くずはの宮/継体天皇の謎

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3 ай бұрын

交野天神社(神社参拝図鑑)
miyadaiku.net/katanoamatumiya/
『日本人が知らない!世界史の原理』(ビジネス社、宇山卓栄先生と共著)
amzn.to/48rUyMN
『日本思想史マトリックス』(PHP研究所)
amzn.to/46oZz8l

Пікірлер: 131
@kakochan8622
@kakochan8622 3 ай бұрын
継体天皇、謎が深いですね!もともとは父の居住地である近江で生まれ、父の死後は母の実家とされる越前で育ったそうです。子孫とはいえ応神天皇から100年は超える疎遠な傍系王族だったようです。大和、河内の豪族たちの反対も大きかったのかもしれませんね。樟葉で即位したときは58歳だったとか?高齢で地方出身者なのにわざわざ呼ばれるんですから、相当な実力者だったのかもしれません。 それにしても素敵な森と小鳥の囀り。いいところですね!行ってみたいです😊
@user-qq3cw5gd8p
@user-qq3cw5gd8p 3 ай бұрын
おはようございます⁉️楠は在住です。毎週お詣りしてます。嬉しいですね。
@user-iy8dm7mo3q
@user-iy8dm7mo3q 3 ай бұрын
素敵な杜ですね😊しだれ桜🌸がすごく立派です✨場所がどうあれ、継体天皇が逆境にも関わらず、皇位継承をしていただいた事に感謝の意を込めて、お詣りさせていただきます😌
@musashino_103hi
@musashino_103hi 3 ай бұрын
鶯の鳴き声が良いなあ。 継体天皇については、色々なことが言われていて、正直分かりませんが、くずはの宮がとても良い場所にあることは確かですね。 一度訪れてみたいと思いました。
@user-ne2xj2ij7k
@user-ne2xj2ij7k 3 ай бұрын
久しぶりに聞いた正統派鶯の声。心が安らぎます。これだけでもこの動画を見た甲斐があります。
@user-lo8mi1ui6s
@user-lo8mi1ui6s 3 ай бұрын
こういう動画を見て、成り立ちを知ると行きたくなります。 茂木さんは博識ですが、心が少年のような好奇心で包まれているので見ていて心地よくなります。 また一人神社チャンネル楽しみにしています😊
@poe70s
@poe70s 3 ай бұрын
森は森の形のままに手を入れてあって素晴らしい所です。 京阪電車でしか行けないところですが、昔は淀川を登っていたのかな。
@user-tx7bg4uy6o
@user-tx7bg4uy6o 3 ай бұрын
見事な垂れ桜🌸に、うっとり❤ 晴れやかな青空と鶯のさえずり❤ 何とも素晴らしいです❤ ありがとうございます
@nkzks6976
@nkzks6976 3 ай бұрын
鳥の鳴き声に癒されます。何度も皇統の危機があって、それでも現在の第126代まで継承されていることが奇跡的ですね。
@takekochi01
@takekochi01 3 ай бұрын
小学校低学年まで農村に住んでいましたが、名字が同じ家だとあまり血縁が強くなくても、親戚づき合いをし、同世代の子供がいると互いの家や村落で、兄弟姉妹扱いしていました。 今よりも共同体意識の強い古代に、少し遠縁の人物や親が同じでない一族の同世代の人間を兄弟としていても不思議ありません。 何事もおおらかな古代日本だったのでしょうね。
@Masaaki-Ito
@Masaaki-Ito 3 ай бұрын
大阪に行くと京阪によく乗るので樟葉駅は知っていました。でも継体天皇とゆかりがある土地なことは知りませんでした。こんど行ってみたいと思います。
@user-vw1mh4le1o
@user-vw1mh4le1o 3 ай бұрын
またまた地元にお越しくださりありがとうございます。 継体天皇は雄略天皇の孫で仁賢天皇の娘の手白香皇女(武烈天皇姉)との婚姻ありきの即位だったと考えます。 皇統からは大きく外れますが息長の王子と考えると養子としては順当と思いますし、 二人の子である欽明天皇までの中継ぎ(その後二人の天皇も)的な意味合いが強かったのかなぁと思います。 (王朝交代ならもうちょっと強い権力発揮しそうですがあまりそんな感じもしないので・・・)
