忖度ナシの「魏志倭人伝」 魏の使者が語った西暦238年の日本人の生活とは!?邪馬台国や卑弥呼だけではない!【ゆっくり歴史文化探検】

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ヨッシーの歴史文化探検ch

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2 жыл бұрын

邪馬台国や卑弥呼が注目される「魏志倭人伝」ですが、当時の日本人(倭人)の生活習慣についてかなり詳しく語られています。
当時の魏の使者が日本に忖度するはずも、話を盛る理由もないので、実際に見聞きしたことをリアルに記録してあると思われます。
日本書紀の記述とズレがあるなど、意外な発見もありました。
この動画では、魏志倭人伝の中から「日本人の生活習慣」についての記録部分のみ抜粋してまとめました。

Пікірлер: 715
@user-fh1te3rk2v
@user-fh1te3rk2v Жыл бұрын
魏志倭人伝って邪馬台国論争で場所の話ばかりだから他の部分の解説はありがたいです😊
@nekono_mimikon
@nekono_mimikon Жыл бұрын
上(カミ)に対して拍手し跪く動作が 神(カミ)に対する柏手として残るなんて面白いですね。
@JOKER-tw3di
@JOKER-tw3di Жыл бұрын
動作が1800年も残って今も行われてるってすごいよね
@hauk7716
@hauk7716 Жыл бұрын
父の世代から見て親世代(今の8.90代?)の漁師は、刺青入れてる人が多かった って、父に聞いた事があります。 理由は、海難事故が有った時誰か分かるようにって事だと言っていました どこの人か?誰か?の識別の為の刺青が、大昔から受け継がれてるのかなぁ?と思うと面白いですね。
@javawaky
@javawaky Жыл бұрын
漁猟を生業とする民族に刺青の風習があったのは、死体を見れば溺死者の所属や身分が判別しやすくするため。 ウェールズやアイルランドでも、家ごとに異なった凝った編みかざりのセーターを着せて溺死者の特定ができるようにしている。
@meemin8374
@meemin8374 Жыл бұрын
フィッシャーマンズセーターって、そういう意味があったということですか?勉強になります!!
@satosin2660
@satosin2660 Жыл бұрын
入れ墨については、洋の東西を問わず、多くの海洋民族に採用されてます。 ある意味、普遍的な文化と言えるでしょう。
@peaceharmony4254
@peaceharmony4254 Жыл бұрын
なんで海洋民族は入れ墨をいれるんでしょう?? スコットランドの漁師のアーガイルセーターの模様が一族によって違うように 海難事故で死んだ時、模様で分かるから?
@satosin2660
@satosin2660 Жыл бұрын
@@peaceharmony4254 そういう事でしょうね。 装備品などは無くなっても、皮膚は最後まで残りますからね。
@user-my2hq9jo6s
@user-my2hq9jo6s Жыл бұрын
魏志倭人伝の倭国の記述なんて、そんな大したこと書かれてないと思い込んでました。すごく詳細に書かれてたんですね!!
@ch7072
@ch7072 Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 こんなに詳しく記録していたなんて驚きですよね!
@satoshia8121
@satoshia8121 Жыл бұрын
こっちの方が学校で教えるべきことやと思う。
@teruyukisato
@teruyukisato Жыл бұрын
倭人伝って言う位だから詳しく書かれてるでしょ
@user-jp2vh9bt4y
@user-jp2vh9bt4y Жыл бұрын
@@teruyukisato 「魏志倭人伝」とは正式な名称ではありません。 wikによれば「中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条の略称」ということで「魏書」のほんの一部ということですね。
@nihontaro9
@nihontaro9 Жыл бұрын
@@user-jp2vh9bt4y 様、烏は太陽に住むと信じられていた三本足の鳥のことでたぶん太陽の丸い星に住む烏が居る日の出る東方の朝鮮の近くの烏丸国の東夷、はるか東方の下品で野蛮な民族の倭人とは。という意味のタイトルだとおもいます。そのまんまですがW
@user-yutaro
@user-yutaro Жыл бұрын
とても勉強になりました 古代史好きです
@33mz13
@33mz13 Жыл бұрын
刺青については、いわゆる土左衛門になるとパンパンになってしまい誰か分からなくなるから、海人族を中心に刺青を入れて身元確認をできるようにしたんじゃないかなと思いました。
@yo2trader539
@yo2trader539 Жыл бұрын
江戸時代まで漁師にはその目的で彫り物の風習があったと聞いた覚えがあります。
@sayaandmasa
@sayaandmasa Жыл бұрын
明治時代になってもアイヌの女性は口の周囲に入れ墨を彫り、奄美人女性は手の甲に入れ墨を彫ってました。
@ch.8194
@ch.8194 Жыл бұрын
厄除けとか、不治の病に対する祈りもあったとか。天然痘の人たちがしてたそうです、釈迦とか弁天とか彫って楽になりたいと。治してほしいと。祈りが篭ってたそうです。1集落に1彫師が居たほどだとか
@bagomoyo
@bagomoyo Жыл бұрын
@@sayaandmasa 昭和30年代でもまだそういう女性を北海道で見かけることがあったと父から聞きました もちろん年配の方ですが
@santa0078
@santa0078 Жыл бұрын
子供の頃 大人になると刺青が必須だと思っていた 港町で大人はほぼ全員が入れていた 子供たちは銭湯で誰の刺青がかっこいいか品評会をやって楽しんでいたものです
@manmarginal4575
@manmarginal4575 Жыл бұрын
