Пікірлер
@user-lf2xk2kv5m
@user-lf2xk2kv5m 9 сағат бұрын
今度何か動物を飼ったらレコンキスタといふ名前人間のしようか?!考へ中です
@user-tp1im1py9m
@user-tp1im1py9m 9 сағат бұрын
マジで呂不韋のタネなら中華最大のスキャンダルだな。まぁ始皇帝の母親も大概だけどな。
@joegillian6781
@joegillian6781 16 сағат бұрын
何このチャンネル、面白すぎる、とむさぼるように見始めました。しかし毎回、内容が深いですね!目から鱗が落ちる思いです。
@user-md7zg8ye8f
@user-md7zg8ye8f 20 сағат бұрын
度量衡を統一することにより 正確に平等に税がとれるようになったということか
@user-lh6vb6xf9r
@user-lh6vb6xf9r 21 сағат бұрын
公式発表はなく、習近平の影武者が表に出ておりますが、先日、習近平は脳手術が成功せず、2024/7/上旬の亡くなったそうです。
@user-tp6vc4hs9c
@user-tp6vc4hs9c Күн бұрын
日本は神武天皇の頃、とは言えませんね、
@hunkorogashi2
@hunkorogashi2 Күн бұрын
単なる難癖なんだから政府はキチント対処するべきですね。外務省もだよ。
@KENH0420
@KENH0420 Күн бұрын
なるほど❤ 納得❤ 素晴らしい解説❤ ありがとう❤
@user-pc5Mf7kU4z
@user-pc5Mf7kU4z Күн бұрын
先住ヨーロッパ人が日本に向かい、縄文人となった例 日本語の起源はラテン語?夢とロマンの「新説」が話題に  例えば「こころ←corculum」「哀れ←avare」「こい(恋)← cupio」「上げる←aggero」「下げる← suggero」
「起こす←occurso」や、「がんばれ←quam vale」「おめでとう←omen datum」などのルーツはいずれもラテン語と喝破し、ラテン語が縄文時代に入り、日本語の形成に影響を与えた。 ラテン語と日本語の意外なる共通点  ・音の長短が重要……ラテン語学習者が使う辞書や教科書ではマクロンという長音記号が長音を示す時に使われている。実際のラテン語では、そんなものは存在しなかった。これがあるかないかで単語の意味が変わっちゃったりするんで、区別するのに便利だからと使っている。例を挙げると、liber(本 )と līber(自由な;līberīと複数形になれば「子供達」という名詞にも)とか。日本語でも似たようなケースがある。例えば、「好き」「数奇」「スキー」を言い間違えたら、結構残念な結果になる。 ・冠詞がない……ラテン語には冠詞というものが存在しなかった。 ・主語がいらない……スペイン語で「主語がいらない主義」はどうやら母(ラテン語)から受け継いでいた。ここでも動詞の活用によって主語は判別するため、主語をいちいち明記する必要がない。古いラテン語文献を読んでいると、「自分語りしてると思ってたら、いきなり三人称単数の動詞が出てきたけど!これ誰のこと!?それともひょっとして非人称動詞なのか…?」という場面に幾度となく遭遇した。本当の主語は英語で言うitなのか、he又はsheなのか…別に主語を記してはいけない決まりはないので、そこは親切心を以って後の時代の異郷人のために書いてやってもよかった。日本語話者でもたまに何でもかんでも主語を省いて話す人がいる。 ・語順は比較的自由……格やら3つの性やらっていう複雑な文法を備えてるラテン語様には難なくなし得る。人間は楽な方に走りたがる生き物だから、ラテン語が後のスペイン語やらフランス語やらに変化していくにつれて、「格とか面倒だから、もう語順だけで意味が通じるようにしよう。語順が自由すぎるのも疲れる」とか誰かが言い出した。日本語を取っても、動詞が最後という決まりさえ守れば語順なんてほぼどうにでもなる。口語に至ってはその決まりすら破る人続出。でも、ラテン語の自由奔放さには敵わない。                                            (以上) ハプログループD(Y染色体)の移動(ヨーロッパ→日本)  ハプログループDE(Y染色体)は→D(YAP+) =血液型A型、E(YAP-)=血液型O型に分かれた。最終氷河期にはアナトリア半島とバルカン半島は陸続きだったので、E (6万5200年前、地中海沿岸)がバルカン半島に入った後、D(約6万年前、黒海北岸)が分かれ、東進した。ハプログループD(Y染色体)の分布域からも、北回りだった。地中海沿岸系日本人はブルガリア語やスラブ系言語に影響を与えた。日本語の「ババ(婆)」、ブルガリア語の「ババ(баба)」、ロシア語の「ババ(Baba)」は「おばあさん」の意味で、発音も同じです。また、ブルガリア語の「あず(Аз)」、古代ロシア語の「あず(Азъ)」、古代日本語の「あ(吾)orわ(我)」は、「私などの一人称」の意味です。ラテン語の母音は A(ア)、E(エ)、I(イ)、O(オ)、U(ウ)、Y(ユ)の6種であり、古い日本語では「あ行えe」と「や行えye(ロシア語のЕ、е)」とは異なる発音と認識し、区別があった。  ハプログループD(Y染色体)=地中海沿岸系日本人(日本固有種D-M116.1*・16.6%、D-M125*・12.0%、D-P37.1*・3.9%、D-P42・2.3%、古代ラテン語)は、黒海北岸(現在のウクライナの黒海北岸辺り。ウクライナやポーランドではマンモスの骨で作られた住居跡が発掘されている)~北コーカサスに移り住み、インド・ヨーロッパ語族と一緒に住んでいた。マンモスを追って東に進み、バイカル湖畔に到達したが、2万年前、アムール川、沿海州を通って、氷河期は海面が140メートル低く陸続きとなっていた樺太や北海道(マンモス生息域南限)に南下した。約1万4000年前、凍った津軽海峡を渡って東日本縄文人となった。黒海北岸~北コーカサス(バルカン半島・スカンジナビア半島系I-P19・0.4%、アーリア系R-M207・0.4%)→カザフスタンやシベリア南部→バイカル湖畔(トルコ系C-M217*・1.9%)→アムール川(タタール系Q-P36・0.4%)→沿海州(ウリチC-M86・1.2%)→樺太→北海道(残留組がアイヌ)→東日本(1万4000年前)と移り住んだ。計39.1%。3400年前、寒冷化に伴い、西日本(人口が東日本の10分の1)にも広がり、北陸→山陰→九州西部・南部→沖縄と移動した。移動経路にはアイヌ語由来の地名が多い。蒙古斑のないハプログループD(Y染色体)は、アイヌでは9割を占めた。                                         (以上) ハプログループX(mtDNA)はヨーロッパ・縄文人・アメリカ大陸先住民のみにしか見られない。  バイカル湖畔にあるハプログループX(mtDNA)はハプログループD(Y染色体)~縄文人、アイヌ、中央アメリカ西部~、E(Y染色体)とR(Y染色体)が重複する地域~西中欧人、中近東人~、R(Y染色体)のみ~北アメリカ北東部~で観察される。先住民及びアイヌ人・縄文人で観察され、特にアルゴンキン語族話者に多く見られる。レーマン人の子孫であるインカ人とアイヌが同じ民族。4000年以上前のミイラからmtDNAを抽出し、インカ人の末裔であるケチュア族、ラウル・アパル氏より抽出したDNAと比較した。過去58体のミイラからmtDNAの抽出に成功し、それら58体のミイラとラウル氏のmtDNAを比較した結果、12体のミイラのmtDNAの文字配列(564文字)がわずか2か所だけの違いで、あとはすべて一致した。即ち、ラウル氏はレーマン人の子孫であることが科学的に証明された。また、データベースで調べたところアイヌ人の一部の人たちと非常に近い配列であることも判明した。1970年代に採血された純粋なアイヌ人の血液からのDNAとラウル氏のDNAの比較をした。これまでに調べられた全世界の2万7000人すべての人の中で、ラウル氏に最も近いのがアイヌだった。そして、その現代アイヌのmtDNAと埼玉県戸田市で発掘された縄文人のmtDNAが一致した。また、同様の結果は北米インディアンのトリンギット族とアイヌの間でも出ている。                                            (以上) JCウイルスにおける縄文・ヨーロッパ・アメリカ大陸の繋がり  JCウイルスは、日本では、東北でMY亜型が多い(日本特有タイプ)。