@fujikof385
@fujikof385 3 ай бұрын
素敵な時間を過ごさせて戴きました✨心からありがとうございます✨
@alaindelon8737
@alaindelon8737 3 ай бұрын
本当にこうした動画は有難いです。
@user-wk8rh7gp5p
@user-wk8rh7gp5p 3 ай бұрын
樟葉といえば、枚方ですね、ようこそ大阪府へ👍👍府民ですが行ったことがないです。そうなんですか、明治になってからのことがあるのですね😳勉強になりました。👏👏👏
@JunkoAraki-mm4uf
@JunkoAraki-mm4uf 3 ай бұрын
京都市民ですが…散歩にぜひ訪ねてみたいにです。ついでに高槻の継体天皇墓も。
@plus-ko5qn
@plus-ko5qn 3 ай бұрын
対岸の島本在住 近所まで来てたんですね!嬉しい😃
@user-vl5fw4hv1o
@user-vl5fw4hv1o 3 ай бұрын
素敵な杜ですね💕☺️目が洗われます ありがとうございました
@user-ukiy
@user-ukiy 3 ай бұрын
私の考察ですが、 奈良に入らなかったのは、道中の星田に隕石が落ちたので被災地復興のために、本拠地近江方面に近い場所に宮を建てたと思います、隕石の事は何故か知られてません。
@maomao96363
@maomao96363 3 ай бұрын
正史にもなぜか出てきませんね。
@user-ukiy
@user-ukiy 3 ай бұрын
木内説です、 武烈天皇のひどい記実は隕石落下に関係があると思いたいw
@yuichi8167
@yuichi8167 3 ай бұрын
樟葉に沿って流れる淀川の少し下の方には、溝咋神社や三島鴨神社があり、大山祇や媛蹈鞴五十鈴媛、三嶋溝抗命などの国津神系、出雲系が多く祀られていて、古代にはこの辺りを統治していたと云います。
@maomao96363
@maomao96363 3 ай бұрын
三嶋溝杭!
@juancanela7888
@juancanela7888 3 ай бұрын
面白い! そして、 ぜひ天智、 天武天皇についてもお願いします!
@user-ml7st3xz8k
@user-ml7st3xz8k 3 ай бұрын
日本中、素晴らしい遺跡等沢山🇯🇵🥰 守っていきましょう。
@user-co7wq7ge9y
@user-co7wq7ge9y 3 ай бұрын
歴史は新しく作られる。茂木誠先生ならではの至言ですね。奈良県界隈、歴史散策には、ぴったりの季節ですね。先日ワニ神社に参拝しました。ビッグネームごろごろしていて、びっくりしました。
@hakubyakudan
@hakubyakudan 3 ай бұрын
樟葉にこんなお宮があったんですね。🌸 行ってみます。
@user-dr4op9bc5m
@user-dr4op9bc5m 3 ай бұрын
茂木先生、桜満開の頃、楠葉まで来ていただいて嬉しいです。 いつもありがとうございます。 伏見区淀に住んでおりますが、 楠葉の宮は、よく訪れるところです😊❤🎉 歴史の謎、多いですが、 是非とも解明してくださいね。 楽しみに待っています。 宜しくお願いします😊
@somatid8343
@somatid8343 3 ай бұрын
何度か訪れたことがあります。樟葉の宮のいわれはなんだか新しく感じましたが、明治に伝承が作られた説に納得いたしました。 (上にあるものが何であれ)ここの土と森は古くからあるものに感じました。歩いているとこの地がずっと守られ存在していることが嬉しく、じわじわ感謝湧き上がったことを思い出しました。氣が良かったです。 もしかしたら色々な伝承は、ただその場所が大切に残されるために人々の間に伝えられているのかもなぁ、と思いました。
@user-gt1nc1dw1x
@user-gt1nc1dw1x 3 ай бұрын
こんにちは。枝垂れ桜と玉砂利を踏む音と鶯の声が、いいですね!!😊
@user-zg2wo1mh2l
@user-zg2wo1mh2l 3 ай бұрын