カラムシは今や雑草扱いですが、 本当に生命力が強いです。 畑と畑の境にカラムシが生えているのですが、多年草なので、根が生きている限り、 刈っても刈っても、除草剤を巻いても、1ヶ月もすれば、1メートル近くまで伸びちゃいます。 忙しくてうっかり草刈りしないでいると、人の背丈は余裕で越えるくらい伸びます。 あまりにもしつこい雑草なので、詳しく調べてみたら、 今の新潟県が新田開発で米どころに なる以前(戦国時代ごろまで)は、 荒地や湿地が広がる荒涼とした土地が広がる地域だったそうで、 そこで上杉家が荒地でもよく育つカラムシの栽培を 奨励し、当時日本一の繊維産業地帯となり、良質なカラムシの繊維は京都に運ばれて莫大な利益を上杉家にもたらしたそうです。 そんな歴史を持つカラムシ、この動画で、日本では2000年以上前から栽培されていたということがわかりました。 つい400年前まで、重要な産業だったカラムシにもう少しスポットが 当たってもいいと思いました。 (草刈りには辟易してますが…)
@myamamoto8022
@myamamoto8022 Жыл бұрын
そうだったんですね。カラムシの事、全然知りませんでした。 もしかして紙や布を作るために植林して後に伐採するより、カラムシや麻などから作ったりする方が余程コスパが良いかもしれないですね。
@user-wg9qh7vd8m
@user-wg9qh7vd8m Жыл бұрын
面白いですね。魏志倭人伝にこんな興味深い内容があったとは知りませんでした。 中国から日本に丹を探しに来た徐福の事を本宮ひろしさんが漫画「こううんりゅうすい(行雲流水)」で描いていましたね。 もっと色々知りたくなりましたww
@kou-gb8xo
@kou-gb8xo Жыл бұрын
魏志倭人伝は、歴史書でなく単なる小説ですね(田中英道東北大名誉教授説)
@babotaro12
@babotaro12 Жыл бұрын
長寿に関しては一年に二回区切りをつける「二倍年歴説」がある。記紀でも最初のほうの登場人物はやたらと長寿で、後から常識的な数字へと変わっていく。ちなみに、旧約聖書でも何百歳って記述があったりするが、月の満ち欠けで区切りをつける月齢説が有力。
@user-yn5mg3od8l
@user-yn5mg3od8l Жыл бұрын
その通り。
@user-nz2lq3mq4x
@user-nz2lq3mq4x Жыл бұрын
其俗正歳四時を知らず、但春耕し秋収むるを記して年紀と為す 倭の野蛮人は正歳四時(一年は365.24219日なので暦を作って調整する)と言う文明の利器を知らないから但耕して収穫するサイクルで一年としている。としか読めない。古事記の理に適わない表現をなんとかこじつけで説明しようとするアホみたいな説だ。
@peaceharmony4254
@peaceharmony4254 Жыл бұрын
なるほど、なるほど。勉強になります。
@meganeyumeno7278
@meganeyumeno7278 Жыл бұрын
世界一メモ魔な中国が近場にあったおかげで当時の日本の文化を窺い知れるのは歴史のロマンですね
@ch7072
@ch7072 Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 まさにその通りです。「世界一メモ魔」とはうまい事言いますね〜。
@user-fd8ug9wo4f
@user-fd8ug9wo4f Жыл бұрын
メモ魔で他国のことを知り尽くしていたから領土を広げられたり、 朝貢国が喜ぶような返礼品に出来たんだろうね。
@user-ot3rz7hs9f
@user-ot3rz7hs9f Жыл бұрын
まず日本に来てない可能性があるのだが
@b17blue47
@b17blue47 Жыл бұрын
そもそも古代中国とがなく幻の国が前提なのがアホな中国思想がナンセンス。
@user-ub7tt4gl8y
@user-ub7tt4gl8y Жыл бұрын
紙を生んだ国は伊達ではないし、当時の新時代補正込みでも前の王朝のことを書くのが常識という中国における不文律もありますしね(新しい王朝の正当化も兼ねて) だからどんな異民族が中国を制しても必ず前の王朝のことがわかる
@100EIZO
@100EIZO Жыл бұрын
言われてみると、文字そのものでないにしても、視覚的表現で意味を表現することはありそうね
@user-ly8eu8wv9k
@user-ly8eu8wv9k Жыл бұрын
鉄の矢尻もそうだが、一番驚く所は弓がすでに和弓の形になってるところだな…和弓の形は西暦200年には既に形に成っていることになる
@user-yx3fj2cq4c
@user-yx3fj2cq4c Жыл бұрын
縄文時代からあの非対称形だった。 舟からの魚捕りに有利らしい。
@takashike
@takashike Жыл бұрын
弓は軽く1万年前からあるからね。随分前から原型ができているから凄いと思う。
@user-ly8eu8wv9k
@user-ly8eu8wv9k Жыл бұрын
@@user-yx3fj2cq4c 馬上で有利とか様々な理由がありますが何故日本だけ長弓にそれも特殊な持ち方に進化したのかが問題な訳です。
@onheaddrill5900
@onheaddrill5900 Жыл бұрын
当時の日本に馬は居ない、という話だから、馬上で有利だから和弓はこの形になった、という説は無しになるわけか。和弓の形の方が先にあって、それがたまたま馬上で有利だったと。
@takashike
@takashike Жыл бұрын
こんな感じ?和弓の完成度が凄い。今も形は大きく変わっていない。 1万年前 人類(日本でも)が弓を使う 紀元前約500年 和弓の原形が土器に描かれる 西暦約200年 魏志倭人伝にも和弓の形が記述される(珍しいから記したのかな?) 西暦約500年 馬が日本に輸入されて広まる 馬上で長弓を使うのは世界でも珍しいので面白い特徴だと思います。鉄は輸入する時代が続いて、日本で製鉄ができるようになったのはもう少し後みたいですね。昔の人の知恵や創意工夫にはロマンがある。
@user-dh7uv7nb4w
@user-dh7uv7nb4w Жыл бұрын
魏書での倭の項は他国の解説と比べて3倍以上の文書量だそうです これには理由として有力な説があり 魏書は司馬一族が支配した時代に書かれており 倭が魏に直接朝貢できるようになった功績が司馬懿の公孫淵討伐が 直接的な要因であるため司馬懿の功績を遠回しに称える意味があったと言われています 当時の中華思想では、より遠国から朝貢される事が中華帝国の名誉とされており 海を越えた遠国である倭から朝貢されたのは司馬懿の功績であると 筆者が司馬一族に忖度した部分があったとされております もちろん内容に関しては魏の使者の見聞きした内容ですので 当時の倭の文化を知る貴重な資料ですね
@ch7072
@ch7072 Жыл бұрын
なるほど。結果的には現代の私たちにとってラッキーでしたね!
