Пікірлер
@user-on8sq6zp5v
@user-on8sq6zp5v 3 сағат бұрын
改めて 本当に 素敵な方でしたのですね~😢😢❤❤❤
@user-qm7zr2kg7p
@user-qm7zr2kg7p 7 сағат бұрын
赤塚親弘さん俳優赤木圭一郎の一生のファンです…親弘さんは一生の会った事の無い親友で有り兄さんです。
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 17 сағат бұрын
黒いセーターとトニー 滝田順 「紅の拳銃」は、トニーの数ある主演作中でも名作といえる作品です。  アクション映画といえば、大抵拳銃をぶっ放し、派手な殴り合いに終始するだけであるものですが、この映画は、日活アクションには珍らしく、人間的な悩みを描いていました。  それは田村泰次郎原作の「街」に負うところが多いのですが、中でも笹森礼子扮する、 盲目の女性とのほのかな慕情と、トニの過去とが交錯する、微妙な心理の綾が、巧みに描かれていたので、復讐話プラス刑事の潜行ものという、つまらないストーリーが引き立って来たのだと思います。  しかし、なんといっても、トニーの魅力がそのすべてでしょう。例えば、垂水悟郎に拳銃を教わるシーン一つにしても、トニーの憂いのあるマスクが、半ばいやいやながら、半ば秘密をかくして、だんだん腕を上げて行く過程を見事に演じ分けていました。 又、拳銃さばきが、無類にうまいので、あの長い導入部を、少しも飽かせずに観せてくれました。  いまでも、あの黒いセーターのトニーが、眼に浮かんで来ます。    X  X  X この映画の主題歌「追憶(おもいで)」は、水木かおるさんの傑作です。  主題歌の打合せの時の映画の題名が「殺し屋には墓場がない」で、次が「紅の拳銃」に変ったので、水木さんも大変に書きにくかったのではないかと思います。 それで、「追憶」というタイトルで主題歌にしたのだと思います。  これは憶測ですが、水木さんの人間観というか、世界観には、人間はみんな、芯は淋しいんだ、という思想が流れているようです。「黒い霧の町 」から、この「追憶」まで、一貫して、男の淋しさというもので貫かれています。 それが、又、見事にトニーのイメージにピッタリなんです。この辺が、水木さんの非凡なところです。あの憂いを秘めたトニーの声と、水木さんの名詞が、藤原秀行さんの名曲を生み、数々のヒットを放ったのです。  水木、藤原のコンビは、その後、西田佐知子の「アカシアの雨が止むとき」をはじめとして、「東京ブルース」「博多ブルース」などのヒット曲を出していますので、御存知の方も多いかと思います。  トニーの事で思いだされるのは、彼の大食漢ぶりです。 高橋英樹や浜田光夫も大食には違いありませんが、トニーのそれには、やは一歩ゆずるようです。  吹込みの後は必ず"福禄寿”に寄って、中華料理をパクつき、愛車のMGや、 ルノーに乗って、帰って行きました。 その時の消えて行くテールランプと、彼の得意のファンキー・ハットがいつまでも見えていました。  こうして、思い出話を綴っていても、ついきのうの事のような気がします。  大食といえば、こんな話もあります。  トニーが、横浜日活に出演したときのことです。いつごろの事か忘れましたが、撮影の合間を縫っての出演ですから、もうかなり忙しくなってからの事だと思います。  トニーも、彼を大変に可愛がってくれた宮本支配人の頼みなので、無理をしたんでしょう。5時半頃撮影が終ると、待たせてあった車に飛び乗りました。 その時の服装がこれ又、大変な姿。ジーパンにゴム草履という、すさまじい恰好で、『腹がへった、腹がへった』を連発しながら、甲州街道を走って来ました。 そして、車が笹塚まで来た時、トニーは何を思ったか、急に車を止めさせたのです。あわてて車から降りると、道路の反対側へ駆けて行きました。  暫らくしてから、新聞包をかかえたトニーが、ニコニコしながら、帰って来ました。安心したような表情で、座席へ落着くと、やおら新聞包をあけると、中から揚げ立てのコロッケが山のように出て来ました。 「皆さん、如何ですか――」  そうすすめた時には、既に彼の胃に、コロッケが四つはおさまっていたでしょう。とにかく、 もりもり喰っていました。 その時、トニーがコロッケを何コ食べたか秘密にしておきましょう。 そんな事より、大スターのトニーが、四つ15円か20円のコロッケを、吹っ飛んで買いに行った姿の方が面白く、まだ知られないエピソードとして、紹介したまでです。    X  X  X この欄で、ファンの皆さんにお願いしたいことがあります。 皆さんの中で、トニーの写真をお持ちの方は、お貸し願えませんか、トニーの日常生活でもいいし、ロケーションのときのスナップでも結構です。トニーの魅力を多くの人に紹介したいと思いますので…… 赤木圭一郎映画全集 紅の拳銃より 画像あり instagram.com/iwayatosi/
@user-qm7zr2kg7p
@user-qm7zr2kg7p Күн бұрын
はじめて聞いた感激…歌,兄さんより上手…凄げえスゲー😂😂😂😂エルビス赤木…
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 7 күн бұрын
