四国、交流電化の夢を見る
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妄想 寝台気動車
14:24
28 күн бұрын
ひばり黄金期
12:42
Ай бұрын
簡易電源車 マヤ20
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キハ07901 2次試験詳報
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客車新時代
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Ай бұрын
妄想 ディーゼル新幹線
11:55
最速ディーゼル
11:06
2 ай бұрын
「四国特急」
10:44
2 ай бұрын
交直両用特急電車
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3 ай бұрын
エッチトオ、補機化案
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欠番 52
11:54
4 ай бұрын
キハネに挑んだ車両
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4 ай бұрын
大馬力鈍行気動車の夢
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さくら、受難(修正版)
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板谷峠交流転換
9:46
5 ай бұрын
架線下気動車の経済性
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DMH17に"エンブレ"
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6 ай бұрын
急行用寝台電車
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6 ай бұрын
ゼロの称号
10:44
7 ай бұрын
ノコギリ運転
11:14
7 ай бұрын
スーパーチャージドDMH17
12:04
Пікірлер
@ykh_hkdysk_mrt4761
@ykh_hkdysk_mrt4761 22 сағат бұрын
投稿ありがとうございます 北海道での活躍もコメントしてほしかったです。
@user-qm7zx1bl5m
@user-qm7zx1bl5m 22 сағат бұрын
約50台前後がC59と合体させられC62に改造されて行ったからなぁ。
@user-xc8zx9fo8e
@user-xc8zx9fo8e 23 сағат бұрын
D52の動輪周馬力1420PSだと、ディーゼル機関車換算で、液体式で機関出力1950PS、電気式で1780PSほどの機関出力が,少なくとも必要になる。重量、軸重の問題等もあり、当時の日本の技術や諸事情で、SLの早急な置き換えは難しかった。 動画最後のDD50やDF90、DD51₁は、その格闘の痕跡なんだと思う。
@tosi6942
@tosi6942 Күн бұрын
安全マージン削ってボイラ簡略化、安全マージン削ってボイラ高圧化、 結果大爆発。 でも戦後ボイラ最適化で予定の性能、さらに軽量車体の設計に貢献。(船底テンダが主台枠省略のはしり)
@SleeperExpressJNR
@SleeperExpressJNR Күн бұрын
3:52辺りに出て来る客レ、編成最後尾のスハフ32、床下機器が逆向きなのが残念。広島電化時の20系ブルトレは確か現車13両換算40.5~41両程度だった。EF58だと確か最大600t牽引=スハ車15両=まで行けるが瀬野八の上り25‰では300t=スハ車では7両まで=が精一杯。 なので換算50両以上ともなると後補機にもEF58が就いたりしていた。 EF61は瀬野八用と言うより、山陽区間の急行旅客列車無煙化対策が主目的。但しいずれ電車化される予定だったので小改造で貨物機にできる構造だった。 電化後もしばらく貨物列車がD52で残ったのは、D52で推せる速度域20~25㎞/hでは電機がオーバーヒートしてしまい、かといって電機が安全に登れる40~45㎞/h以上の速度域ではD52では3重連でもそこまで出せない為頭を電機にするなら補機も電機にする必要があったから。尚EF59は当初EF20となる予定だったが、急行旅客列車の後補機にするならそれなりの速度が必要ということでMax85km/h以上出せる仕様となってEF59を拝名したもの。EF58時代のブルトレは広島で補機付けたが急行・普通・荷物列車は瀬野駅に停車して連結した(深夜丑三つ時に発着する夜行急行は運転停車で客扱いなし)。但し日中通る[しろやま]=後の[屋久島2号]=だけは瀬野駅で客扱いしていた。おそらく同列車が電車でも気動車でも12系以降の客車でもない在来一般型客車編成故に停車したラ乗客が自由に乗り降りできたからそういう扱いになっていたものと推測。
@tyuggkitiuv8717
@tyuggkitiuv8717 Күн бұрын
KATOさん早く出して。
@user-to8tu8tv6i
@user-to8tu8tv6i Күн бұрын
こんなバケモノが急勾配の御殿場線では旅客列車を牽いていたんですよねぇ。 梅小路への保存候補に挙がらなかったのでしょうか。
@tyuggkitiuv8717
@tyuggkitiuv8717 Күн бұрын
?梅小路にD52保存されてたはずだけど?