@udamedame
@udamedame Жыл бұрын
江戸時代の「髷」は、それぞれの職業を意味して結られていて名刺の代わりをし、髷を見ただけでその人の職業が分かったそうです。ここでも文字は不要でした。入れ墨も同じ様だったかもしれません。皇室では今でも、大嘗祭の斎田の選定に、亀の甲羅を焼いて占って決めています。倭人の部分は、結構、残っているのかもしれませんね。
@ch7072
@ch7072 Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 髷の結い方にもそういった意味合いがあったとは知りませんでした。倭人の文化って特に皇室行事には色濃く残っているようですね。
@osamuarima1118
@osamuarima1118 Жыл бұрын
相手に敬意を表す作法というのがまさに神社の作法として残っているのが面白いね。それと、弓の形状。上下非対称という弓の起源はどこにあるのだろう。
@user-xw5jt5dg9p
@user-xw5jt5dg9p 2 жыл бұрын
この時点で和弓の特異な形が出来てる
@ch7072
@ch7072 2 жыл бұрын
コメントありがとうございます。 下が短く上が長いのは和弓特有のものなのですね。1800年間変わっていないとは感慨深いです。
@user-yj9iv1jx3p
@user-yj9iv1jx3p Жыл бұрын
とても面白い!古代の三国志時代の魏の国の役人さんのしっかりとした仕事ぶりがうかがえます。願わくば、卑弥呼や邪馬台国についてももっと詳しく書き留めてくれたら…。所在地論争で1700年後の日本でこんなに揉めてるなんて予想もしなかったでしょうが(笑)。
@nihontaro9
@nihontaro9 Жыл бұрын
三国志書いた人は自分で見た訳じゃないし、役人から聞いた話だから連想ゲームみたいに変わった話もあるかもね
@user-tu4bu3gw3r
@user-tu4bu3gw3r Жыл бұрын
@@nihontaro9 倭人への忖度はないでしょうね。ただ三国志を描いた陳寿は蜀の人だからともかく、邪馬台国を管轄したのは遼東の公孫氏を征服した司馬懿の息のかかった役人でしょうし、孫呉を東から圧迫するためにわざと台湾とごっちゃにしたかもしれない他、司馬懿の功績を過大に見せるため大げさに報告したかもしれないという点は心に置いておくべきでしょうね。
@SAKANAYA_OSAKANA
@SAKANAYA_OSAKANA Жыл бұрын
魏の役人ていうことは曹操の部下なのか
@user-yj9iv1jx3p
@user-yj9iv1jx3p Жыл бұрын
@@SAKANAYA_OSAKANA 蜀の劉備に親子二代に渡って使えた高位の書記官?というか文官?記録係?社史編纂室長?みたいな人が残した「三国志蜀記」みたいな資料を元に、陳寿?とかいう小説家?みたいな人が書いた歴史小説(内容がどうしても蜀びいき)が「三国志」。これが人気を得たので、後世の作家が様々な虚実入り乱れる逸話や民間伝承を取り入れながら加筆修正を繰り返すという、クトゥルフ神話や聖闘士星矢シリーズみたいな過程を得て現代に伝わるのが「三国志演義」。 同様に蜀バージョン以外にも魏バージョンもあるので、こちらは「三国志正史」とも呼ばれています。最終的に勝利したのは、魏とその内部からのクーデターで発生した晋なので、勝者の歴史が継承されるのは常。 曹操の部下の文官の役人による調査報告だった可能性もあるでしょうけど、朝鮮半島の付け根部分を占領した程度なら、その先にある日本列島に対してはそれほど関心がなかったのではないでしょうか。当時の未熟な航海技術で死の危険を冒してまで、辺境で未開の地に軍事侵攻して征服するメリットとは?……そんなことよりも、中国全土の統一が曹操には大事だったのでしょう。周辺地域の未開の弱小国のひとつとして、とりあえず金印でも与えて従わせようか?という程度だったと思います。
@takashike
@takashike Жыл бұрын
大国の魏にとって、文明が劣った島国のことを書いてくれるだけでもサンキューやで。記述の正確性はともかく、あるだけで凄い!
@motoikumasa
@motoikumasa Жыл бұрын
鉄に関しては実はそれ以上昔から作られていたという説も結構有力になっています。
@user-yn5mg3od8l
@user-yn5mg3od8l Жыл бұрын
褐鉄鉱起原の話だね。
@kinnryu
@kinnryu Жыл бұрын
日本での文字使用に関しては紀元前に遡る可能性がジリジリ高まってる模様。田和山遺跡、下原遺跡、薬師の上遺跡、三雲・井原遺跡などからすずりや研ぎ石も発見されて文字入りの物だったりする。識字階級の存在や、交易用に使用されていた説が出てる。
@wrightbrian3398
@wrightbrian3398 Жыл бұрын
漁師が刺青を入れるのは、漁の途中で溺死した場合に身元が判るようにした、と言うのが理由ではないでしょうか?溺死すると、身体の特徴が判りにくくなると思います。
@user-tj4iu4xl1d
@user-tj4iu4xl1d Жыл бұрын
おお!😮 江戸の火消しと同じかな。 作業中に焼け死んでも刺青で遺体の身元が分かる😮
@alicebradley3063
@alicebradley3063 Жыл бұрын
今でもその風習が残っているので、主要因の一つではありそうですね
@user-dv3fo5dm6c
@user-dv3fo5dm6c Жыл бұрын
海洋民族にはよくある風習。 呪い的な意味合いだけでなく物理敵に身体に迷彩を施し鮫よけにしてたという説もある。
@user-wg9cl5ur7l
@user-wg9cl5ur7l Жыл бұрын
​@@user-dv3fo5dm6c えXr
@user-nc4je3th5w
@user-nc4je3th5w Жыл бұрын
ポリネシアンとかも入れ墨文化あるし、沿岸地域にはその手の文化持った文化圏は多そうよな
@tamiya2345
@tamiya2345 Жыл бұрын
魏志倭人伝には「貴人に会ったら下の者は両手を合わせて叩いて挨拶をする」とも書かれている。 これは現在の神社に来たら神様に「柏手」を打つのはそれの名残なんだな。
@athleticssoul4671
@athleticssoul4671 Жыл бұрын
めちゃくちゃ面白い。教科書に書いてある内容や絵っていうのはこの頃の時代の発展性をあまりよく表せていないんじゃないかなと思う。もっと色んな建物とか飾りとか伝統とか人がいて教科書が描くような稲と茶服を着た人間の村しかない訳がないと思う。
@user-eg6xh7qb6s
@user-eg6xh7qb6s Жыл бұрын
これより遥か昔の縄文時代とかの時点で、 一般的に思われてるよりもかなり(文化面でも、精神面でも、技術面でも)発展してましたしね
@user-cn9cb5tx3x
@user-cn9cb5tx3x Жыл бұрын
この時代にだって人々の営みは当然あるのだけれど、教科書に記載しない理由は、考古学的に不明瞭な点が多すぎて混乱や誤解を招かないため。
@user-dw9ry5yc7q
@user-dw9ry5yc7q Жыл бұрын
紀元前から大陸と交流してるのに5世紀辺りまでの自国の文献が一つも残ってないのは流石に不自然だよねえ…
@snowkuouks
@snowkuouks Жыл бұрын
文字(漢文)を読み書きできる人は少しはいたんだろうけど、自分たちの文化を書き残そうという人が少なかっただけかも。
@makotoyoshii2831
@makotoyoshii2831 Жыл бұрын
で、大陸の使者が出向かなかった本州、東北方面側では異なる文化が営まれていた。 って事かも。 日本は単一民族じゃないもんね。
@priceostia6292
@priceostia6292 Жыл бұрын
こういう生活に戻らなくても、こういう生活が基本にあったと考え自分達も土地と調和して生きたいですね
@Daisuke.Virtubenel
@Daisuke.Virtubenel Жыл бұрын
この頃の日本の文明・文化が思ったより進んでて驚いた。まぁ特に学校で習ってもいないし、各種メディアで取り上げられることもないし、研究的にも不明なことが多いんだろうから、この時代およびより前の時代の日本はとても気になってる。 動画に出てきた紀元前1000-600年代(写真から縄文時代晩期ってあるね)の土器見て、よく知られてる縄文土器のデザインと違ってて驚いた。縄文時代って一言で言っても長いんだろうな。一般に周知されてない縄文時代晩期~古墳時代~弥生時代の日本をもっと知りたい。
@user-vq5yx3tq2l
@user-vq5yx3tq2l Жыл бұрын
ほぼ考古学ですからね 大戦犯のアイツやアレが頑なに秘匿しなければもっと研究が進むのに
@aoth1034
@aoth1034 Жыл бұрын
漁業従事者が入れ墨をするのは水死体が上がった時に誰か判別するためですね 高齢の男性で小さな入れ墨をされている人がいて、話をうかがったらそのように説明されました 現代でも続く実用的な習慣でファッションとかまじないとか関係ないみたいです