鶯の声がとても心地よいですね。 最後の「ま、そういうことです」 この一言、とても好きです😊
@kzn3720
@kzn3720 3 ай бұрын
神功・応神朝に筑紫勢力に勝利し、筑紫側は球磨阿蘇側の傘下に入った。系図では武内宿禰の息子として多くの氏族が輩出しており、筑紫側の氏族をも包含した。 葛城襲津彦は荒木田襲津彦ともいい、母は葛城国造荒田彦女・葛比売である。荒木とは新木(新羅)の意であり、葛城氏は素戔嗚王朝の流れを汲む一族であった。 万葉集には葛城襲津彦に関する「葛城の 襲津彦真弓 荒木にも 頼めや君が 我が名告りけむ」という句があり、意は「葛城の襲津彦が使う新木の強弓のように、私を妻として頼りにしておいでなので、それで私の名を口に出されたのでしょう」であり、新羅を管掌できる人物であったと考える。仁徳天皇の皇后は葛城襲津彦の娘だが、磐之媛といって石眷属であることが伺える。葛城氏は、仁徳天皇から仁賢天皇(安康・武烈天皇除く)まで后妃を連続して輩出しており、当時の皇室・周囲にとって最も排除したい氏族であった。権力の振るい方如何によっては物部にとっても好ましくない存在だったと考える。 継体天皇に皇位が移った理由は母系を和珥・息長に戻すためであった。楯原神社の社伝によれば意富氏→意富富杼→息長氏の流れとなっており、目的は達成されている。拠点は和珥・息長の拠点があった近畿北部であり自然な流れである。皇統は維持されているし、維持するための執念さえ感じられる。
@user-do3xz8yw7h
@user-do3xz8yw7h 3 ай бұрын
動画有難う御座います。大変勉強となりました。 鎮守の森は古来の息吹を感じる貴重な場。まさに癒やし空間です。 有難う御座いました。
@user-fs7zl6hg5h
@user-fs7zl6hg5h 3 ай бұрын
有難うございます。出羽の国…安倍比羅夫に繋がるが継体天皇妃…や能のの照日の前など魅力溢れる大君ですね!
@Hiyoko-chan
@Hiyoko-chan 3 ай бұрын
枝垂れ桜にいた鶯が、ずっと先生の後を付いてきて、 継体天皇の謎を、一生懸命先生に告げているようでした🐦🎶 光仁天皇が祀られた交野天神社。 隕石が落ちた星田妙見宮がある交野市にも繋がりがあるような無いような🤔
@Tanaka-Ichiro999
@Tanaka-Ichiro999 3 ай бұрын
継体→体を継ぐ、変わってますね。年代が合わないのですが星田妙見宮の隕石に関係していると言うお話を聞いた事があります。
@user-tn3jm5kn5w
@user-tn3jm5kn5w 3 ай бұрын
5世孫というと桓武天皇と平将門くらい離れてることになりますね😮 朝敵になって獄門に晒された将門とはすごい違い。新皇を称したのも継体天皇の例を知っていたからでしょうね😮
@maomao96363
@maomao96363 3 ай бұрын
将門も五世孫ですから、意識していたでしょう。
@tadayukikitagawa2881
@tadayukikitagawa2881 3 ай бұрын
自分の実家が樟葉にあり 幼少期は、初詣に行ってました!
@user-ww2kt5ye8p
@user-ww2kt5ye8p 3 ай бұрын
えーーー‼️枚方市に来られたんですね!嬉しいです😊
@user-qu7fe1tr8y
@user-qu7fe1tr8y 3 ай бұрын
勉強になりました。いい環境ですね
@nao-kf3xz
@nao-kf3xz 3 ай бұрын
樟葉(楠葉)には樟葉宮、となりの交野市には磐船、隣の八幡市には石清水八幡宮 鶯かわいすぎる ホーホケキョ 口笛で真似ると返してくれますよ
@masayoshik2369
@masayoshik2369 3 ай бұрын
機物神社もありますね
@Jin-fw5yn
@Jin-fw5yn 3 ай бұрын
来られるの分かっていたら歩いていける和気神社や山崎の戦いの地形が分かる鳥羽伏見役の砲台跡へご案内できたのに。 車で10分程ですが洞ヶ峠もあるが、次の動画ははちまんさんかな?
@rkm81
@rkm81 Ай бұрын
茂木先生が樟葉に!!!お会いしたかった〜〜 恥ずかしながら、交野神社はお正月によく行くのですが‥奥があるとは知らなかったです。。。行ってみます!