@SleeperExpressJNR
@SleeperExpressJNR Күн бұрын
梅小路には最後北海道函館本線で走っていたラストナンバーD52468が静態保存されています。
@user-eo8yz5ub6n
@user-eo8yz5ub6n Күн бұрын
速度と動輪の回転数とが合っていません。
@user-rr1hn8lv2p
@user-rr1hn8lv2p Күн бұрын
煙突とシリンダーブロックが揃ってないのがD52のチャームポイントw 全面ナンバープレートが、もうちょい上ならなぁ
@C5795H
@C5795H Күн бұрын
5:12 3D酔い注意
@channelsada3849
@channelsada3849 Күн бұрын
そのD52機関車をスペックアップさせたい当時の鉄道省(日本国有鉄道)は、戦後すぐに(1947年)これをある機関車に魔改造させることに。これが実を結び旅客と貨物両方の運用をこなすパワーを得ることに成功しました。これがかのC62機関車ですよね。
@user-do8wk3mx9k
@user-do8wk3mx9k Күн бұрын
実態は戦争にボロ負けした結果貨物が減り、D52が大量に余って始末に困った一方、ボイラー用の良質な鋼板が入手難になってC59·C57が造れなくなったための「苦肉の策」で登場したのがC62とC61。
@tyuggkitiuv8717
@tyuggkitiuv8717 Күн бұрын
@@user-do8wk3mx9k GHQの許可が下りなかったのが原因じゃなかったっけ?
@TheBikkuri
@TheBikkuri Күн бұрын
蒸気機関車の性能の高さに驚いて下さい。函館-札幌間「北斗星」をC62重連で引いたら森-札幌で10分ほど速くなる計算を得たことがあります。
@user-je7ix4hh4o
@user-je7ix4hh4o 3 күн бұрын
キハ85ひだ サヨナラ運転みたいな凄い編成やなあ😮
@user-iv4gv6ke9s
@user-iv4gv6ke9s 3 күн бұрын
この景色は懐かしい!山陽線沿線住みだったので
@MANATY_S
@MANATY_S 4 күн бұрын
うん?2等車表記は間違いなはずですが?落成当時3等級制だったので2となってたが、運転開始時には2等級に変更されて、パーラーカーなども1等車になったので2と表記されての運転はないはず、2の上に1を重ねてる写真も出回ってますよ
@shinopwakamisugi
@shinopwakamisugi 5 күн бұрын
瀬戸大橋開業後の今となっては、独自規格の簡易交流電化は見送って正解だったかと思います。 そして、国鉄財政が悪化しなければ、四県都周辺は国鉄時代のうちに複線化しておいて欲しかったです。
@user-br1yz8wf9y
@user-br1yz8wf9y 6 күн бұрын
1:15 乗客マネキン?