嵐に散った花 トニーが逝って7年、彼の人気はいっこうにおとろえることを知らない。 映画、テレビの再放映その他彼のこの世に存在する貴重な資料を通して、 若い新しいファンが続々と生れている。 いったい彼のどこが私たちをひきつけるのだろうか。 ある突然に起った…白昼の自動車事故・・・劇的な最後。 これから本格的な俳優として出発しようとした直前の死、 満開の日を目前にして一夜の心ない嵐に散ってしまった桜花にも似て、 はかないトニーの最後が私たちの胸中から容易に消え去らない。 あのたくましい。野性的なトニーがあまりにもあっけなく逝ってしまった、そのことだけで私たちファンは何も云うことができない。 どうかもう一度生きたトニーに合いたい。その願いが私たちの心に生きつづける限り、トニーは永遠に生きているのだ。 赤木圭一郎映画全集 紅の拳銃より 画像あり instagram.com/iwayatosi/
@user-vf8ls7no6p
@user-vf8ls7no6p 8 күн бұрын
赤木圭一郎 私の命と言っても過言では無い!全てです❤あの世に行ったら、会いたい人です😂
@user-qm7zr2kg7p
@user-qm7zr2kg7p 11 күн бұрын
我が一生の日本俳優ただひとりの人
@user-gq1kd7po3f
@user-gq1kd7po3f 12 күн бұрын
トニーのツイストは大ヒットし、映画だけでなくツイストの旗手にもなったのではないかと思います。
@user-gq1kd7po3f
@user-gq1kd7po3f 12 күн бұрын
ユリさんは、あれから芸能界には長くはいらっしゃらなかったと思われますが、お元気なんでしょうかな。
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 13 күн бұрын
そっとしておいてください、とお願いするのみです。 この最後の1行にすべての気持ちが代弁されているような気がします。 ご家族の精神的負担がいかばかりか察するに余りあります。 望んだことではないけれど、トニーファンであることがお母さんの命を縮めてしまった…。 トニーファンはそう心すべきだと思います。(涙)
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w 13 күн бұрын
お姉様の言っていることを読んでいると、トニーは女の子にモテすぎて命が早まったように聞こえる。勿論、悪気は全く感じない。ホントにそうなのかも知れない。女の子にキャーキャー電車のなかでも言われて、まだ、日活に入ってばかりなのにキャーキャー言われているのだから、トニー自身に女の子達はキャーキャー言っているのだ。スターだからキャーキャー言っているのではない。それで、車で通勤する事にした。キャーキャー言われなければ、車を買う事もなく免許も取ることもなく、運転をすることもなくゴーカートに乗ることもなかった。キャーキャー言われるのが嫌だった。亡くなってからもひっきりなしに心ないファンが来て、その対応でお母様は体を壊してそのままお母様は天に召された。凄く疲れたのかも知れない。キャーキャー言われなかったらこんなことにはならなかった?言いたくなるのも分かるが?トニーがイケメンに生まれてイケメンに育ったのが悪かったのか?難しい処だ。お姉様も怒りをどこにぶつけたらよいのか、悲しみが手に取るように分かる。心ないファンにぶつけたい気持ちは分かるがファンはそんなもんだからなあ〜 余程、トニーが可愛かった、お母様も体を壊して可哀想に想ったのだろう。ヤッパリ、ファンとして謝る事しか出来ない。ごめんなさいと天まで届けーと ホントに幸せになってほしい。
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w 14 күн бұрын
何日かして訪れると又、新しい情報をUPして頂き有難う御座います。お姉様やご家族の情報が記事で読めるのは有り難いです。でも、当時ご家族の方たちは苦しめられたようですね。可哀想に胸が痛みます。お母様はファンの応対でさぞかし大変だったご様子、そのまま体を壊して天に召されたのですね。何とも言葉がないです。当時私は全くトニーの事は知らなかったのですが、今はファンなのでファンの一人として謝らせてくださいね。全くご家族のことを考えないで(ごめんなさい)ご家族とトニーのことを考えると、又、涙が溢れてきました。もう、お姉様もお母様も天に召されていますが天国ではそっと静かに過ごす事が出来てたら幸いです。何故かトニーの御一家トニーがスターになったが為に不幸が訪れてしまったようで申し訳ないような感じさえしてきます。トニー自身がスターなんかにはなりたくなかったのかも?今はそっと手を合わせる事しか出来ない。天国ではホントに幸せで有ってほしい。幸せをずっと願っています。
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 14 күн бұрын