@user-gx7cr2rh4b
@user-gx7cr2rh4b Жыл бұрын
「忖度するはずもない」けれども盛ったり下にみたりはすると思うけれどもねえ…
@nurechin
@nurechin Жыл бұрын
↓訳し方で疑問に思ったこと 6:45 別の部屋ではなく別の家とも解釈できます。 8:55 中国では棺桶を納める石の部屋を作って埋葬していました。その石の部屋がないという意味です。ただ、弥生時代以降では日本でもそのように埋葬した跡が残っています。真似したのでしょう。 13:16 手を打つことで、ひざまずいて敬意を表す代わりにする。(日本では手を打つことが中国ではひざまずくのと同じ敬意の表し方だ) 15:35 身分の低いものが貴人へ話すと貴人は了解したという意味で「あい」と答える。(時代劇などで「あい解った」と偉い人が返事をすることのルーツでは?) 私見 中国では南の呉、越地方で入れ墨の習慣の習慣があり、そこから渡海してきた人達の子孫ではないかと想像します。(天皇の一族は入れ墨の風習がないので別の部族と思われる) 倭人伝では中国からの文書の話が出てくるので文字は伝わっていたと思います。(理解できたかどうかは知らないけど) また中国との交易は盛んに行われていたのに当時の文字の書かれたものが一つも発見されていないのは謎すぎます。隠してるんじゃねと疑いたくなります。
@lazymika8693
@lazymika8693 12 күн бұрын
おおー!なんだか謎が解けましたぞ! 私は東北の山の民でしたが、現在瀬戸内海に面した街で暮らしておりまして、比較的元気な高齢者の方のお世話をさせて頂いております。 皆さん腕などに小さな刺青があるのです。若い方でももう90を過ぎてらして、104歳の方もいらっしゃるのですけど、この洒落た入れ墨がなんなのか、お尋ねするわけにもいかず不思議に思ってました。
@ch7072
@ch7072 11 күн бұрын
謎が解けて良かったです。それにしても、皆さんご長寿で素晴らしい!
@lazymika8693
@lazymika8693 11 күн бұрын
@@ch7072 そうなのです、皆さんお元気だなぁと思います。 入れ墨はひょうたんのような柄だったり、イカリ?のような模様だったりします。104歳のおじいちゃんが「わしだけ車がないんじゃ。ワシだけ、歩かないかん、全く」とボヤくのがとってもかわいらしいです。車とは車いすのことです笑。風呂場まで歩かせられるのが納得いかんということのようでした笑。
@991040
@991040 Жыл бұрын
以前から卑弥呼の時代若しくはそれ以前の時代にとても興味があったから、凄く興味深く観させて貰いました。 またチャンネル登録しました☆
@user-hv3be1wt2y
@user-hv3be1wt2y Жыл бұрын
16:33 私も同意です。 応仁の乱で焼けちゃった とか…
@ch7072
@ch7072 Жыл бұрын
今話題の石棺墓から、古代の文字に関する物的証拠品が出てくるといいですよね。
@fjjpn0211
@fjjpn0211 Жыл бұрын
日本にも船通山など鉄鉱石や砂鉄が取れるのでそれを使って製鉄をし、魏に輸出していたという説があります。
@taka4cr537
@taka4cr537 Жыл бұрын
イギリスの漁師もセーターの模様で身元判別をしたそうですね^_^
@eresseeresse478
@eresseeresse478 Жыл бұрын
ネイティブアメリカンでも部族によって服装とか模様の違いで部族を表現していたようだし、ヨーロッパにも村ごとに服装の模様が違う国もあるようなので模様と文字の関係性は薄いのではないか。
@user-ru8cq4mi1m
@user-ru8cq4mi1m Жыл бұрын
弓矢の記述で、この時代既に上部が長く、下部が短い弓が使われていたと記録されていたとは驚きです。 なぜなら和弓のその独特な形状は馬に乗って矢を射る際に弓の下部が邪魔にならないようにするために発展したと言われているからです。 まだ馬が日本に伝わっていない時代に弓が上下非対称の形状になっていたのなら、馬上から弓矢を射る為以外に理由があったことに。 なんだろう?弓道をやっている方等、何か知っている事があれば教えていただきたいです。
@user-tq4qo4kl4p
@user-tq4qo4kl4p Жыл бұрын
アレ、弓本体の中央を掴むよりも三分の一の場所を掴んだ方が振動が少なくて済むそうですよ。
@user-mg9qp1hp5g
@user-mg9qp1hp5g Жыл бұрын
馬で対象に近付き、射り、すぐさま離れるという騎射の特性上、その際に長弓使う恩恵は皆無なので、私はむしろ納得しましたねー
@KAZWACKY
@KAZWACKY Жыл бұрын
飛距離を求めすぎて、もう下方向に延ばせなくなったから上に伸ばしたら、案外うまくハマった説
@kei1kato549
@kei1kato549 Жыл бұрын
威力から適度な弓の大きさが決まるが、中央はストロークが大きくて腕の範囲を超えるんじゃないかな。それでやや下を使って重いけどストローク適度に減らして使用したのかな。
@panda688
@panda688 Жыл бұрын
同じような形の弓で魚を狙う漁師らしき図案が銅鐸の文様にあるので元は漁猟用なのではないかという説もあります。
@si-vl9ju
@si-vl9ju Жыл бұрын
丹の産地を追うと結構面白ろそうですね。
@freeway104
@freeway104 Жыл бұрын
これまで、ネットでも何度か言われているが、 「魏」という字と「倭」という字は、ペアになっている。 「委ねる」という文字の左に「人」を付けて「倭」とし、「人(当時は生きてる人間を表す)に政治を委ねた国」を示し、また「委ねる」という文字の右に「鬼」を付けて「魏」とし、「鬼(当時は霊魂、祖先神を表す)に政治を委ねた国」を示している。 ちなみに、「倭」という文字には、「小さい」という意味はない。小さいを表す漢字は「矮」になる(矮小)。「倭」は、当時、日本だけを表すために作られた文字と言われている。 「倭」という1文字名の国名といい(中国は、海外の野蛮国は2文字名で表す) 魏は、日本という国を相当な高いレベルの国であると認めていたのは確かなのである。 また、「日本は、しょせん中国の朝貢国であった」という主張の裏付けとして、 有名な金印(「漢委奴国王」)が、中国から当時の日本に下賜されたものであるとして、その証拠としているが、この金印は、すでに「当時の漢の国璽の土産物用のレプリカ」として、何の証拠でもないと、説明されている。 つまり、印面の読み方は「漢は汝(奴)に国王を委ねる」ということだ(「奴」は国名でなく、漢の国王自身を指す)。
@user-ix3xm9bf2m
@user-ix3xm9bf2m Жыл бұрын
明治のころまで、沖縄にも入れ墨文化が残ってたらしいですね。「ハジチ」と言います。 日本政府が禁止したせいで廃れてしまったそうですが。
@user-oc7lp4ko7p
@user-oc7lp4ko7p Жыл бұрын
本当に見たままを書いたかもだし、コロンブスみたいに「あたかも」見てきたかのように書いたのかも…というところだろうね。
@ch7072
@ch7072 Жыл бұрын
謎ですね。
@user-sd5py5go2z
@user-sd5py5go2z Жыл бұрын
そうです、民族性は何百年、例え2000年でもそう変わらないんですよ。
@user-em6pr2fb3p
@user-em6pr2fb3p Жыл бұрын
学校の歴史も丸暗記ではなくどうして刺青をしたのか、土器の模様が現代の我々がみても感銘をうけるのか考えたらもっと歴史好きが増えそうです
@user-ud3id7cm7i
@user-ud3id7cm7i Жыл бұрын
時間が無いんよなあ
@user-lk1me2vd4t
@user-lk1me2vd4t Жыл бұрын
と、思うでしょ? 歴史嫌いにはただただ苦痛な時間が増えるだけで、元々好きな奴が萌えるだけなんよ
@pokopo70
@pokopo70 Жыл бұрын
@@user-lk1me2vd4t 😊
@kenshiminami8634
@kenshiminami8634 Жыл бұрын
歴史に興味を持たせない、歴史に価値を見出ださない、そんな教育が続いているのは敗戦後からの日本の特色ですね。 戦前・戦中の、あまりにも過剰な国粋主義的な教育への【反省】から、敗戦後の日本では戦前・戦中の日本を全否定するような教育こそ理想的だとされてきた… 要するに、未だに日本は敗戦から立ち直っていない、未だに敗戦の影響下に置かれた状態だという話ですね…残念ながら。
@deadfuldisco6347
@deadfuldisco6347 Жыл бұрын
ベンガラを塗っていたのであれば、例えばヒンバ族なんかと同じ防寒防虫や乾燥対策など実利目的だったんじゃないかと思います。
@chiha2525.