@user-bh7lm7ri5c
@user-bh7lm7ri5c 3 ай бұрын
継体天皇は越前の国におられた若き日にも枝垂れ桜をとても大切にされられたとお聞きしております😊
@user-mw9bq3ok6u
@user-mw9bq3ok6u 3 ай бұрын
枚方、交野、、近いところによく来られててうれしいです。 また生駒あたりも来てくださいねぇ。丸山古墳とかも話題なりましたし。
@hyozos
@hyozos 3 ай бұрын
注連縄が気になってしかたがなかった。縄を綯った造りではなく芯藁に縄をまいた構造に見えます。 末端も二本または三本を綯ったようにはみえません。私の町区も注連縄を正しく作れる若者がいなくなって残念なものを提げているのが現状です。 注連縄は蛇の姿(交接は二本綯い、雌を得る雄の争いは三本綯いでどちらも左巻きです)を表し、二本は五穀豊穣を三本は戦勝祈願を意味します。
@user-jm2qh9bi2s
@user-jm2qh9bi2s 3 ай бұрын
武烈と継体でみると葛城氏族と和邇氏族とで分かれていた、 という見立てがあるように思います。 官僚機構や天皇制がまだ確立されていない時代には、地縁血縁が支配していて、 壬申の乱のような、皇統による権力闘争ではないと感じます。 その地縁血縁を語るのにもっとも重要だったのが天皇の母だったでしょう。 (欠史8代においても、天皇の母を記述することが歴史の中心) 継体天皇が奈良に入らなかった理由も、母方の系譜をしらべていて、 背景がみえたような気がした記憶があります。
@kibasnow
@kibasnow 3 ай бұрын
重要だったのが天皇の母 同感デスね。9番目の開化天皇も継体天皇と同じですね。和爾下神社の近くに住む者です。継体が成られた時、春日氏は春日山の奥に逃げたと言われています。柳生は春日の流れをくむ者と言われています。
@user-ty5wu5ku3p
@user-ty5wu5ku3p 3 ай бұрын
何年か前の夏に行きました。やぶ蚊に刺されまくり💦ここから近くの交野市にたたら跡ありますね。
@crepusculecrepuscule2945
@crepusculecrepuscule2945 3 ай бұрын
先生、こんにちは。久しぶりにコメントさせて頂きます。 権力と切り離された存在である現代でさえ旧宮家の復帰を快く思わず、愛子さまに皇統を継がせようとする勢力があるのですから、天皇=権力だった時代ならなおさら激しい権力闘争が行われ、すんなり継体が都入りできなかったであろうことは容易に想像が付きます。 そして現在まで皇室が長く続き受け入れられている実態を見れば、その抵抗は一時的な一通過点でしかなかったことは明らかです。旧宮家の復帰に反対がたとえあったとしても、やがてそれも歴史の中の一通過点として受け入れられていくはずです。 保守の中にも継体王朝交代説を唱える人たちがいますが、一貫して男系継承を守ろうとしていたことに変わりはありません。速やかに旧宮家の方々の皇籍復帰が実現されることを願って止みません。長文失礼いたしました。
@maomao96363
@maomao96363 3 ай бұрын
地方に埋もれていた五世孫まで探し出して、男系男子の皇統を継いでいただいた。これが、継体天皇の物語の本当の意味ですね。
@user-yx1hv9sf3o
@user-yx1hv9sf3o 3 ай бұрын
樟葉は昔住んでましておけいはんに乗っていろんなところに出かけておりました。
@maomao96363
@maomao96363 3 ай бұрын
「おけいはん」、素敵です😊
@user-xn1sk1ob7z
@user-xn1sk1ob7z 3 ай бұрын
もぎせかチャンネルいつも楽しく拝見しています。継体天皇気になってました。天智 天武天皇が兄弟でない、初耳です。
@user-zv9ez9ws2n
@user-zv9ez9ws2n 3 ай бұрын
継体天皇の息子、安閑天皇と宣化天皇の別 御名について調べてます。『日本書紀』には脚注に「形式的」と記されてますが、そうではないと思い、孤軍奮闘中です。
@user-mg3ug9jj4d
@user-mg3ug9jj4d 3 ай бұрын
私は先月にお参りしました。歴史は人が造るものだと思いました。 橿原へも愛子に逢いに行きました。 来週辺りは伊豆をウロウロする予定です、動画を参考にさせて頂きますね。
@maomao96363
@maomao96363 3 ай бұрын
愛子内親王殿下、初のご公務。ご立派になられました。
@oomorisoumen
@oomorisoumen 3 ай бұрын
最寄りのco-opに車を停めたら楽に行けます。
@Peco-yq1hs
@Peco-yq1hs 2 ай бұрын
貴重な情報有難うございます😊
@user-cg6cn7zl9w
@user-cg6cn7zl9w 3 ай бұрын
癒されました✨樟葉の森🌳行ってみます🙏
@kyotoism9864
@kyotoism9864 3 ай бұрын
隣の交野市にある磐船神社も日本書紀に載ってますね。
@k-ty8235
@k-ty8235 3 ай бұрын
枝垂桜に鳴き方が上手な鶯とまだ練習が足りない鶯の声が聴いていて楽しいです 得意げで(笑) 家にある資料見ると おおおど王ーおひ王ーひこうし王-26代継体天皇 皇紀1167年 意富富ど王(おおおどおう)と出てました。全部漢字だけど出てこないのでひらがなです。
@user-lx5rz2ml5u
@user-lx5rz2ml5u 3 ай бұрын
ありがとうございました。 継承には苦難ありますね。
@yunaohisa1810
@yunaohisa1810 3 ай бұрын
いつも楽しみにしています。イスラエルイラン戦争の解説もぜひお願いします!