@sunami808
@sunami808 7 күн бұрын
タイ国鉄ではまだまだ客車が中心。新車の寝台車を買ってるくらいです。タイ人からわざわざ列車で行くのにはお金あるのにどうしてあんな貧民窟みたいなもの乗るの?って言われますが、あの非冷房三等車のボックスシートの雰囲気は日本じゃもう味わえない。
@user-pn4uq2kt5s
@user-pn4uq2kt5s 8 күн бұрын
1960年生まれなので、実際に東海道本線を走っているのを見た記憶はありませんが、日本が戦後復興を果たして、ビジュアル的にも戦前とは全く違った国になったことを象徴する車体でした。 東海道新幹線開業までの6年足らずしか東海道本線を走っていませんが、ビジネス特急が東京大阪間を日帰り圏にし、さらに新幹線が所要時間を半減させるという目まぐるしい発展が高度経済成長とオーバーラップしたので、あの頃の日本には未来を信じる明るさがありました。 1970年の大阪万博では、日本館内をリニアモーターカーの模型が走り回り、20年以内に東京大阪間は1時間で行き来できるようになると言われていましたが、当時小4だった少年がとっくに還暦を過ぎた今になってもいつになったら完成するのかわからないのは情けない限りです。 改めて高度経済成長を成し遂げた親世代の凄さを感じるとともに、跡を引き継げなかった私達世代の無能さを痛感しています。
@user-fe4ze3ok5t
@user-fe4ze3ok5t 9 күн бұрын
私が生まれる前の動画、よくありましたね😮当時撮影機材を持っているのは、大金持ちですね💴
@TheBikkuri
@TheBikkuri 10 күн бұрын
35t戦車に必要なのは500馬力エンジンであった。600馬力エンジンだと40t戦車の動力とすることが出来る。戦前に600馬力エンジンの量産をしていたら他国の軍関係者からは一目置かれたであろうなあ。しかし、1200馬力5両で大した高速性能が得られないとか、やっぱり電気式は重すぎるなあ。
@Amanogawa5820
@Amanogawa5820 10 күн бұрын
メキドロ式は本国ドイツでもなかなかに難儀して、フォイト式が主流になったようですし、国鉄は選択をミスしましたね…
@hi-resolutionsound1938
@hi-resolutionsound1938 10 күн бұрын
80系をろくに知らない奴による、いい加減な調べによるデタラメ。 たとえば80系は前面三枚窓の一次形が板張りの床だった以外、すべてリノリウム張り。後にロンテックスという新素材を改造で導入した車両が一部にあったが…。
@oleo_p8018
@oleo_p8018 11 күн бұрын
丙線で軸重16tいけるくらいに全国の軌道整備進めたほうが結果的に良かったような…東海道山陽は20tで。
@TheBikkuri
@TheBikkuri 11 күн бұрын
キサシは特急「はつかり」で痛い目に遭ったので忌避されたでしょう。食堂車は歴史的には最初に冷房化された車両ですし自己の冷房は絶対です。ビュッフェは電子レンジ使用前提で、その昔の電気レンジはさらに電気を使います。キシ80を原型としキハ65系列の思想を取り込んだものが最適でしょう。昭和44-47年はグリーン車が割安で在来線では一般指定席より先に詰まっていたのでキロシでの登場が面白かったかも。その後の料金の値上げラッシュでグリーンや寝台車は客を失います。
@TheBikkuri
@TheBikkuri 11 күн бұрын
音楽が弁天町の交通科学館ジオラマを思い出す。運転界中盤(昼情景)にはチゴイネルワイゼンも良くかかっていたなあ。
@houraikosince1986
@houraikosince1986 12 күн бұрын
キハ52の手すりがとんでもない場所に^^;
@minakatamanabu7413
@minakatamanabu7413 12 күн бұрын
急行北上・北斗の牽引があったそですが、特急はつかり牽引は無かったのだろうか?秋田じゃなくて小樽築港に転属していれば急行ニセコ牽引をやれたのに・・・
@ikkakun4810
@ikkakun4810 12 күн бұрын
JR九州石井初代社長の監修された著書を手本にされてますね
@dj5fs233
@dj5fs233 13 күн бұрын
現代戦車以上、74式の2倍以上の出力。 重量も倍以上ですね。
@user-nc9no9rs7p
@user-nc9no9rs7p 13 күн бұрын
キハ07が流線型なのは この名残でもあるのかな?