@chiha2525. Жыл бұрын
入れ墨の話は、ほとんどは中国の會稽の話であって、倭もそれと同じ(だろう)って書いてるだけだけどね。『持衰』の読みは不明、ジサイと読むのは仏教用語からなのでおそらく間違い。アイとしている『噫』の読みも不明、当時の魏の漢字の読みも分からないものも少なくないんですよね。あと市の『大倭』は大率(一大率の大率)の書き間違いだろうと私は思っています。 魏志倭人伝も有名だけどちゃんと読んだ人が少ないものなので、しっかりと紹介してくれていて良かったです♪
@suenpeier1097
@suenpeier1097 Жыл бұрын
既に和弓の原型は完成してたんだ 興味深い
@miketakun
@miketakun Жыл бұрын
銅鐸の絵もそうですね。 検索すると出てくると思います。
@user-tt3qc6mq9b
@user-tt3qc6mq9b Жыл бұрын
文字は本当に文明を進化させるんだな記録がつけられなかった時代の方が幸せかも知れないですが、やっぱ文字は漢字が世界一だわープラスひらがながある日本で完璧だね🎵
@777dokaben5
@777dokaben5 Жыл бұрын
裸足で暮らしているということは、 魏の使者が訪れたのは九州なのかもね。
@onnetotaki
@onnetotaki Жыл бұрын
3世紀頃の日本の領土は朝鮮半島の南端部まであり、伽耶、加那、任那、あるいは狗邪韓国などと呼ばれていたらしい。 対馬との間の玄界灘は内海同然で、北九州との往来は普通に行われていた。 海なし県の奈良の山猿が大陸へ渡るのは命がけだが、北九州の海人にとって対馬海峡を越えて倭寇になるなどは朝飯前だったろう。
@tadmochi8823
@tadmochi8823 Жыл бұрын
「倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年」のような、争いに関する箇所をカットするのはどうですかね。普通の人が妻を2,3人持っていたりするという記述も、一般的に戦後の男子が大きく減った社会で見られる光景なわけで、魏志倭人伝から倭国が平和だったという印象は普通はあまり受けないだろうと思います。
@karamatu5
@karamatu5 Жыл бұрын
面白い話です
@sunsun2181
@sunsun2181 Жыл бұрын
その通りだと思います。倭国大乱があって、それじゃだめなので、邪馬台国で卑弥呼が女王になった。たとえば、九州や四国では戦争で殺された古代人の骨がたくさん出ます。
@matatabi517
@matatabi517 Жыл бұрын
なんでカットするんだ?ありのままを知るほうがいいだろうが。
@NicholasGenius
@NicholasGenius Жыл бұрын
魏は魏で大分中国国内で争ってたからなぁ
@user-zr8bk5me9o
@user-zr8bk5me9o 16 күн бұрын
弓は 下が 短くて 上が 長い という のは、今の和弓の特徴と 同じ ですね。
@Phaonia
@Phaonia Жыл бұрын
いれずみは比較的最近まで呪術的な性格が残ってましたね。戦前ぐらいまでいわゆる任侠系の人たちだけじゃなくて職人でいれずみをしている人はいましたし、しかもいれずみをする職人っていうのはとび職とかそういう危険と隣り合わせの仕事というのが相場でした。任侠系のいれずみも、武闘に際しての危険を遠ざける意味が今でもあるんじゃないかと思います。 文字は、最近、従来弥生時代の遺跡から発見された「砥石」とされていた遺物を検証してみたら、実はすずりとして使っていたらしいというのが続々と見つかってきていますので、それより後の卑弥呼の時代には普通に文字は使われていたでしょう。
@user-ot3rz7hs9f
@user-ot3rz7hs9f Жыл бұрын
墨で何かを描くのと 文字の使用は すぐ結びつかない
@75kisara67
@75kisara67 Жыл бұрын
絵を描いた可能性もあるし穀物の管理とかで文字無しで数字的なものだけあった可能性もあるので文字があったは早計。
@Phaonia
@Phaonia Жыл бұрын
すずりがあったということは同時に墨、筆も会った蓋然性が高く、これらをつくりまた使うセットそのものがかなり高度な文化体系なので、こういうものが入ってきていて文字だけが伝わらないというのはちょっと考えにくいですね。最近の古人骨のDNA解析で、弥生人や古墳時代人のゲノムに占める大陸系(非縄文系)のDNAは弥生時代前期には遼寧平野系(満洲系)が圧倒的なのに、古墳時代後期には中国系が大規模に加わってきているということが判明してきています。中国系がどのタイミングで入ってきたのかはまだ研究の解像度が非常に低いので、まだ判然としないのですが、弥生時代後期の鳥取県の青谷上寺地遺跡の環濠集落の環濠から出土した大量虐殺の遺骨のDNA分析では縄文系のDNAを全く有しない渡来第一世代の人骨が多数検出されていて、しかも出自が東アジア大陸の様々な地域にばらけていたという報道が出てきています。弥生時代後期には非遼寧平野系の東アジアからの移住者がかなりいたとみて間違いないのではないでしょうか。
@user-mu3um2qi3l
@user-mu3um2qi3l Жыл бұрын
古代、アフリカや中央アジアなど文字を持たない民族は多数有りましたが、口伝という形でずっと遺っている事も有ります。 古事記は口伝をまとめた物ですし。 思うに、 必要は発明の母というように、必要がなかったから文字が無かったという考えも出来ます。 例えば、 近い民族同士であれば言葉が通じます。言葉が通じない相手と話しをしたい(しなければならない)必要性が出来た場合、共通文字が存在すれば交流が成り立ち易いはずです。 海に囲まれ異民族を接する機会が大陸民族より遥かに少なかった日本では文字が必要無かったと、 自分は考えています。
@user-tu4bu3gw3r
@user-tu4bu3gw3r Жыл бұрын