@user-nx1rx8vh1x
@user-nx1rx8vh1x 3 ай бұрын
小鳥の鳴き声が春ですね、 先生の取材旅行中のひまわりちゃんが寂しがっているのではと心配になります💦💦💦
@user-ik5rg6tb5i
@user-ik5rg6tb5i 3 ай бұрын
継体天皇即位の地に立つ...。ですね。
@user-lx5rz2ml5u
@user-lx5rz2ml5u 3 ай бұрын
史跡を尋ね思考巡らす先生は、確信に迫って謎や大和の態度を考え深めて行きます。継体天皇は直ぐ奈良に入れず年増すなんて、おかし事しますね。また明治時代に神武天皇陵作ったり、整えたんですね。また奈良時代の継承も遠いですね。
@user-dv6pg5pz6t
@user-dv6pg5pz6t 3 ай бұрын
神社はなんといっても、杜、森が素晴らしいですよね。千年を超える木々。
@user-hz9en1er5r
@user-hz9en1er5r 3 ай бұрын
「むすび大学」のそばですね~
@user-ld5uv4uh8m
@user-ld5uv4uh8m 3 ай бұрын
その周辺には阿弖流為など。五龍尊竜院のグループが今も動いています。お狩場だった地域ですね。生駒さんもありますね。楠木グループと和田(岸和田)の神社も。
@maomao96363
@maomao96363 3 ай бұрын
こちらを守っているのも、その方々でしょうか? kzfaq.info/get/bejne/jr-TidyEzajOkas.htmlsi=-5qXNocO4iNnyEiu
@user-ld5uv4uh8m
@user-ld5uv4uh8m 3 ай бұрын
@@maomao96363 さま。聖神社葛葉稲荷と安倍晴明そこに蘆屋道満。関西の呪いの方々。
@user-ld5uv4uh8m
@user-ld5uv4uh8m 3 ай бұрын
@@maomao96363 さま。神主様は昔はミサワさんという方だったらしいですよ。
@user-lu9ss8op1s
@user-lu9ss8op1s 3 ай бұрын
20年も都に入れないなんて、、、普通なら考えられないことですけどね。なんかゴタゴタがいっぱいあってって、、、でも20年ですよね🤔🤔🤔🤔‼️🧐🧐🧐‼️
@user-wm2bq3uu7i
@user-wm2bq3uu7i 3 ай бұрын
ありがとうございます❤いつも勉強になります❤勉強させて頂いております❤❤
@user-sp8xs8gs9s
@user-sp8xs8gs9s 3 ай бұрын
今城塚古墳の近くに、住んでいます。機会があれば是非、継体天皇を祀った古墳と言われる、今城塚古墳の解説をお願いします。
@user-mj3gr6eg8p
@user-mj3gr6eg8p 3 ай бұрын
先生お疲れ様です。 京阪電車本線に樟葉という駅がありますが、由来は樟葉宮からなのでしょうか?