西日本でCY亜型が多い(日本特有タイプ)。中部地域で双方同数。沖縄、九州に少数のSC亜型(中国華南に特有タイプ)。鹿児島、長崎、山梨、富山、山形に少数のB1亜型(アジア大陸に広汎に分布)。青森、秋田、宮城、山形に約1割のEU亜型が含まれる(白人に特有タイプ)。また、弘前・秋田・仙台など北日本の住人の一部から1〜2割の割合でヨーロッパにしかみられないポリオーマ・ウイルスA型が見つかっている。日本にはモンゴルや中国東北部のB亜型がほとんど存在せず、西日本のCY亜型や東日本のMY亜型が日本特有タイプである。なお、MY亜型は、7300年前の喜界カルデラの大爆発後、東日本縄文人が太平洋を渡って、アメリカ大陸の西海岸に到達したので、中南米にもある。  ヨーロッパ、北アフリカ、アラビア半島を含む地域はEU亜型(白人に特有タイプ)、アジア、インド、アラビアからギリシャまでを含む広大な地域はB2亜型、アフリカ大陸、インド、アラビア、ギリシャまでを含む地域はAf2亜型、メキシコ北部、メキシコ中部、ペルーではMY亜型。                                             (以上) 犬の血液型は日本とヨーロッパがA型、アジアがG型  犬の赤血球の糖質によって、A型とG型に分けられる。世界の38品種の犬を調べたところ、柴犬(古代犬種)や甲斐犬、紀州犬などの和犬やアジアに生息する犬は、A型、G型の血液を持つ。ヨーロッパではA型の血液しか持たない。秋田犬(古代犬種)と北海道犬は、ヨーロッパ犬と同じA型しか持たず、ヨーロッパから連れてきた。
@user-pc5Mf7kU4z
@user-pc5Mf7kU4z Күн бұрын
先住日本人がヨーロッパに向かった例 ハプログループN(Y染色体)の遼河文明と縄文土器の関係  新石器時代の中国東北部(満州地域)や東海岸の遺跡から縄文土器が出土している。  「遼河文明」が黄河文明や長江文明に影響を及ぼした。中国東北(満州地域)の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つで、紀元前6200年ごろから存在した。1908年に考古学者の鳥居龍蔵が遼河文明の一つである紅山文化を発見した。大規模な竪穴式住居が出土しており、特に遼寧省凌源市から建平県で発見された紅山文化の遺跡の一つ牛河梁遺跡は広範囲にわたって墳墓や祭壇などの神殿が発見され、先史時代の「国」があったのではないか。紅山文化の遺跡からは風水の原型と見られるものも出土している。 興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだ翡翠などの玉製品が発見されている。また最古の遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器=縄文土器などが出土している。このように黄河文明や長江文明と異質でありながら、古代の中華文明に大きな影響を与えた。従来は過去100万年にわたって砂漠であった遼河沿岸は1万2000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した。このために、約4000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、後の中国文化へと発達した可能性がある。中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃~紀元前2900年頃に存在した新石器時代の文化。万里の長城より北方、燕山山脈の北から遼河支流の西遼河上流付近にかけて広がり、農業を主とした文化で、竜などをかたどった翡翠などの玉から、現在の中国につながる文化や宗教の存在の可能性がある。出土品を見ると、確かに後の中国文明とも共通するものを感じさせる。  遼河文明遺跡における6500年前から3600年前にかけての古人骨のY染色体ハプログループ分析ではウラル系民族で高頻度に観察されるハプログループN(Y染色体)が60%以上の高頻度で認められることから、遼河文明を担った集団はウラル語族を話していた可能性がある。遼河文明を担った人々と、北欧のフィンランドやノルウェー、ロシア北西部などに住むウラル系民族は、同じルーツである。