ヘルメットが災いした事故死 赤木圭一郎  田代民枝(赤木圭一郎姉) 弟が死んで、もう三十年近く経ちました。 もともと映画スターに憧れて俳優になったんじゃないんです。それどころか弟は、おそらく最後までアルバイトのつもりでしかなかったのではないでしょうか。 大学に入った時、一人前に「学費ぐらい自分で稼ぎたい」と言い出してアルバイトの口を捜し始めました。 たまたま母の知り合いに日活のプロデューサーがいて、この人に母が「その他大勢〟の役でいいから使ってくれない?」と頼んだんです。 そうしたら、「ちょうどニューフェイスを募集しているから、応募してみたら」ということになった。もちろん「将来、大物になる」なん予想もしません。 「まあちょっと背が高く、顔も悪くないから、もしかしたら受かるかもしれない」といった程度だったようです。 ところが合格。 上の姉が当時、横浜の本牧に住んでいて、東京に通うのに近いだろうということで、弟と私はそこに居候させてもらうことになりました。近くにアメリカン・スクールがあって、市電に乗ると、そこの女の子たちと一緒になる。するとみんなが弟の顔を見てキャーキャー言うんです。まだデビューしたてで、名前も知られてないはずなのにですよ。 それがイヤで弟は免許を取り、車を運転し始めたのです。当時は車といえば、ごく少数の、よほどの金持ちが持っているだけでした。 女の子に騒がれなければ、免許をとることもなかったでしょう。まして、撮影所内でゴーカートを運転することもなかったはずです。 事故は撮影の合間に起こりました。 友人のゴーカートを借りて運転していた時、操作を誤りコンクリートの壁に頭を強打してしまったのです。 その時、弟は空軍が使う頑丈なヘルメットをかぶっていました。結果的にそれが災いしたのです。 頭を打った衝撃で、首の上の部分にヘルメットが食い込み、頭蓋骨骨折で一週間後に亡くなりました。 もし命をとりとめていたとしても、植物人間だということでした。 家族がどれほど悲しい思いをしたか。 二、三年は何をするにせよ、ぎくしゃくしていました。 そして私たちの場合、はっきりいって無神経なファンの人たちのためにずいぶん苦しめられたのです。 「お線香をあげさせてくれ」といってやってくるファンの人たちを、母は追い返すのも悪いと思って、家に上げていました。でも、そのうちに過労で倒れてしまう。ところがファンと称する人たちは、病にふせっている母にかまわず勝手に庭に入りこんでくるのです。たまらずに引越すことになって、マスコミにも知らせず電話番号も登録しませんでした。それでも母は回復することなく亡くなりました。 お墓も移さざるをえませんでした。墓石は削り取られて持っていかれる。玉砂利も持っていかれる。命日に私たちがお参りにいくと、さも珍しそうに見る。握手してください、サインしてくださいと言ってくるのを、「私たちは芸能人ではありません」と断わり続けました。 私はジャズ歌手をやっていて、お店も持っているんですが、いまでもどこからか聞きつけてやってくるファンの人がいるんです。 「赤木圭一郎の店はここですか」って。私は「違います」と追い返します。 でも中には、弟のおかげで更生したという方もいました。 「少年院に行く寸前だったのが、そんなところにはいったら赤木圭一郎の映画が見られなくなる。だからまっとうになることにした」というんです。 この人は、弟の誕生日と命日にだけやって来ます。 こういう人は追い返せませんよね。 弟を偶像化してくださるのはありがたいことですが、そのために家族は被害者となりました。 そっとしておいてください、とお願いするのみです。 血族が語る昭和巨人伝 文藝春秋編より 1990年 画像あり instagram.com/iwayatosi/
@user-lt9ke2bl8n
@user-lt9ke2bl8n 16 күн бұрын
あなた歌われ輪島せよ今聞いたらよかな穴隊は湯田米生レジ高だよ
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w 18 күн бұрын
私も、昔の学生さん達は女学生の方もトニーに想いを伝える為に何通もラブレターを書いて、自分の写真まで入れて凄い積極的なのに、全然返事を上げずにいると全然ご返事が頂けないのよ脈がないなら写真を返して頂戴と伝えてと男友達に頼んでいる。何としっかりしていて積極的で明るいのだろうと想うと同時に、あくまで言葉遣いが綺麗でトニーに対する想いと風情をかんじる。昔の学生さん達も青春を謳歌していたのだと羨ましくも有ります🍒
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 18 күн бұрын
この記事の中に、 ”上野動物園へ清遊に出かけたり” というところがあります。 清遊という言葉はあまり聞かないので調べてみました。 【清遊】 1 世俗を離れて風流な遊びをすること。また、その遊び。「山野に清遊する」 2 多く手紙文で、相手を敬ってその遊びや旅行をいう語。「当地へ御清遊の折にはお立ち寄り下さい」 当時の学生は洒落た言葉を普通に使っていたんだなぁと思います。 もっとも知らなかったのは私だけかもしれませんが・・・。 追記。 高校時代の思い出を語った仲良し級友、 ”現在はいずれも大学生の葉山、吉竹、板橋、牧村の四君” とありますが、この中で吉竹さんが58年後、2019年発売の「ポスター集 赤木圭一郎は生きている」のインタビューに片山さんという方と出ています。 動画「打倒」コメント欄「学友インタビュー」参照。