@tosi6942
@tosi6942 13 күн бұрын
日立って会社の思想なのかなED15もメーカー先行だったし、最近は海外進出とかしてるし
@user-je7ix4hh4o
@user-je7ix4hh4o 13 күн бұрын
電釜に関してはメーカー提案(ED15)で始まり、メーカー提案(ED500)で幕を下ろしたってことですか😮
@yn5066
@yn5066 14 күн бұрын
2024年3月まで15年程、鉄道変電所(直流)の保守をしていた者です。 簡易交流電化・簡易交流車輌、実に面白い発想だと楽しく拝見しました。技術の過渡期というか、急速に発展している時期の、技術者の様々なアイディアを詰め込んだような構想でしょうか。自由な発想が非常に羨ましく思えます。 ところで、日本(と多くの海外)で標準の直流1500V電化の場合、事故電流と負荷電流の区別が難しいという欠点があります。このため、複雑なシステムを用いて事故電流を判断する仕組みになっています。また、都市部の運行本数の多い区間を中心に電圧降下が大きいので、変電所を多数設置する必要もあります。様々な資料を調べると、地下鉄では3~5kmおきに設置しているようです。(直流600Vの路線は2km程度の間隔の所もある) このことから、直流3000Vに昇圧すると良いと思うようになりました。(イタリアなどに実例あり) 直流3000V電化になれば、負荷電流は小さくなるので、事故電流との区別は容易になると思われます。また、変電所間隔を広げることができ、変電所を減らすことが可能になります。構築物の離隔や絶縁強度の問題があるので、改修が必要になる設備も多いでしょうし、車輌の対応も必要になる点は承知しています。しかしながら、饋電システムとしては直流3000Vが優れていると考えます。私が3月までいた部署の仕事は減ってしまいますが… 私が思い付くくらいですので、過去に国鉄等で検討されたかもしれません。そして、もし検討されても採用されなかったのなら、何か理由があるのでしょう。そういう話題があったら、是非とも動画で拝見したいものです。
@kasa-branca4449
@kasa-branca4449 14 күн бұрын
国鉄では不採用ながら、このカマ 輸出用としては成功して、何カ国か送られた。 タイが有名か
@sunami808
@sunami808 14 күн бұрын
普通の標準軌列車かな?
@user-rr1hn8lv2p
@user-rr1hn8lv2p 14 күн бұрын
今見てもいいデザインの機関車ですね。でもDD54のブサイクさと故障だらけの鈍臭さが好きだったりw
@user-xc8zx9fo8e
@user-xc8zx9fo8e 14 күн бұрын
DD40(のちのDD92、L字アメリカンタイプ 、梅小路、吹田第一機関区), DD42 (ロッド駆動式、凸型ながら前向き運転台、のちの鹿島鉄道DD901、試作機では最長寿命1988(昭和63)年まで使用、2007(平成19)年解体) , DD91(DD54の試作機), DD93 (のちの名古屋臨海鉄道ND551 1100PS×1、外観は凸型でDD13酷似), DF93(常磐線、千葉気動車区) といった液体式 ; DD41(のちの DD90、L字アメリカンタイプ、大宮駅構内で入換に使用), DF41(のちのDF92、 山陰本線、福知山線で使用), 『DF90』【本動画】 , DF91(1代目)(アメリカンタイプ、のちに台湾へ輸出、現在保存), DF40 (のちのDF91(2代目)、C-C軸配置、DF50₅₀₀(MAN形)の試作機的なもの、四国で使用、側面丸窓が特徴的) などの電気式がありましたね。 DD50(通称「海ボウズ」)も試作機の範囲を出ず、量産されたDF50の出力も101系電車1ユニット分にも満たない非力なものでした。 当時は、出力を上げれば重量が上がり、重量を下げると出力も下がるといった矛盾に悩まされていました。 液体式のDD51の登場でやっとこの問題も解決され、機器の小型軽量化も進んだ90年代には、電気式でDF200が使用線区を限定してですが登場しました。 最近は、DD51も残り10両となり、DF200は部品の調達が困難になってきたことから近じか廃車が決定しました。 近年のトラックドライバー不足から、国交省も鉄道での貨物輸送を拡大する方針を策定し、新型のディーゼル機関車を投入するとのことです。 詳細は不明ですが、全国どこへでも入線できるように、軸重が14tとなるようで、60L前後の既製品の2500PSクラスのエンジンを2台載せる予定なので、EH200やEH500のような連接車体になる模様です。 なお、最近においても、まだドイツ製のディーゼル機関車を輸入している例があります。北九州にある「くろがね線」です。 当該線で使うE.1401(メーカー形式ST-S-1380-D)は、ドイツ、シャルケ ロコモティブズ(Schalke Locomotives:エッセン近郊エアレのメーカー)製で、インバーター制御式電気式ディーゼル機関車です。 軸配置はB₀-B₀、機関出力は1380 kw(1876PS)。重量が140 tで、軸重がなんと35 t、4軸機としては「世界一の最重量機関車」です。製鉄所専用機で、9‰で1400 tまで牽引可能です。
@user-hc8pl4is7v
@user-hc8pl4is7v 14 күн бұрын
高出力ディーゼルエンジンの開発、しかもダイエットで、かなり苦労してたらしいな?、
@user-hy8kf8bu8j
@user-hy8kf8bu8j 14 күн бұрын
設計最高速度100km/hとは911を除くと国鉄ディーゼル機最高ですね! DD51も100は出たでしょうけど、設計最高速度で95kmとされたのは、大型SLより格下の烙印を押されたようなもの。 そこへ行くと実力はさておくも日立というメーカー提案だからこそ、導き出されたスペックだったと言えるでしょう。
@TheBikkuri
@TheBikkuri Күн бұрын
変速機があり変速比を変えることが出来たのだから100は出せたはず。当時、保線区がやたらに強くて機関車の速度向上を嫌がった模様。
@user-mp6zk4fb8h
@user-mp6zk4fb8h 15 күн бұрын
この時代の試作機シリーズはそそられますなあ…
@Kiwipedia.
