【第6回:臨済録に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2023年12月19日(火)

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公開講座花園大学

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5 ай бұрын

「建学の精神」である禅仏教による人格の陶冶をテーマに、「禅・仏教講座」として開設しています。
禅の世界をあらゆる角度から捉え感得するため総長、学長、仏教学科教員を中心に授業を展開し、その他、いす坐禅・読経など実践を行います。
「知識としての禅」から「感じとる禅」への転換をテーマとし、「自分だけにしかないいのちを生きる」ことを目標とした講義です。
なお、学生向けに配信している総長講義のみ、順次公開させていただきます。
禅とこころ 臨済録に学ぶ 第六回 令和五年十二月十九日 
臨済禅師の説法―示衆―            花園大学総長 横田南嶺
活潑潑地=極めて勢いのよいさま。気力がみちみちて活動してやまぬさま。
諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。(岩波文庫『臨済録』41ページ)
君たちが、衣服を脱いだり着たりするように、自由に生死に出入したいと思ったら、今そこで説法を聴いている(君たち)その人が、実は形もなく姿もなく、根もなく本もなく、場所も持たずに、ぴちぴちと躍動していることを見て取ることだ。その人が発動するさまざまの方便はすべて、はたらきとしての跡かたを一切とどめぬ。だから追いかければ追いかけるほど遠ざかり求めれば求めるほど逸れていく。ここが摩訶不思議というものだ。
諸君、君たちの幻のような連れを実在と思ってはならぬ。そんなものは遅かれ早かれするりと死んでしまうのだ。君たちはこの世で一体何を求めて解脱としようとするのか。ひとくちの飯にありつき、衣のつくろいをして時を過ごすよりは、良師を訪ね歩いて教えを請うがよい。ずるずると五欲の楽しみを追っていてはならぬ。光陰は過ぎ易い。一念一念の間も死への一寸刻みだ。大にしてはこの身を作る地水火風(の変調)に、小にしては一瞬一瞬が生住異滅の転変に追い立てられているのだ。諸君、即今ただいま、これら四種の変化が相なき世界であると見て取って、外境に振りまわされぬようにせねばならぬ。(『臨済録』62~63ページ)
皆の衆、衣に目をくれてはいけない。衣は自分では動けない。 人がその衣を着るのだ。衣には清浄衣や無生衣や、菩提衣や涅槃衣や、祖衣や仏衣などがある。しかし皆の衆、こうした名前や文句はすべて、対象に応じて着せかけた衣だ。下っ腹から空気を振動させ、歯をかち合わせて言葉となったもので、こんなものに実体のないのは明らかだ。諸君、こうして外に音声言語が発せられるのは、内なる心のはたらきの表われであり、意思が動いて想念を起こすのだ。
だからそれらはみな衣である。ところが、君たちはそれが着ている衣だけに目を注いで、それを真実だと考えている。そんなことでは、たとえ無限の年月修行しても、衣についての通になるだけの話だ。迷いの世界を堂々めぐりして、生死輪廻することになる。それよりも、のほほんとしているのが一番だ。『出会うても相手は分からず、話し合うても名も知らぬ』だ。(『臨済録』120ページ)
法性の仏身とか、法性の仏国土と言っても、それは明らかにちらつきなのだ。諸君、君たちはそれをちらつかせている当体を見て取らねばならない。それこそが諸仏の出どころであり、あらゆる修行者の終着点なのだ。君たちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。
今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ。こう見て取ったならば、君たちは祖仏と同じで、朝から晩までとぎれることなく、見るものすべてがピタリと決まる。ただ想念が起こると知慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる。しかし、わしの見地に立ったなら、〔このままで〕極まりなく深遠、どこででもスパリと解脱だ。(『臨済録』39ぺーじ)
皆の衆、君たちは、頭陀袋と糞袋を担いで脇みちへ走りまわり、仏を求めたり法を求めたりしているが、現に今そのように求めまわっている当体を君たちは知っているのか。それはぴちぴちと躍動していながら、実は存在の根拠をもたぬ。手で掻き集めることもできず、払い散らすこともできない。求めようとすれば却って遠ざかり、求めなければちゃんと目の前にあって、その霊妙な声は耳いっぱいに聞こえてくる。もしこれが信じきれないならば、一生の修行も無駄骨折りだ。(『臨済録』115ページ)

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