@user-pe5jn5wx7y
@user-pe5jn5wx7y 3 ай бұрын
クスノキはwikiによると「特に九州に多く、生息域は内陸部にまで広がっている。生息割合は、東海・東南海地方、四国、九州の順に8%、12%、80%である。」だそうです。もしかして神武東征の際に苗木を持っていっていたとかないですかね…
@amy987
@amy987 3 ай бұрын
継体天皇は出雲王家の血筋が濃いから、大和に入れなかったという説があります。出雲王家が滅ぶとき、大和王家と出雲王家は混血しました。大和はそこで、王朝をひらく正当性を得たのですが、武烈天皇の御世に次の代が絶えてしまい、出雲系集団から継体天皇を迎えることになった、ということのようです。 この辺りをまた紐解きしていただけたらとても嬉しいです。
@ttak5432
@ttak5432 3 ай бұрын
天智天皇系の桓武天皇が、継体天皇の隣に建立されたのも、何かありそうですね。
@tsushima0527
@tsushima0527 3 ай бұрын
2帝は國「体」を「継」承し、皇「統」を保「持」することに、功績があったと。諡号の命名者は考察した。
@kazumin1313
@kazumin1313 3 ай бұрын
11:00 「本当に兄弟ですか?」 が気になりました。
@anko1616
@anko1616 3 ай бұрын
地元民です。樟葉、枚方って読めないんですね⁉️ きてくださって嬉しいです☺️
@user-tm4gw6cj3l
@user-tm4gw6cj3l 3 ай бұрын
天皇の血筋は皇族は地方へ行って婚姻しているので皇統は継いでるので大丈夫だと思います。
@hanabi4189
@hanabi4189 3 ай бұрын
弟国(乙訓)宮も造ってますよね…
@user-dr4op9bc5m
@user-dr4op9bc5m 3 ай бұрын
筒城宮(つつき宮)も…。
@Saitama-kenmin
@Saitama-kenmin 3 ай бұрын
当時の20年…長いですよねぇ(謎)🙄🤔🤨🧐
@kousitu-tenpan-kaisei
@kousitu-tenpan-kaisei 3 ай бұрын
継体天皇は応神天皇から5代目、その后の手白香皇女は仁賢天皇の皇女で武烈天皇の姉妹、本家を継ぐために優秀な人を遠縁からスカウトして婿にした…つまり本家に入婿ではないですかね? 優秀でも地方出身で遠縁…奈良時代になって諡…継体という諡も…大和に入るのも晩年になってから…反対する豪族がいたのでしょう。后の手白香皇女との結婚で正統化されたということでは…? そうすると「男系で繋いできた…」というのも…???
@jupiter6550
@jupiter6550 3 ай бұрын
昔、高校の漢文の授業で殷の紂王が滅ぼされるくだりで、????となりました。 兄弟の訳ないよね。いったい何者なんだって思いました。不比等は絶対知ってたはずなのに。 でもそう思うと弓削の道鏡事件は腑に落ちます。 それとも今は言えないが、後世の人気付いてねということでしょうか?
@maomao96363
@maomao96363 3 ай бұрын
天智玉。
@jupiter6550
@jupiter6550 3 ай бұрын
@@maomao96363 さん、いつも動画楽しく真剣に拝見いたしております。これからもよろしくお願いします。
@tamakifujiwara5242
@tamakifujiwara5242 3 ай бұрын
一枚(ひとひら)のひら、とかた、でひらかた 樟(くす)が濁ってくず、と葉は、でくずは 学校で教えなくなった表外訓、常用外の古い日本語ですね
@hinagiku_6842
@hinagiku_6842 3 ай бұрын
樟と葉が複合語となった場合、なぜ「くす・ば」でなく、「くず・は」なのでしょう。そこが不思議。日本語の連濁というのは、普通(条件はありますが)二つの語が複合語になったとき、後の語の語頭が濁音になりますよね。でも「くす・ば」では、前の語が濁音化したことになります。それとも「樟葉」と書くのは当て字で、本当はもともと「葛葉」だったのでしょうか。
@tamakifujiwara5242
@tamakifujiwara5242 3 ай бұрын
土佐に楠目(くずめ)という地があり氏族の方も1000人近くおられますが、元は葛目だったという話もあるので同じ経緯なのかもしれませんね。 樟葉も室町~江戸期は河内国楠葉(くずは)でした。 元々でいえば真仮名で久須波(くすは)です。
@user-ts2wc1zs7d
@user-ts2wc1zs7d 3 ай бұрын
