Рет қаралды 9,517
板津昇龍プロデュース
イタリア未来派は、1909年、イタリアの詩人フィリッポ・マリネッティがフィガロ紙に「未来主義創立宣言」を発表したことから始まります。その内容は、戦争と機械文明がもたらすダイナミズムやスピードを礼賛したものであり、「疾走する自動車はサモトラケの二ケよりも美しい」という有名な文句を残しました。
1910年には、「未来派画家宣言」と「未来主義絵画技術宣言」にウンベルト・ボッチョーニ、ジーノ・セヴェリーニ、ジャコモ・バッラ、カイロ・カッラ、ルイージ・ルッソロが署名しました。
彼らは、スピードとダイナミクスを賛美し、主題となる対象物の動きを一枚の絵に納めようとしました。思想的にはペラッペラに薄い未来派も絵画はなかなか美しいものがあります。
未来派の高慢で偏った思想は、ムッソリーニをして「私の師」と言わしめるファシズムの父、ジョルジュ・ソレルが前年に著した「暴力論」の影響があり、極めて右翼的かつ好戦的です。これらの運動はその後ファシズムと結びついて行きます。
ルッソロは、音楽家一家に生まれ、作曲家としても活躍しています。とくに「騒音音楽」の創始者としては有名ですが、騒音音楽を作曲した後は、飽きたようで作曲をやめ、画家として活動しています。ルッソロは騒音音楽を作り出す「騒音調整機(イントナルモリ)」も発明しています。
ルッソロは音楽と絵画という二足のわらじを履いていたため、あまり多くの作品を残していません。初期はご多分に漏れず印象派のような作品を描いていましたが、1910年ころから空気を突き通すような背景を特徴とする未来派絵画を制作します。その後、1920年代から40年代にかけては具象へと回帰していきます。とくに1940年代(最晩年)の作品は、日本画のようなタッチとなり、画面から静謐間がにじみ出るようになります。私はいろいろなものをこそぎ落としたような晩年の作品もあります。