@Kiwipedia. 15 күн бұрын
こういうメーカー提案型借り入れディーゼル機関車をもっと見たいです。
@user-bk1sp2gc8q
@user-bk1sp2gc8q 15 күн бұрын
黎明期のディーゼル機関車には大出力向けの液体変速機の開発遅延もあり、比較的構造が簡素で電気機関車との互換性もある電気式が主流で開発されていた しかし、運用線区が軸重15t程度の亜幹線向けでは重量がありすぎ、所定の性能を達成することが困難であった ちなみに、電気式の復活ともいえるDF200は軸重16・8tの特甲線向けなので、それはそれでまた別の問題を内包することとなった
@user-vl7qn4gc3q
@user-vl7qn4gc3q 15 күн бұрын
内燃機関の出力向上はWW1の頃からものすごい開発期間がかかり、それが老舗メーカーの財産になってる。 バッテリーとモーターと今流行りのアプリケーションで動くアクセサリーしか作れないメーカーや どっかの国が、「え~!EVじゃないの⁈」を必死に国策にしたあげく・・・ものの見事に失敗したのは こういう技術的背景があるように思います。
@abet6580
@abet6580 15 күн бұрын
官尊民卑なのか。もっと遡って省対満鐵なのか。 日立は国際舞台に打って出てこそ花開く宿命なのかもしれません。
@user-ng1nb4yo9e
@user-ng1nb4yo9e 15 күн бұрын
急行北上牽引だったかな どの色が好きかと言われれば晩年のDL標準色が好き
@7coloreddrops
@7coloreddrops 15 күн бұрын
ゴオサントオで14往復だったよ。毎時00分上野発。07:00 のひたちとひばりの同時発車は名物だった。 ゆうづるも7往復という今じゃ考えられない多さだったよ。 14系24系583系と使えるクルマは何でも使ったって感じだった。上野駅も20番線まであったし。 1000円札から100円玉へ崩すのに手数料を取る有人の両替所が13番線にあったすんごい時代。 上野の駅そばが150円。品川の駅そばが120円。冷凍ミカンが5個で200円。
@user-gd9nz4gp9s
@user-gd9nz4gp9s 15 күн бұрын
ディーゼル機関車の使われる環境と使える技術が全く噛み合わなかった時代の産物という印象ですね。 今考えると2000馬力ディーゼルエンジンは日本の鉄道環境では難しかったのでしょうね。
@Amanogawa5820
@Amanogawa5820 15 күн бұрын
結局、インフラの脆弱さが機関車の出力向上を妨げてしまったと…
@mcustep
@mcustep 15 күн бұрын
マイクロエースのDF90を久しぶりに走らせたくなりました。
@ryojiishii6146
@ryojiishii6146 15 күн бұрын
キハ65、クセのある揺れが結構苦手でした。ダンピングが効いてない長周期の「ゆ〜らゆ〜ら」ローリング…なんらかの対策は当時されていたんでしょうか?