実際にウラル系民族が住んでいるところから櫛目文土器が出土している。当初は東南アジアにいた祖先型であるNO*(Y染色体)がN(Y染色体)祖型とO(Y染色体)祖型に分岐した後、そのN(Y染色体)祖型が北上して遼河流域にやってきて遼河文明を発展させた。O(Y染色体)祖型はO2(Y染色体)系統【長江沿岸・日本列島系】やO3(Y染色体)系統【黄河沿岸系】に分岐して長江文明や黄河文明を開化させた。遼河文明を担った人々は気候の変動や他民族から追われて、北西へ移動した。その根拠は櫛目文土器=縄文土器の出土である。最古のものは遼河文明・興隆窪文化(紀元前6200年頃~紀元前5400年頃)の遺跡から発見されており、フィンランドでは紀元前4200年以降、朝鮮半島では紀元前4000年以降に初めて現れる。日本の縄文土器にも類する土器(曽畑式土器)があり、弥生土器にも似た文様を持つ物がある。土器は東アジア発祥であり、西へと伝播した。曾畑式土器との類似が指摘され、縄文文化にも影響を及ぼした。遼河流域に紀元前6200年頃から繁栄した文明が北欧に伝播するとともに、朝鮮半島、日本列島にも伝播し、影響を及ぼした。  縄文文明【紀元前1万6500年~紀元前1000年頃、旧O2b(Y染色体)系、縄文語】や長江文明【紀元前1万4000年頃~紀元前1000年頃、旧O2b(Y染色体)系、ベトナム系言語】に遅れて、7300年前の喜界島超巨大噴火以後に遼河文明【紀元前6200年前~紀元前500年頃、ハプログループN(Y染色体)、ウラル語族】と黄河文明【紀元前6800年~紀元前1600年、ハプログループO2(Y染色体)=旧O3(Y染色体)、シナ・チベット語族】が起こり、難を逃れた縄文文明人がこの2つの文明に深く関わっていた。遼河沿岸地帯は1万2000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在した。  その後、遼河文明人は、約4200年前頃から始まった気候変動により砂漠化したことから、色白金髪碧眼(青い瞳)高身長のハプログループN(Y染色体)は西に移動し、カザフスタンのバルハシ湖の東にいた(狭義の)匈奴【ハプログループN(Y染色体)、ウラル語族】と呼ばれていた。中央アジアのキルギスの例からソグド人(バルハシ湖の南西にあるソグディアナに住んでいた)はハプログループR(Y染色体)、ハプログループO(Y染色体)、ハプログループC(Y染色体)の混血であり、(狭義の)匈奴(ハプログループN(Y染色体))とは別である。昔はソグド人と(狭義の)匈奴を混同していた。温暖化(7000年前にピークを迎える縄文海進は約1万年前~6000年前)に伴い、関東まで熱帯であり、ハプログループN(Y染色体)は適温な青森県に移り住み、三内丸山縄文遺跡を担った。この人たちは栗や栃の実などを栽培していた耕作地が疲弊してきたため、青森から関東方面に向けて移動していった。氷河期が終わって海面が上昇すると、北極海の冷たい海水がベーリング陸橋→海峡を通って親潮(寒流)となって太平洋に流れ込んだ。7000年前から太平洋沿岸の寒冷化が進み、3500年前、東日本縄文人【東北のハプログループN(Y染色体)、ハプログループC(Y染色体)、関東のハプログループD(Y染色体)】が南下し、西日本にも広がった。遼河文明と縄文文明は関係が深く、頻繁な往来があった。  最初の日本人C1a1→最初のヨーロッパ人C1a2→C1b→チュルク系C2a→ツングース系C2b  現在、この(狭義の)匈奴は北欧【ハプログループN(Y染色体)のフィンランドのフィン人、スカンジナビア半島東半分に住むサーミ人、コラ半島辺り、バルト3国人、ウラル語族)】や東欧【ハンガリー人、ウラル語族、現在は周囲と混血し、ヨーロッパ人の遺伝子が多い】に住んでいる。ハンガリー人はハプログループR(Y染色体)の比率が高く、ヨーロッパ人化が進んでいるが、フィンランド人はハプログループN(Y染色体)の比率が高く、アジア系の特徴が残っている。ハンガリー人はマジャール人とも呼ばれているが、マジャールは(広義の)匈奴=モンゴル(ペルシャ語のムガール)である。フィンランド人(Y染色体ハプログループN1a1・61%、 I ・29%、 R1a ・5%、R1b ・3.5%)、サーミ人(N・48%、I1・約31%)、バルト三国人【+I(Y染色体)、エストニア人N(Y染色体)・41%、ラトビア人、リトアニア人】、マジャール人(Y染色体ハプログループR1a が最多、R1b や I がほぼ高~中頻度、NやC2が低頻度)等である。