海に囲まれ異民族を接する機会が大陸民族より遥かに少なかった日本という観念はおそらく間違っています。確かに7、8世紀の遣唐使の航路は東シナ海を横断する過酷な航路でしたが、663年の白村江の戦い以前は朝鮮半島南岸の伽耶諸国や西岸の百済を寄港地にして簡単に大陸と往来していたことでしょう。むしろ海に囲まれ土地が狭く、結果交易や略奪のため語学力が必要になるのが海洋民族というものです。 日本で独自の文字が発見されていないのは、すでにある程度漢字を書ける中華系朝鮮系の渡来人やその子孫、弟子などが必要じゅうぶんに居住していたからではないでしょうか。
@user-yn5mg3od8l
@user-yn5mg3od8l Жыл бұрын
多分、これを使っていたんじゃないかと。つ ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%B8%84
@user-mu3um2qi3l
@user-mu3um2qi3l Жыл бұрын
@@user-tu4bu3gw3r 文字を書ける中華系民族が渡来してきていたなら、文字が書かれた遺物が一つも出てこないのは不自然です。 難破等で漂着した人はいたはずですが極ごく少数で、大挙渡来してきた可能性は低いと思います。 黒潮、対馬海流は世界でもトップクラスの速い海流です。日本が二千年間外敵からほとんど侵攻されなかったのはこの速い海流が主な原因だと思います。この海流を越えて(逆らって)交流するのは古代の技術では至難の技だった筈です。 逆に海流に乗る航路は行きやすい。だから韓半島に倭の領域が有ったのだと思います。もし交易が有ったとして、文字が使われていたとするなら狗邪韓国でしょう。 因みに、略奪に文字は必要ないです。略奪は一方的な行為で話し合う必要は無いからです。 同じ海洋民族でもフェニキア等の交易国家とは異なる文化だったと考える方が自然です。 げんに、倭人伝には海士(海女)を生業にしていると有ります。道も少なく獣道の様と有る。大きな道が無ければ流通は発達しません。文字を必要とするレベルの交易は無かったと考える方が自然だと、私は思います。
@nt16beathihatist
@nt16beathihatist Жыл бұрын
この頃の文字が、今では失われた神代文字だとするならば更にロマンが広がりますね。 現代の平仮名片仮名は漢字がベースとなっているので、純粋な日本の文字では無いのかもしれません。
@moipa808
@moipa808 Жыл бұрын
登録した!
@ave5163
@ave5163 Жыл бұрын
こうゆう話を聞くと思考が柔軟になります🎶
@KK-uk4fb
@KK-uk4fb Жыл бұрын
模様が意味を持って文字に変わる前に漢字が本格的に入ってきたのかなとか思った
@nihontaro9
@nihontaro9 Жыл бұрын
辰砂は水銀だとすると猛毒だから顔に塗ったりしない。喪ガリは出雲の風葬の名残ですね
@user-yn5mg3od8l
@user-yn5mg3od8l Жыл бұрын
辰砂の状態では安定していて毒性はない。
@izumo4283
@izumo4283 Жыл бұрын
和弓のサイズに言及してないってことはまだ大型化はしてなかったんじゃないかな。
@user-gq9oy8gv7t
@user-gq9oy8gv7t Жыл бұрын
古代の人が入れ墨を入れる風習があったとは知らなかった。歴史とか苦手だけど、古事記や魏志倭人伝の漫画読んでみようかな
@ch7072
@ch7072 Жыл бұрын
古代史って意外と面白いのでおススメです。
@nihontaro9
@nihontaro9 Жыл бұрын
疑う訳ではないけど、原文を使って解説してもらえるとより迫ってくる気がします。
@newecsystem5016
@newecsystem5016 Жыл бұрын
古文書あるある(*´・ω・`)bが… ①尺の問題❔ ②論文で無いのでまんま引用するのが出来るのか❓️ この2点が考えられます🎵😅。 教科書に掲載時は定説から随分経過した内容がほとんどな気が致します昭和生まれ昭和育ちの🇯🇵人。
@clabmantol1256
@clabmantol1256 Жыл бұрын
中国の記録残す癖は本当にすごい なんか刺青文化ってインドネシアとかそんな感じの海洋民族っぽい感じありますね
@miketakun
@miketakun Жыл бұрын
縄文人も入れ墨をしてましたね。
@user-qg5xy8yx9x
@user-qg5xy8yx9x Жыл бұрын
文字はあったんでしょうねぇ なかったら「法」はどうやって管理してたのかという問題がありますし 法律も刑罰も全部口伝ってことはいくら何でもないでしょうし 漢字、平仮名、片仮名の印象が強すぎて我々がそれを"文字"と認識できてないのかも ヒエログリフだって知らなきゃ壁画の一部にしか見えないし
@user-fh4wh7gx7s
@user-fh4wh7gx7s Жыл бұрын
文字の無かったインカ帝国にもルールはあるぞ
@user-vq5yx3tq2l
@user-vq5yx3tq2l Жыл бұрын
文字があったとして、土偶や埴輪があるのに粘土板に記録しなかったなんてありえるの?
@user-vo2vm4gf8q
@user-vo2vm4gf8q Жыл бұрын
持衰は卑弥呼の伝記漫画に出てきたな
@Syayuhki
@Syayuhki Жыл бұрын
この頃から既に養蚕してたんですね! 麻で布を織ったり。 そして弓が和弓の形(上が長くて下が短い)としての特徴を既に成していたのも興味深いですね。矢じりに使われていた鉄が日本では採れなかったとのことですが、飛鳥時代には百済に鉄器を輸出していたので、もう少し時代が進んだら鉄の採掘(砂鉄の採取?)が始まるんですかね?  アイヌの生活や風俗との共通点もいくつかあるようですが、日本の気候や風土がそうさせるのかな? 面白いですね(#^.^#)
@user-dd1bi6yn9v
@user-dd1bi6yn9v Жыл бұрын
この時代すでに百済と新羅は日本の属国になってたって話なんじゃなかったか?
