、コルバトやケン・トンプソンらとともに、「Multics」の開発に関わりました。Multicsはタイムシェアリング機能を備えた初期のオペレーティングシステム(OS)であり、MITとベル研究所、ゼネラル・エレクトリック社の共同プロジェクトでした。
リッチーは1967年には数学の博士号を取得後、ベル研究所に入所。引き続きMulticsの開発に関わりました。
しかし1969年、ベル研究所はMulticsのプロジェクトから手を引きました。しかしOS開発に未練のあったリッチーとトンプソンは、二人で独自のOSを作り始めます。そのOSはMulticsの特徴を継承しながらも共有ファイルシステムなどの先駆的な機能を備えていました。
そのOSはのちに「UNIX」と名付けられます。UNIXは広く普及し、これ以後のOSにおける規範となりました。
また、リッチーとトンプソンは、UNIX上で使える汎用プログラミング言語としてB言語を設計。1972年には、B言語を発展させてC言語を設計します。C言語は高水準言語の特徴を持ちながらも自由度の高い強力な言語であり、最も広く使われるプログラミング言語のひとつとなりました。
その後もリッチーは、トンプソンやブライアン・カーニハン、ロブ・パイクらとともにUNIXの発展に努めたのち、Plan 9、Infernoなどの開発に関与。
2011年に70歳で亡くなるまで活躍を続け、現在においても、C言語の設計者およびUNIXの開発者の一人として知られています。
以上!