ハプログループ I (Y染色体)が結構多いことから、スカンジナビア半島辺りで、バルカン半島系のハプログループ I (Y染色体)、中東・東欧系のハプログループR1a(Y染色体)、西欧系のハプログループR1b(Y染色体)、遼河沿岸・日本列島系のハプログループ・ハプログループN(Y染色体)が混血してバイキングとなり、ヨーロッパに広がった。  アムール川沿岸には3割が色白金髪碧眼高身長であるタタール人【アメリカ先住民系Q、ツングース系C2b、遼河沿岸・日本列島系N】が住んでいた。最初の日本人C1a1→最初のヨーロッパ人C1a2→C1b→チュルク系C2a→ツングース系C2b。
@lovely_bonnie_dixie_and_nippon
@lovely_bonnie_dixie_and_nippon Күн бұрын
この旗や靖国神社の問題に関してはアメリカの南軍旗論争と似た物があると思う。
@user-wl4jh9uy1i
@user-wl4jh9uy1i 2 күн бұрын
なんか韓国人みたいなこと言ってるのがいっぱいいて萎えるわ、日本は近代の200年ぐらいしか中国より進んでる時期はないんだよ、現在もすでにはるかに抜かれてるのに気づいてないし、いくら言い張っても無理だから
@tekikaku8675
@tekikaku8675 3 күн бұрын
信が、生きていれば😢
@hrnyarea88
@hrnyarea88 3 күн бұрын
マグナ・カルタが今でも有効とは知りませんでした。セピアさんの動画,いつも面白いです。
@user-lf2xk2kv5m
@user-lf2xk2kv5m 3 күн бұрын
七十歳女子です 中学生の時、彼のことをいろいろに書いてあって 何が本当なのと思ひ、社会科の先生に質問をしました 先生は、うぅんと暫し考へてから 毀誉褒貶のある人なんだよと答へました 私は、、、、??、 中三の時にソルジェニィツィンの イワンデニソヴィチの一日を読み ひどくびっくりしました 歳を重ねていろいろな情報にふれましたが、やはりいい人とは考へられません
@kakimori_p9785
@kakimori_p9785 3 күн бұрын
ひと一人の本名でこんなにエピソードがあるの素直に凄い!!中国史は名前が複雑で覚えられないからってのが苦手な理由のひとつでしたが、名前から歴史や色々な状況を考察できるのなら印象に残りやすいし、こうして覚えられるのは嬉しいです。
@kakimori_p9785
@kakimori_p9785 3 күн бұрын
呂不韋賢いし、野望のためにかける情熱も凄くてつい聞き入ってしまいました。賢い金持ちだからこそできたものですね。どっちが欠けててもダメだった。「奇貨なり」今はダイヤの原石って言葉で浸透していますね。あと、ぐちゃぐちゃ家系図大好き委員会としては、実の子じゃないかも家系図に興奮してしまいました。
@user-ky3xi9qv1n
@user-ky3xi9qv1n 3 күн бұрын
韓国への通貨スワップを止めよう。
@user-hq6vu8is3w
@user-hq6vu8is3w 3 күн бұрын
前漢建国のころも戦国時代の封建国家が納得できる理想的国家モデルだったようですね。秦王室、漢王室が滅びたての周王室の代わりを果たしたのかもしれません。
@user-sw2xu2qr6y
@user-sw2xu2qr6y 3 күн бұрын
始皇帝が「始皇帝」じゃなかったというのは興味深いですね 歴史ってこうやって更新されていくのが面白いです 「聖徳太子」に関してはのちの世の人がそう呼んだってことなんでしょうね 歴代天皇の「〇〇天皇」ものちの世の人が名付けてるだけですし、それと同じですね
@user-lf2xk2kv5m
@user-lf2xk2kv5m 3 күн бұрын
ドイツの昔のことはごちゃごちゃして全く分からなかったのですが、 少しはスッキリしてきました 有りがたうございます
@user-rd7lp9ko1o
@user-rd7lp9ko1o 3 күн бұрын
ありがとうございます!