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 19 күн бұрын
コメントありがとうございます。 このチャンネルはこの一年あまりの間に400人以上の登録者が増えました。 単純計算で一日一人の割合で登録者が増えていることになります。 もう63年も過ぎて、赤木ファンは出尽くしているのではと思ってしまう私にとっては新鮮な驚きです。 ありがたいことです。感謝です。
@user-hk6ye6fj9e
@user-hk6ye6fj9e 19 күн бұрын
赤木圭一郎さんをアップしてくださりありがとうございます。私が赤木圭一郎さんを知ってまだ数年で皆さまのように詳しくなくまだトニーとはおこがましくて 、アップしていただき少しでも赤木圭一郎さんを知りたいと思っています。短くもこれだけ輝いていつまでも皆さまの❤をつかむ最高のスターですね。これからもよろしくお願いします😊
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w 20 күн бұрын
トニー女の子からも好かれていたようですが、おばさまからも好かれていたようで夏場の駐車場の番人のアルバイトでチップ1.000円て?????ヤバくないですか?あの頃の価値で10.000円以上じゃないですか?トニー引っ込み思案の処も有るが大胆な処も有り目が点になる。
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w 21 күн бұрын
泪なくして観られないね。いつも、トニーのUP有難う御座います。泪で文字がダブって良く読めないよーでも、トニーのイケメンぶりは小さい時からだね。坊主頭でもすんごく可愛い。昭和の初めに生まれた男の子には想えないよ~顔、姿自体が既に洗練されている。コレじゃー女の子にもてない訳がない。お父様の若い頃は、私がかってに思っているのだが、元カトゥーンの赤西仁に似ていると思ったので、トニーも時々赤西仁に似て見える時がある。(あくまで、私の勝手な思いです。)だから、カッコいいお父様の強い遺伝子と、お母様も少し痩せたら凄い美人だと思う。この二人の遺伝子は最強だ。ハンサムボーイにならない訳がない。アーアー今度生まれてきたら頼むから長生きしてよと心から願わずにはいられない‼️ 長生きしてネ‼️ハイスペックに産んでくれたお母様に感謝♥️
@user-cq9tc7li5t
@user-cq9tc7li5t 21 күн бұрын
ありがとうございました!何てお礼を言っていいか分かりません。涙が出てくる位嬉しいです。まさかこんなお宝をお持ちだったとは、、。永久保存して折に触れて拝見させて頂きます。このお宝をお持ちなのは日本に10人もいないのでは?と思います。本当にありがとうございました!私の一生の宝物ができました。本当にありがとうございました!これからも宜しくお願い致します!尚信じられないような酷暑、炎暑が続いています。くれぐれもご自愛下さい。これからも我々トニーファンの為に宜しくお願い致します!
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 21 күн бұрын
喜んでもらえて嬉しい限りです。 励みになります。
@user-kk5ru1id6q
@user-kk5ru1id6q 21 күн бұрын
お早ようございます☀ 今も、悲しみがこみあげてきます〜トニー👋
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 21 күн бұрын
概要欄からの続き 素顔の彼はこんな男だった 親友の語る思い出秘話  話は前日にもどり、お通夜のはじまる数時間まえ。赤塚家の近くの空き地にテントをはったり、机、椅子を運んだり準備に追われる日活マンを眺めながら、八人ほどの女子高校生たちが、 「せめて机はこびのお手伝いでもしたいわ」「ほんとうにねえ」とタメイキをつきあっていたが……彼女たちは、赤木が三年間の小学生時代をおくった湘南学園の生徒たち。  あとから赤木の恩師の大森秀先生もお焼香にあらわれ「昨年の10月24日に、赤塚さんは笹森さん(同じ小学校で赤木の一年後輩)といっしょに母校訪問をしてくれました。そのとき私は、思わず。すっかり変わってたくましくなったわねえ……と言っちゃったんですよ。なにしろ小学時代の彼は、とても色が白くて、みるからにおとなしいお坊ちゃんタイプだったんですもの」と眼をうるませていた。  赤塚少年は、やがて横浜の栄光学園中学を経て鎌倉高校へ――その高校時代の思い出をしのんで、お通夜がわりに一夜を語り明かした仲良し 級友(クラスメート)たちがいる。 現在はいずれも大学生の葉山 吉竹、板橋、牧村の四君がそれだ。 「あいつ、口ではドライみたいなことを言ってたけど本当はすごいテレ屋だったなあ」 「修学旅行のときも、彼だけは女の子と遊ばなかった。旅館で女の子が二階、男が下だったが、なにしろ数が一対二で女生徒のほうが優勢だろう、トランプして遊ぼうよ”と積極的に誘いかけるんだ。