この世界には‥これまで本物の神がいない‥といったなら・・果てそんなことが‥と思われるでしょうが・・そうなのです・・・この世界の実情を見てみると・・まんざら嘘ではないと気づかれないでしょうか・・・?天と地の創造主の名にて・・
@ttak5432
@ttak5432 3 ай бұрын
鳥居が赤くないんですね
@angelhiptsubasa
@angelhiptsubasa 3 ай бұрын
色々ツッコミどころが満載なんですが💦
@user-zm9kj8ef6m
@user-zm9kj8ef6m 3 ай бұрын
宮内庁が御陵を発掘調査させないのもその辺りが関係してるかも知れませんね。明治になって京都を出てしまったのも、勘ぐれば怪しいですし…
@tkou-xb5gs
@tkou-xb5gs 2 ай бұрын
都怒我阿羅斯等=新羅の王子・ 天之日矛なら、応神天皇は 天之日矛と名前を交換したこと になる。
@maomao96363
@maomao96363 2 ай бұрын
名替えしたのは気比の大神。ツヌガさんは別の神社(角鹿神社)に祀られています。
@iriyaanko4783
@iriyaanko4783 3 ай бұрын
ほんとに古代ヤマト王権は成り立ちが不明です。もしかしたら日本の総理大臣みたいなものだったのかもしれません。基盤に稲作農民(国民)がいて、王権(政府)は有力な一族が派閥を作り、支える。古代なので今より血筋は重んじられてたけれども絶対ではないのでは・・・
@mayumi3300
@mayumi3300 3 ай бұрын
出雲の旧王家に伝わる伝承では、 あっと驚くお話が 語られています。 あくまで一説として ご紹介しておきます。 武内宿禰の子孫であった 蘇我臣家は、 越前三国の國造に任命され、 親族共々、そちらに移住します。 北陸は、 長髄彦と四道将軍として、 二役で描かれた大彦が 逃げたルートであり、 北陸の國造には 出雲と親しい大彦の子孫たちが 多く努めていました。 磯城王朝系のそれらの家は、 「道の公」家と呼ばれていました。 また、北陸には 武内宿禰の親族の國造家も多く、 それらの国が 【蘇我・道國造連合】として、 後には【蘇我王国】とも呼ばれる 共同体を作っていました。 そして、その盟主は 蘇我本家でありました。 わたしたちが歴史で習う 蘇我馬子などの蘇我氏は、 河内国にいた 蘇我石川臣家であり、 本家は三国國造であったと 伝わっています。 武内宿禰は 垂仁天皇から刺客を送られ、 出雲に逃げ、 そこで匿ってもらいます。 富家の姫を娶り、 出雲王家の親族となって 臣の称号を名乗ります。 その子孫たちが、 神功皇后の三韓征伐で活躍し、 仁徳天皇以降の河内王朝は、 その内の平群(もしくは巨勢)王朝が 続いていました。 同じく武内宿禰の子孫である 蘇我家は 北陸で地盤を固め、 大きな勢力となっていました。 蘇我家と東出雲王家(富家)は、 武内宿禰以降、 何度も婚姻を繰り返し、 濃い親戚となっており、 後に継体天皇として即位する オホド王も、 富家から蘇我本家ヘ 婿入りした人であったと 伝わっています。 オホド王は 三国港と日本海各地の港との交易を 盛んに行い、利益を得ます。 更に、琵琶湖と淀川を結ぶ 宇治川の合流点に 交易の拠点を起きます。 山背国西端の弟国(乙訓郡)の西隣は、 旧富王家所有の三島領(高槻)があり、 出雲出身者が多く、 手伝いに訪れます。 高槻は、 初代皇后・タタラ五十鈴姫や 鴨王・クシヒカタの母 活玉依姫の実家・三島家の拠点です。 つまり、オホド王は 北陸の盟主であったとともに、 日本海貿易と 琵琶湖から瀬戸内、 そして大和川から都までの 流通を抑え、 巨大な富とチカラを蓄えた 豪族であり、 その裏では多くの出雲族が 富家出身のこの王を 支えていたことになります。 仁徳天皇から始まる 平群王朝は、 親族同士の対立抗争が絶えず、 近畿の臣民に不評となり、 王家に年貢を納める人々が 減少していました。 それに対して、 オホド王の邸宅に貢納し、 土地の権利を護ってもらう 民や豪族が増えたと言います。 武烈天皇の没後、 大伴金村と巨勢臣男人が オホド王の邸宅を訪れ、 大王の位に就任するよう 申し出ます。 北陸の田舎に隠遁していた 無名の皇族を探して来たのではなく、 その当時、 1番栄えて人望があった人を 大王に迎えたということです。 継体天皇が河内に居続けるのは 元々、そこが拠点だったからです。 応神天皇まで 系図を遡ったのは、 仁徳天皇から武烈天皇までが、 平群王朝としてまとまっており、 別の系統であることを示すために、 応神天皇まで遡ったと思われますが、 応神天皇の子孫ではありません。 武内宿禰も皇族ですから、 大きな意味では、 皇統はつながっているとも言えます。 そして、仁賢天皇の姫 手白香皇女を后としますので、 そこで前王朝ともつながってゆきます。 正史では 蘇我王朝とは記載されず、 その代わりに 石川臣家が蘇我氏として 描かれています。 乙巳の変も 創作であったと伝えられています。 あくまで、一説です。