@dolphinthrough6606
@dolphinthrough6606 4 күн бұрын
面白かったです。 まさか趙高と同じ氏族名だとは思いませんでした。 或は趙高があのポジションに居られたのは同じ氏族だった?から何て事もあるのでしょうか? 更なる研究を待ちたいところです。
@user-lf2xk2kv5m
@user-lf2xk2kv5m 4 күн бұрын
市民にの手に革命がどういふ過程を経て移っていったのかをルイ十四世から説明してくださり、とてもわかりやすかったです
@user-vg4ht7gz8y
@user-vg4ht7gz8y 4 күн бұрын
セピアさんはよく勉強されていますね。他人の受け売りを話術で上手に話すだけの歴史系KZfaqがほとんどですが、セピアさんのお話は毎回、独自の考えが入っていてとても面白いです。これからも頑張って下さい。
@うさぎ-s2i
@うさぎ-s2i 4 күн бұрын
今回も凄く勉強になりました! 姓と氏の違い、分かりやすかったです。
@labo8303
@labo8303 4 күн бұрын
现在对于赵国公室的单倍群标记为O-F25545,追溯到2950年前的一位男性,推断应该是赵国公族一世赵造父本人,而秦国公室的单倍群标记为O-MF14479,追溯到2910年前的一位男性,应该是秦国公族一世赵非(秦非)本人,而赵非(秦非)是造父的侄孙,两人差40岁年龄也对得上。他俩的共祖是赵非七世祖、赵造父的四世祖---蜚廉,单倍群标记为O-F3256,追溯到3070年前的一位男性。历史记载飞廉是纣王(1075BC-1046BC)时期的大臣,恰好在3090-3050年前之间,几乎严丝合缝地对上了历史记载。​
@user-tt6im3vy7q
@user-tt6im3vy7q 4 күн бұрын
今回も面白かったです♪ 新しい資料等で 新しい事が 分かるのも 歴史は面白いですね 次回も楽しみに待ってます😄
@hrnyarea88
@hrnyarea88 4 күн бұрын
なるほどですね。セピアさん,やっぱり分かりやすいです。
@warosu_emperor
@warosu_emperor 4 күн бұрын
今回も面白かったです 歴史は過去の出来事なのに、まるで今も生きているかのように変化していきますね 現代に生きている人々が研究を続けていて、そしていまだに新しい発見があり続けるというロマンを感じます それが歴史の面白いところではありますが、一度覚えたことを覚えなおすのはちょっと大変かも…
@user-tf7qf4kc3j
@user-tf7qf4kc3j 4 күн бұрын
呂不韋が父親とも言われているので趙政と名のり後から嬴政と紐付けていったとも考えられそうですね。
@cancan5892
@cancan5892 4 күн бұрын
始皇帝が聖徳太子のように、実はこういう名では呼ばれていなかった!最近古代史は多くの研究成果で随分変わって来ていますが、始皇帝という名称は、残して欲しい気がします。 相邦が相国に変わったというくだりで、清盛の呼び名を思い出しました。有名な月岡芳年の東錦絵の芳年武者无類で平相国清盛と記されているのは、この中国の名称から来ているのでしょうか?!