われわれは喜んでゾロゾロ二階へあがったのに、赤塚だけはついてこなかった」 「あれはね、あとでバレたんだけど、前に女の子からラブレターをもらってたから恥かしかったんだよ。その女の子が僕に赤塚さんに何通も手紙をあげたのに、ぜんぜんご返事がいただけないのよ。脈がないんなら写真を返して頂だいって伝えてと頼んだので、はじめてわかったのさ」(笑) 「家へおしかけられると、居留守をつかったんだってね。あいつらしいなあ」 「彼、夏の夜はいつも海で泳いでた。水泳にかけちゃ、水泳部員より早く、ターザンみたいに身軽だったよ」 「いつか地学の実習のとき、接近した火星を望遠鏡でのぞくのをサボって、俺(葉山)と彼とがプールでジャブジャブやってたら ” 誰だーッ! ” と先生にどなられて、あわててフルチンで逃げだしたっけ(笑)……とにかく一風変った大胆なやつだった」 「勉強はしないのによく出来ていつもクラスで一、二を争ったね。茶目っ気が旺盛で、いつか運動会の仮装行列で忠臣蔵をやったとき、あいつだけわざと靴ばきできやがった」(写真参照)「海岸でよくソフト・ボールをして遊んだが、近所のゴルフ練習所からタマがとんでくると砂の中へ埋めちゃって、聞かれても知らん顔。あとでゆっくり掘りだしてイタダキさ」(笑) 「みんなで年賀状配達のアルバイトをやって、その金で上野動物園へ清遊に出かけたり……赤塚は、夏場に海岸の駐車場の番人なんかもやってたな。 彼、要領もよかったから、適当にサボって泳いだりしてるくせに、たくさんチップをかせいでたよ。オバさんみたいのからボーンと千円もらったり……そんな収入があったときは、じつに気前よくオゴってくれたな」 「彼、アルバイトでかせいだ金で中古の単車を買っちゃった。ぜったいアクアラング (潜水用水中肺)も買うんだと力んでたけど……スタアになってからも、とうとうあれは買わずじまいだったなぁ……」 座がシンミリしはじめたころいつしか東の空が白んでいた。 静かに疲れを休めてくれ ! 23日は、午後2時から3時30分まで、赤塚家の菩提寺である杉並和泉町の大円寺で告別式。その朝、赤木の遺体は自宅近くの海岸に立ち寄って、生前なによりも愛した青海原との別れを惜しんでから、五反田の桐ヶ谷火葬場で骨(こつ)になってきた。  祭壇には『秀善院春海圭父居士』との真新らしい戒名が立てられ、その右側には遺族、左側には日活のスタア連がズラリと悲しみの喪服をならべる。  無数の花輪の中には “ 好ライバル ” だった親友加山雄三(東宝)からのものもあり、大映の本郷功次郎もただ一人ソッと焼香にあらわれた。  参列者は約二千人、このほか同じく二千人ほどの無名ファンもおしかけ、永福町駅から式場までの沿道は、まるで縁日のような人の波。二十人の警官が交通整理に出動するという騒ぎだった。34年春『拳銃0号』でデビューして以来、最後の作品『紅の拳銃』まで、そのスタア生活はわずかの二年たらず。”自然児の哀愁” ”野性的な都会人” "夢をみるように澄んだ瞳" "どこか孤独な第三の男”といった神秘な印象を残して、あまりにもあっけなく昇天していった赤木圭一郎――。彼の霊前で長門裕之が涙ながらに代読した裕次郎兄貴の追悼文が、よくその面影をつたえている。   弔 詞  赤木君  君はいってしまったんだね。我々の手のとどかぬ遠いところへ……。 撮影所の白いカベに、肩幅の広い四角い影を与えながら、大股に立入禁止の芝生の柵を飛び越えて、両手をズボンのポケットにつっこんだまま、肩で食堂のドアーをあける。 そして丸いクリクリした大きな目で、いつもの君だけのあいさつを交すんだ。テーブルに坐ると、君の好きだったオカシナ本当にオカシナ話が始まる。そして大きな口をあけ、声にならぬ大きな声で笑い出す。その健康で快活だった君はもういない……。  そうだ。ついこの間、君が僕を見舞ってくれたとき、君は「ジェット機のイカスの作ったんだけど、出来上ったら裕ちゃんにやるのおしくなっちゃった」って……そう言って、大きな声で笑ってた……。  君はその小さなジェット機に乗って、いっちゃったのかい ? ……  僕の足の方ね、昨日初めて一ヵ月ぶりに、松葉杖とやらで歩いてみたヨ。廊下のエレベーターの所までボチボチ行ってみたんだ。  エレベーターのドアが開いたとき、小さなジェット機を大切そうにぶらさげて、また君がやって来てくれたのかと思った……。  赤木君 君は僕達の……みんなの心の中に、いつまでも、いつまでも生きている !  君は少し疲れてるんだヨ。  静かに   幸せに    やすらかに       眠れ。     二月廿三日  裕次郎
@user-cq9tc7li5t
@user-cq9tc7li5t 21 күн бұрын
いわやとし様、まさか全文を紹介して頂けるとは思ってもみませんでした。どこからどこまで本当にありがとうございました。いわやとし様の果たされた功績は絶大です。口では表現できない位我々トニーファンの味方として、支えとしてご尽力をして頂きました。何てお礼を言っていいか分からない位です。貴方は唯一無二の存在です。国民栄誉賞、いやノーベル平和賞に値します。それ位我々トニーファンの為に身を粉にしてご尽力しない賜りました!本当にありがとうございました!これからも宜しくお願い致します!