@user-dr4op9bc5m
@user-dr4op9bc5m 3 ай бұрын
教えて頂き、 ありがとうございます
@mayumi3300
@mayumi3300 3 ай бұрын
​@@user-dr4op9bc5m 祐子さま コメント、 ありがとうございます♪ どの伝承や文献でも、 シャボン玉のような空間で、 普通はその中で世界が完結しており、 一歩、玉の外ヘ出ると 全く話が合わなくなるのですが、 出雲口伝のびっくりすることは、 そのシャボン玉がなかったことです。 出雲から遠い地域、 日本各地や あるいは海外の出来事と すんなり辻褄があい、 全てちゃんと 起こる理由があって、 そのような現象が 現れているのだと、 今まで謎だったことが スルスル解けてゆくことが 沢山ありました。 時間的にも 空間的にも 延々とつながっている 伝承だったのです。 真実とは その場にいても 見ることが難しいです。 この口伝が 絶対、正解であるとは 思っておりませんし、 人それぞれ見方があって 当然と思っています。 ですが、 この口伝を知ったことにより、 今まで謎だった 多くの点と点が みるみる繋がっていったのは わたしにとって衝撃でした。 ご興味がおありでしたら、 武内宿禰と出雲の関係についても、 以前の動画に コメントしてあります。 各地の神社に その足どりが残されています。 もぎせか動画の 一ヶ月ほど前のショート動画、 【彦坐王の御陵】 その続きで、 【愛知のみなさん、質問どうぞ】 のところに 2つ続けてコメントしてあります。 時代はちょうど、 第二次物部東征時であり、 いわゆる欠史八代と言われている 磯城王朝が滅ぼされた時になります。 その後、どうなっていったか… それがこの継体天皇まで 続いているということです。
@user-dr4op9bc5m
@user-dr4op9bc5m 2 ай бұрын
コメントいただいていたのに、気づくのが今になってしまいました。申し訳ありません。 確かに、その場に立ち会っていても、真実を知ることは、難しいかもしれません。 その通りだと思います。 文献にあるもの、 ないもの、あったとしても真実が書かれているとは限りませんね。 奥が深いです。 いろいろとお教えいただき感謝感謝です❤
@mayumi3300
@mayumi3300 2 ай бұрын
@@user-dr4op9bc5m 祐子さま 何かに気づき、 新しい世界が観えてくるのは、 大きな感動であり、 喜びですね。 お返事、 ありがとうございました♪
@user-dr4op9bc5m
@user-dr4op9bc5m 2 ай бұрын
ご丁寧に教えていただき、 こちらこそありがとうございます❤
@user-mn3zj6ye3s
@user-mn3zj6ye3s 3 ай бұрын
ここでカメラを見たら京都府に成っていた不思議?元は男山石清水八幡宮の管理地だったと地元民に聞きました。
@maomao96363
@maomao96363 3 ай бұрын
ちょうど京都府との境ですね。
@yoigood41
@yoigood41 2 ай бұрын
用明応神と釈迦の荒御魂に◯界が反発して一旦途絶えてたようです。そこで繋ぎに継体が選ばれた様です。私的ながらケータイ天皇ならスマホ王子やスマホ皇女が出てきてもおかしくないと思います。😷
@user-xm6kb4pz2p
@user-xm6kb4pz2p 3 ай бұрын
こんにちは(゚▽゚)/😊😮😊
@user-xm6kb4pz2p
@user-xm6kb4pz2p 3 ай бұрын
くずは😊
@user-e4sr6jk3
@user-e4sr6jk3 3 ай бұрын
初代天皇ですね
@user-pd4gn8xo8e
@user-pd4gn8xo8e 3 ай бұрын
簒奪
@ernest-tachibana
@ernest-tachibana 3 ай бұрын
全国にある「貴船神社」の貴船とはどうやら徳島の「梶取(かんどり)船」に関係してる様です。 京都の貴船神社総社の境外社に「梶取社」があり、この神社は貴船神社の創建の話に由来するそうです。 梶取(かんどり)という阿波由来の名称が付けられている以上はこの梶取社および貴船神社は間違いなく阿波と関係ある神社だと思われます。
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