@Syayuhki
@Syayuhki Жыл бұрын
@@user-dd1bi6yn9v 百済は日本の同盟国、一方新羅が日本の属国だったことはないはずですが?百済と日本の同盟軍は唐と新羅の連合軍に白村江で大敗します。
@user-dd1bi6yn9v
@user-dd1bi6yn9v Жыл бұрын
@@Syayuhki よく日本の皇室の古墳は隠したいことがあって発掘させないとかよくわからん陰謀論を展開してる人いるけど、あれも終戦後に進駐軍がかなり調べたらしいんですよね。 そしてその結果なのかどうなのかアメリカの教科書には3世紀前後は朝鮮半島南部を日本が統治してたと書かれてる。 新羅は日本(倭国)に鉄鉱石を供出させられてたし百済は朝鮮半島で唯一稲作が出来る地域。 白村江の戦いのころの唐の国と魏の国の時代はそもそも中国も素地がかなり違う。 日本は昔から稲作の出来る国にしか関心持たないから何をか言わんやですね。
@user-ce4ni7if3l
@user-ce4ni7if3l Жыл бұрын
@@Syayuhki 高句麗の好太王碑の内容を信じるならば、新羅と百済は倭に服属していた時代があったようです。
@servantofJ
@servantofJ Жыл бұрын
@@Syayuhki 白村江の戦いのあとに、新羅が唐を警戒して日本に朝貢してたって話からじゃないですかね。まあそれもごく短期間なので、属国とするかは疑問ですが
@user-ws7qu4bg9k
@user-ws7qu4bg9k Жыл бұрын
鎌倉武士「せやな。あまり変わってへんな」
@ch7072
@ch7072 Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 鎌倉武士だと約1000年後ですが、あまり変わってないかもですね。
@866083
@866083 Жыл бұрын
話を盛る理由はあると思います「私はこんなに詳しく調べてきたんだぞー、有能な人間なんだぞー」というアピールです。 褒美をくれー&出世させろー、ということです。 バレたら大変でしょうが、確認も困難だったことでしょう。
@user-po6we2rc1w
@user-po6we2rc1w Жыл бұрын
忖度はないだろうが、話を盛る理由はいろいろあると思うがね
@user-lp9fb2uf8i
@user-lp9fb2uf8i Жыл бұрын
関係あるか分からんけど5~10世紀のチベット人は日差しに焼けるのを避けるために赤土を顔に塗っていたそうで。 丹を塗ったというのもその文化がたまたま日本にも発生したか、或いは色黒な日本人をそのように書いたか、とも邪推できる。
@user-kc7kd7ge9b
@user-kc7kd7ge9b Жыл бұрын
瓜田純士さんは、入れ墨フェイス文化を立派に継いでくれでいる稀有なお方なのかもしれませんね。
@user-wl8vh9rf7g
@user-wl8vh9rf7g Жыл бұрын
馬に関しては、固有種が発掘されていたと記憶して居ましたけど、どうなんでしょうね。
@sfurpuy1020
@sfurpuy1020 Жыл бұрын
今の日本人の国民性とさほど変わって無さそうでノスタルジックな気分になるなぁ‥
@ch7072
@ch7072 Жыл бұрын
同感です。
@peaceharmony4254
@peaceharmony4254 Жыл бұрын
それ、それ! それが知りたかった!  魏志倭人伝って卑弥呼の事しか言われないから他はどうなんだろう~と思ってた。 ありがとう! 入れ墨フェイスの絵でもあればなぁ。 何かでもちょっと想像できた。他の資料が中国からでも出てくれないか…。 あと早く古墳の全面調査をしてほしい!
@ch7072
@ch7072 Жыл бұрын
魏志倭人伝って邪馬台国と卑弥呼の事しか書いてないの?って思っちゃいますよね~。
@KAZWACKY
@KAZWACKY Жыл бұрын
傷を隠す(目立たなくする)ために入れ墨をすると聞いたことがある。 海人、軍人は傷が絶えないから、その頻度は多かったろう。 それがファッション化(大衆化?)してアートみたいになったと想像してみる。 その辺りの技術や技能を追いかけると面白いかも?
@ch7072
@ch7072 Жыл бұрын
なるほど、入れ墨で傷を隠した説は一理ありそうですね。
@oo-pm9er
@oo-pm9er Жыл бұрын
魏志倭人伝は漢の時代のまとめ書だから年代は確定できない 年代がわかりそうな記述ですらその時に使者によって伝えられたってだけで昔話かもしれないからね
@papiyaspapiyas6265
@papiyaspapiyas6265 Жыл бұрын
しかも年代下るごとにいい加減になっていって人名とか間違い多くなる。 まだイスパニアとかポルトガルのほうが日本をよく分析してる。しかも朝貢で訪れた国がどこにあるのかわからなかったり。単純に遠いところまで我が国の威明は伝わってますぐらいの感じだったから昔からシナはメンツの国だったのかと思ったことある
@user-ni1ng6lp1k
@user-ni1ng6lp1k Жыл бұрын
魏志倭人伝という書物はなく三国志正史だということをまず伝えないと誤解する人が増えるのでは?
@user-wn1id8ro7f
@user-wn1id8ro7f Жыл бұрын
魏志倭人伝という名前が一つのブランド化している為でしょうね。 (三國志の一部だと認識している人って、そんなに多くないと思われる。)
@user-ni1ng6lp1k
@user-ni1ng6lp1k Жыл бұрын
@@user-wn1id8ro7f せっかく配信するなら世間に三国志という認識を広めて頂ければありがたいですね〜、本場中国にはないわけですから、完訳がでてるわけですから、てきれば正しく世間に広まって欲しいです。
@user-fm6mw2wi5u
@user-fm6mw2wi5u Жыл бұрын
「大人、小人」をおとなも子供も、と読むか、身分の高い、低い、と読むかには争いがある
@user-jc3lr7ds9m
@user-jc3lr7ds9m Жыл бұрын
現代でも漁師が入れ墨入れるのは事故時の身元確認のためって説があるよね。 身元確認→身分を現わす為 と変化しても不思議ではないね。
@user-dr3ud6er2j
@user-dr3ud6er2j Жыл бұрын
霊夢嬢様🍒  分身黥面は疫病除けのための東シナ海沿岸地域の習慣で、刺青ではなくてベンガラ等を全身に塗ることとされております。
@user-sc1hx5ke9u
@user-sc1hx5ke9u Жыл бұрын
長浜浩明先生の話がようつべでも沢山見れるのでそれを見て欲しい。歴史教科書がどれだけ出鱈目かわかるから
@isamich1535
@isamich1535 Жыл бұрын
長浜浩明先生がどれだけ出鱈目かわかるでしょう
@user-sh8li8rg8m
@user-sh8li8rg8m Жыл бұрын
多角的に見る。それが史書の読み方だわ。
@user-sc1hx5ke9u
@user-sc1hx5ke9u Жыл бұрын
中国や韓国人からは良く思われてないよね
@user-zb8wn6mv8w
@user-zb8wn6mv8w Жыл бұрын
最後の無音は何?