@user-ib7dj6eb9d
@user-ib7dj6eb9d 18 күн бұрын
どんなに年月が経ってもやはり悲しさは増します、でも親友の話しでほっこりしました😂お盆には私たちファンの所に還ってきてね……❤ 3:41
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 28 күн бұрын
56年ぶりの映画 オススメ 千曲川絶唱 北大路欣也 星由里子 (1967年 昭和42年作品) 当時リアルタイムで観た映画です 56年ぶりで当時の記憶が蘇り感慨深いものがありました 今観ても色あせない秀作だと思います 北大路欣也が当時のことを語っているので紹介します kzfaq.info/get/bejne/g5h_e7t6yLDPf40.html
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w Ай бұрын
トニーの男っぽさは、男っぽさの中に若いのに男の品格が有ることだと想う。両手をポッケにいれてもサッサと真っ直ぐ歩いて行く姿は、与太ったニイチャンには成っていない、かえって格好いい!両手をポッケに入れながら、或いは両手をズボンに添えて軽く挨拶をしても(頭を下げても)体育会系の挨拶で品のある挨拶をしている。こんな処がトニーと他の人との違いが何故か私は感じる男っぽさの違いなのだが、男っぽいと言うと何故か乱暴な処も有り、無神経な処も有る男を思い浮かべるがトニーには、そう言う処が一切ない驕り高ぶる処が見えないのだ。だから、トニーの男っぽさには優しさも含めて、男女関わらずトニーのトリコになると、トニーが早く亡くなってしまっても、いつまでも、トニーから離れられないファンが(自分も含めて)多いのだと思います!!!
@user-dy8pk6po6t
@user-dy8pk6po6t Ай бұрын
7月1日は正光の誕生日でしたプレゼント🎉ありがとうございます。
@user-dy8pk6po6t
@user-dy8pk6po6t Ай бұрын
芦川いづみさんは今どうして居るのかなか
@user-ts2he3gy4b
@user-ts2he3gy4b 15 күн бұрын
清水まゆみさんのインスタグラムをひらいてください。トニーとの思い出をかたられてます。
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l Ай бұрын
私の履歴書 吉行和子 映画出演 いい男は心もきれい 早世のスターと共演 夢心地 劇団民芸で舞台に出演しながら、日活映画に出るようになった。といっても、石原裕次郎さんほか、日活のスターがたくさん出ている総天然色の映画ではなく、モノクロに文芸作品が中心だ。当時、スター映画とともに2本立てで上映された作品である。例えば1959年は「才女気質」(中平康監督)、「にあんちゃん」(今村昌平監督)、「われらの時代」(藏原惟繕監督)に出演している。 日活が民藝と提携していたのである。かって日本の映画界には「五社協定」があり、多くの俳優や監督が大手映画会社の専属になっていた。この協定に、当初は参加していなかった日活は、俳優が足りなくて民藝と手を組んだ。民藝の大先輩である滝沢修さんや芦田伸介さんが日活映画にたくさん出ておられるのは、そのためである。 こうした先輩たちの末席として、私も映画で仕事をした。スター映画にも少しは出演している。思い出深いのは、わずか21歳で事故死した、赤木圭一郎さんの最後の映画「紅の拳銃(61年)」だ。 2人が抱き合うシーンがあった。しかし、直前のシーンに比べて赤木さんの髭が伸びすぎていて、カメラマンからクレームがついた。赤木さんは慌てて散髪に行った。 その日、私は劇団の稽古だった。困った、また遅刻して叱られる。やきもきしていると、赤木さんは存外早く戻ってきた。そして急いで抱き合うシーンを撮ると、私の顔全体に満遍なく短い毛がくっついた。切った毛をろくに払いもせずに、急いで撮影に戻ってきたのである。 「すみません、よけいに遅くなっちゃいましたね」。恐縮する赤木さん。私の稽古の予定を知っていて、気を使ってくれたのだ。私についた毛を一生懸命、取ってくれるその顔を見ながら、なんていい男、とうっとりした。 石原裕次郎さんも優しい方だった。後年、裕次郎さん率いる石原プロモーションのドラマ「西部警察」で、スナックのママの役を演っていたころのことだ。裕次郎さんの前にあるグラスにゴミが入っていた。裕次郎さんは、黙って取り出して捨てた。スタッフに雷が落ちて当然のミスなのに、弟分の渡哲也さんともども、共演者にもスタッフにも、常にこまやかな気配りをしておられた。つまりは、いい男は、心もきれいなのだ。 日活映画では「あいつと私」(61年)で裕次郎さんと共演したが、残念ながら、この映画は劇団で問題になってしまった。大好きな宇野重吉さんまでが「どうしてあんなのに出たんだ」と悲しそうな顔で言った。 「60年安保闘争」の時代背景にした青春映画で、その中に、私の役ではないのだが、安保反対のデモの参加者に乱暴される少女がいた。デモに参加する若者が皮肉を込めて描かれることや、傷ついた少女を救うのが、裕福な青年である設定が、まずかったようだ。私としては、劇団の指示に従い出演しただけなのだが……。 当時の劇団民藝は、デモに参加したり、労働歌を歌ったり、左翼運動と関係が深かった。私もデモに参加したし、友人が、全学連のの恋人とともに私の部屋に入り浸ったこともある。けれど私の中には、デモも、日活映画の華やかさも、どちらも面白がってしまうようなところがあった。 日経新聞 2021年5月14日