@philosophydoubtfuljournalcom
@philosophydoubtfuljournalcom 4 күн бұрын
姓を賜る文化はもっと後なので、4千年前だかエイという名前を賜っているとは考えられないという謎理論にちょっと不審感を感じているのだけれども、趙で行われた大虐殺事件のぶり返しを恐れた秦が、兄弟という歴史をでっち上げた可能性もありますよね。中華の古代は想像力を刺激し面白いです。となると因みに趙雲もその流れを汲んでいると自覚していたのだとしたら、なんとなく三国志での活躍もわからんでもない。その神話の中国の話をもっと聞きたいです。毎日更新してください。
@user-di6xr2eq5o
@user-di6xr2eq5o 4 күн бұрын
今日も面白かったです😊
@user-rf5dw9wj2q
@user-rf5dw9wj2q 4 күн бұрын
キングダムの安国君のイメージが……
@user-nq2fh4ll7s
@user-nq2fh4ll7s 4 күн бұрын
姓と氏の概念て難しいですよね。しかも昔は日本でさえ本名でなんて呼ばないし。 でも本当の名前は家族しか知らない、みたいな風習はなんか憧れます
@zero-reki
@zero-reki 4 күн бұрын
始皇帝の本名問題、特に「嬴」か「趙」かというのは結局、【本名】って何なの? という1点に集約されます。 今回の前半でお話しした内容が史実だとして、姓が「嬴」、氏が「趙」の国王がいたという事実があるだけです。 これを、戸籍の本名とネットのハンドルネーム、結婚前の旧姓と結婚後の新姓、のような区別と同じように考えると途端に混乱します。 例えが的確かどうか怪しいですが、例えば千葉県船橋市に住む人がいたとして、「あんたの本当の住所は千葉なのか船橋なのか?」と聞かれたらどうでしょう。 千葉でもあるし、船橋でもある。県は千葉だし、市は船橋だ。そう答えるはずです。 「あんたどこの人?」と聞かれて、その人が千葉と答えやすいか船橋と答えやすいか、そういう部分は観察や議論の余地があります。
@user-zv3ro5le8h
@user-zv3ro5le8h 4 күн бұрын
ポーランド 大国だったのかぁ 近代以降は 弱小で ドイツ ロシアの草刈り場だったのに
@user-vl5zc7qr2g
@user-vl5zc7qr2g 4 күн бұрын
話し方苦手😂
@user-dc6hn4fg7e
@user-dc6hn4fg7e 4 күн бұрын
そうですよね~歴史的には中国は多数の民族から成りたっており、決して漢民族だけの物ではありませんよね~ 一つの中国説 中国政府の言っている事は歴史を正確には反映していませんね! 歴史問題。本当に歴史を勉強すべきは中国政府では?
@desu-Love-God-peace-fo9bj4pu3e
@desu-Love-God-peace-fo9bj4pu3e 4 күн бұрын
大規模戦闘の有る場所は?大陸よ✋甲骨文字の有る辺りで大規模戦闘起きて強いてしまったぬ(´-ω-)ウムその前から弥生人先生と縄文人先生が融合しとるよ✋でソコで遺伝子が変わるぬ(´-ω-)ウム圧倒的に変わるのは?食物で変わるぬ(´-ω-)ウム前時代の日本で生産された麦じゃ収穫率悪すぎたぬ(´-ω-)ウムソコで長年探して発見した米🌾ぬ(´-ω-)ウム画期的な食物だったぬ(´-ω-)ウム確かに?カロリーベースでも?どでかい食物ぬ(´-ω-)ウム圧倒的に人間を変えてしまったぬ(´-ω-)ウム