@user-iz3sj2sf9t
@user-iz3sj2sf9t Жыл бұрын
太古の昔は一歳の数え方が今と違っていたって話もあるがこの時代はどうだったんでしょうね
@user-wn1id8ro7f
@user-wn1id8ro7f Жыл бұрын
昼と夜を別々に数えていたそうですね。
@75kisara67
@75kisara67 Жыл бұрын
埴輪や土偶の顔や体に模様があっても彫り物なのか化粧なのか人形独自の呪術的理由があるのかまでは分からんから別口の情報は有り難いが海の民限定かは結局は分からない。
@mimi-hm2ez
@mimi-hm2ez 8 ай бұрын
当時の気候で「冬でも野菜が食べられて、人々が裸足で暮らせる」地域って、どこからどこらへんまでなんでしょうね?
@ch7072
@ch7072 8 ай бұрын
そうですよね、それが解明すれば邪馬台国論争の重大な手がかりになりますね。
@user-kl7yg7mn7s
@user-kl7yg7mn7s Жыл бұрын
よく分からない箇所は日本と風俗の近そうな他国の歴史をコピペしたって説あるね。
@walkin8fk
@walkin8fk Жыл бұрын
魏志倭人伝の時代にここまで、人間が長生きしていたのは、驚き😲‼️。確か江戸時代は寒冷が長く続いていたから、米等の農作物があまり育たなく飢饉などで多くの死者があり、長生きできなかったらしいです。後は、農民に不作というのに、年貢を多く取りすぎ餓死者もいたから。幕府のせいでもありますね。😖後、この頃の古代の時代も法律があったから、現代でも世界に比べ治安がいいとの事は理解できます。ただ、納得できないのは、あまりに残虐な事件の場合でも、極刑にできない場合があるのが、納得できません。😥逆にこの場合は、外国の方がいいと思います。
@user-wn1id8ro7f
@user-wn1id8ro7f Жыл бұрын
当時は昼と夜を別々に数えていた為に、実質倍の年齢だったとされていると聞きますね。 (つまり100歳と記させていれば、実際は50歳である。そんな感じです。)
@user-sh8li8rg8m
@user-sh8li8rg8m Жыл бұрын
「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」だから、田植えから収穫までを一年と見る解釈なんだが。
@user-wj2tb2od5i
@user-wj2tb2od5i Жыл бұрын
基本的に農耕民族だから協力体制は必須だし、入れ墨、化粧等で何をやる人間か解るようにするのは理に適ってる 馬、牛が居ないとか履物が無いのは以外でしたね 年齢に関しては古代日本は田植えの春と収穫の秋の年2回年を取ったんじゃないか?(だから古代の天皇は百何歳という記述になる)という説も有る
@user-qq2ij4ue4c
@user-qq2ij4ue4c Жыл бұрын
年齢について「高齢者がたくさんいる」というのは、「古代は年二回年を取った」という説と関係してるんじゃないかなぁ。
@user-wn1id8ro7f
@user-wn1id8ro7f Жыл бұрын
昼と夜を別々に数えていたって話ですね。 魏の曹丕も長生きできると思っていたら、40で亡くなってるが、その際に昼と夜の合算だった事を悟って無念である的な事を言ってたと聞く。
@user-ug1gh7mr3j
@user-ug1gh7mr3j Жыл бұрын
寿命は、春秋歴なのでは? (春秋歴)80~100歳 → (現在)40~50歳
@user-rj6dz2ii6d
@user-rj6dz2ii6d Жыл бұрын
三国志の中で倭の記述は他の異民族に比べてかなり詳細に書かれています。それは三国志が書かれた時の王朝、晋朝を打ち立てた司馬氏の高祖、司馬懿が倭を朝貢国にさせた功労者であるためと言われています。そのため倭がより遠方、より大きな国と誇張(司馬氏への忖度)があったという説もあります。
@panda688
@panda688 Жыл бұрын
古い時代の日本の一年は今の半年だったという説があるから半分とすれば意外とまともな数字になる。 実はちゃんと100までカウントできたという事の方が案外文明の高さを示しているような気がする。
@ch7072
@ch7072 Жыл бұрын
これは鋭いご指摘!
@user-yq9cy6ln8s
@user-yq9cy6ln8s 3 ай бұрын
日本では魏志「倭人伝」ばかり取り出してあーだこーだと言ってますが、魏志「東夷伝」全体を読まないと駄目 もちろん魏志以外の中国史料も併せて
@y-g1322
@y-g1322 Жыл бұрын
金印や鏡や剣への刻文とか、文字の概念が無いと意味を為さない事を考慮すると、紀元前1世紀頃から漢字には馴染んでいた筈なのに、600~700年程も使用するのには躊躇していた古代人。 この辺りは一体何の拘りがあったんでしょうね?考えると楽しいです。
@user-vq5yx3tq2l
@user-vq5yx3tq2l Жыл бұрын
言霊文化でしょうね 呪われないように結婚相手にしか真名を明かさない風習もありますし、楽譜に当たるものさえ口伝でした
@takkad1590
@takkad1590 Жыл бұрын
国境もないので昔からグローバル化は当然だったということか。 全身入れ墨や貫頭衣は今の中国南部から東南アジアにかけての少数民族と同じように思える。 馬も牛も運ぶには大きな船がいるから5世紀まで待たなきゃならなかったわけだね。
@newsify7
@newsify7 11 ай бұрын
縄の結び目で文字情報を表現したのってインカ帝国も同じですね。 そして、インカ帝国のあった南米エクアドルでは縄文式土器が出土。漂着だか移住だかどれくらいの規模かはわかりませんが何らかの人の移動もしくは交流があった可能性も!?
@ch7072
@ch7072 11 ай бұрын
インカ帝国ですか。興味深いです。漂着を含めて何らかの交流はあったかもしれませんね。
@user-ws8qz4yf2s
@user-ws8qz4yf2s 8 ай бұрын
土器の漂着はあり得んと思うぞ。沈んだろ。
@newsify7
@newsify7 8 ай бұрын
@@user-ws8qz4yf2s いえ、土器が漂着ではなく、土器を作る技術をもった人が、望んで外洋に乗り出してか、刑や処罰などで一族流されてか、若しくは地震津波災害などで意図せず流されてか分かりませんが、南米エクアドル付近に流れ着いた可能性があるんだろうかと意味で話しました。
@goldkenbo
@goldkenbo Жыл бұрын
たたら製鉄はもつとずつと前から行われていたよ
@user-zm6iw4cl2z
@user-zm6iw4cl2z Жыл бұрын
魏志倭人伝にある倭の海人の風俗における一番ピッタリ合致しているのは、四国東南部や紀伊半島沿岸部ですよ。 真珠が採れたり朱丹を白粉のように使い、冬も温暖、海人の集落という条件ならね。 弥生時代末期に丹を採取、精製していた痕跡のある場所はこの辺りに限定されるはず。
@otaru6042
@otaru6042 Жыл бұрын
年齢については数え方が今と一緒だったんですかね?そこが気になります。
@koyoshi44
@koyoshi44 Жыл бұрын
おそらく現代の半年で一年と数えるものかと
@cayennepep1727
@cayennepep1727 Жыл бұрын
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