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l Ай бұрын
海が俺を呼んでいる 北海道釧路ロケの赤木圭一郎 ギラギラと光る真夏の海よりも暗く重い冬の海のほうがオレのムードにはピッタリくる 北海道は初めてだ。厳冬の荒れ狂う海を想像していたのだが、実際は波も静かで意外に暖かい。想像とはノミとゴジラくらい違っていた。地元の人にきくと、こんな日はキセキ的で神ガカリ的だという。神? あったり前さ。ここに神様みたいな聖人君子の赤木クンが来てるんだぜ。 オレは海が大好きだ。重い雲が低くたれこめた空の下でダークグリーンの波が圧倒的な迫力でうねっている。冷たい風が頰を吹き抜けていくのが少しも気にならない。暗い北の海に見入っていると、「水に落ちたら三分ももたねえで冷凍マグロだぜ」とおどかす奴がいる。ロマンチストの心も知らないで……。日が落ちるとさすがに寒い。モモヒキってのは大嫌いなんだが、明日は買わなきゃならないかな。(赤木圭一郎) 週刊明星 1961年1月1日号 Instagramに画像あり instagram.com/iwayatosi/
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w Ай бұрын
学生時代の時のように、女の子達から好きだとモーションかけられて逃げ回っていたように、爆弾のような好奇心からも逃げて欲しかった。トニーはむしろ、興味あるモノ好奇心があるものには赤ちゃんがハイハイして猪突猛進してしまうような処があるのだろう?赤ちゃんなら大人が見ていて危ないところへ行けば抱き上げて元の場所に引き戻せる。トニーには時間が無くて悲劇が起きた。どうしても早く乗りたかった気持ちも良く分かるが、ワンクッションおいて欲しかった!もう少し時間のある時、場所も選んで乗って欲しかった。そうすれば、こんな悲劇は起こらなかった。今更、タラレバだが、ブレーキとアクセルが反対だったというのは認識してたのかなあ〜? 兎に角こんな危険が起こるかもしれない事からは、女の子達から逃げ回っていたように逃げていて欲しかったと、親心のような気持ちが叫んでいる!タイムスリップしてトニーのガン首を捕まえて元の場所に引き戻してやりたい‼️
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l Ай бұрын
トニーが緊急搬送された病院は当時一流の病院と思われます。 しかし、一流病院でこの設備環境には愕然としてしまいます。 2階の病室へ行くエレベーターもなく、車輪の付いたストレッチャーもなさそうです。 トニーは意識不明の状態で頭部の手術を受けたのです。それなのに同じ階に病室がなく手術直後に担架に乗せられ、多数の人力で二階の病室に移動させられたようです。 現在なら、手術室から術後即集中治療室に移動して、24時間体制で治療が行われるはずです。 階段を運ばれる写真を見て、現在の医療システムなら助かったのではないかと思ってしまいます。 Instagramにトニー以外の記事を紹介しています。 興味のある方はご覧ください。 instagram.com/iwayatosi/
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w Ай бұрын
この記事も100%ではなくても信じるとして言えることは、トニーは好奇心、興味があることはやはりやってみないと気がすまない男だと想う。だから、この時も車か何かきてよけきれそこなって、この事故に至ったのだと想った。何かに秀でている者は小さなミスで足をすくわれる。死にも至る。トニーみたいな男は、この事故で助かっても又、何か興味があるもの好奇心でやってみないと、分からないという事でやるだろう!どう見てもトニーは長生きできる性分には思えなくなってくる?21歳という年齢は若すぎるかもしれないが、どの道夭折したように想えて成らない。気持ちとしてはトニーが長生きして、トニーの85歳のイカシタダンデイジジーの姿をみたかったけどな〜その願いは叶うはずも無く、分かっているのに又、その想いは募る。トニー安らかに眠って天国ではやりたいようにやればいい。トニーの天国での健闘を祈る事しかできない。今度この世界に産まれたら長生きシテね。又、泪がナガレてクルー🎉🎉🎉
@user-vd-g.s-g.s-love.
@user-vd-g.s-g.s-love. Ай бұрын
赤木さんが事故を起こされないでいたら、日本の映画界、日活の衰退が、大分、遅くなったと思いますね。素晴らしいスターでした。
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l Ай бұрын
この週刊誌のいちばん気になるところは、トニーが生存中に発売されたかどうかです。 記事が書かれたのが17日午後10時と記されています。 トニーが亡くなったのが2月21日午前7時50分。残された時間は3日と10時間弱。 そのまま印刷に回されたとすれば、生存中に発売可能と思われます。 週刊誌の発行日は、実際の発売日より一週間以上先にするのは常識ですので、当時は二週間先の日付というのもあったのかもしれません。 この週刊誌は3月5日号ですから、逆算して二週間前は19日ということになります。 物理的に19日発売は可能と思われます。 この記事が、トニーが生存中にトニーファンに読まれたことを願うばかりです。 その後発売日がわかりました。2月22日水曜日です。 トニーの生存中には間に合わなかったようです。(涙)
@kouchanmachan923
@kouchanmachan923 Ай бұрын
俺この俳優のファンでもないし年代が違うよ
@showafanclub
@showafanclub Ай бұрын
当時の芸能雑誌の記事、『トニー死なないでくれ』の見出しが、何よりも多くのファンの気持ちを代弁していますね💧💧 まだテレビでの芸能ニュースがなかった頃だから、ファンは雑誌の発売を待ち切れず、本屋の店頭から飛ぶように売れたのでしょうね❗ 記事を読んで思うことはいろいろありましたが、「好事魔が多し」という言葉が強く印象に残りました。 日活映画、日活撮影所は好調ゆえの前のめりの勢いを危なっかしく感じます(今だからでしょうが…😔) 詳しい事故状況の記事を読んで、今まで断片的に語られていた俳優仲間の記憶が、それぞれ微妙に違っていたのが、実際はこうだった〜と納得できました! 微妙に違っているのは、よく言われる〈回顧バイアス〉や〈思い出補正〉という記憶の無意識的操作があるからなのでしょうね。わざとねじまげたり、誇張したりしているのではないと思います😅 いわやとし様、いつも貴重な記事の🆙ありがとうございます‼️
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l Ай бұрын
概要欄からの続き 街に流れた ” 赤木死す ” のデマ 「ラジオで赤木が死んだというニュースを聞いたけど、ほんとうですか?」(若い男性のオロオロ声) 「あのニュース、ウソなんでしょうね。ほんとうに赤木さんが死んだのなら、私も生きていたくなんかない……。(ファンと名乗る若い女性)  そうした電話がひっきりなしに本誌編集部にかかってきたのは、15日の夕方から夜にかけてのことだった。どうしたまちがいからか、ある放送局が午後五時のニュースで"赤木が死亡した"と報道してしまったからである。  赤木ファンの気づかいはたいしたもので、病院へは連日、一時間に十回ほどの問い合わせ電話があり、交換手はその応待にテンテコ舞い。中には大阪、名古屋から長距離電話をしてくる女性ファンもいるそうだ。  じかに病院へつめかけるファンの数もたいしたものだが、むろん面会はいっさい謝絶。ファンたちは病院前の寒空に立ちすくんだまま、赤木の病状の一進一退を知りたがっている。  しかし16日の昼すぎには、待望の聴覚反応も現われ、名前をよぶとかすかに唇をうごかすようになった。15日に併発しかかった肺炎もたいしたことなしにおさまり、病院側でも〝危険状態を脱しつつある"と発表した。  この朗報に狂喜した長門、宍戸、二谷、葉山らは、ただちに、「赤木と裕ちゃんの全快を祈ろうじゃないか」  とのゲキをとばし、16日夜9時から、芝田村町の中華料亭・新雅で日活俳優クラブの緊急二月例会を決行した。  参会者は、夜間ロケにひっかかった小林旭・浅丘ルリ子、和田浩治・清水まゆみコンビをのぞいた約30人の若手俳優たち。特別出席した江守常務の挨拶、山崎撮影所長の、 「みんなクヨクヨせず、大いに明るくやってくれ」とのゲキなどもあって乾杯、藤村有弘の音頭で、 「エーイ、ヤッホー、ハーヤクヨクナレ、フタリトモ……エーイ、ヤッホー!」  といった型破りのオハライもすませたのち、長門からの「みなさん、われわれも大いに自重して、ふたりの穴をうめるために頑張ることを誓おう」を合図に散会した。 ダイヤモンド・ラインの祈り  なおこの会の席上、病床の裕次郎からの”ダメな男たちへ"とのメッセージが披露されたが、その文面は「いろいろ心配かけて申しわけない。僕も18日にはギブスをつけ、来月早々、ビッコをひいても撮影所へ顔をだすつもり。四月には、チャンと二本足で仕事をしてみせます」といった頼もしいものだった。  赤木の事故を知ったとき、裕ちゃんは「ぼくに代って『激流に生きる男』で頑張ってくれていた赤木がこんなことになるとは赤木、すまねえっ ! ……病院へ見舞いに行くから、すぐギブスをはめてくれ」と言いはり、さんざんマコと医者を手こずらせたという。このほか、「僕が赤木の事故を知ったのは、『でかんしょ風来坊』の大井競馬場ロケのとき。思わず心の中で十字を切り、すぐ見舞いにとんでゆきたかった。しかし危篤状態の最中にかえって迷惑をかけては……と思いとどまったんだ。僕はスタア・赤木圭一郎としてではなく、人間・赤塚親弘(赤木の本名)としての彼の生命力を信じている。なにがなんでも生きてほしい ! 全快してほしい ! 彼の意識がもどったら、さっそくゲキにかけつけたい」(小林旭) 「じつにイヤーな気持ちだ。赤木さんは前からカートをほしがってたようです。僕も丸ハンドルのカートに乗ったことがある。彼が試乗したのは飛行機型のハンドルだったんですね……気のどくで気のどくでなんとも言いようがありません。今後は僕も”自分ひとりの体じゃない”ことを忘れず、赤木さんの留守を頑張り抜こうと思います」(『大暴れマドロス野郎』撮影中の和田浩治)  こうしたダイヤモンド・ライン仲間の友情を信じきっているかのように、いま(17日午後10時現在) 赤木は、昼寝のような安らかな表情で眠りつづけている。熱もすっかり下り坂になったし、「ようみんな、すっかり待たせちゃったな」と、元気な声が彼の口からとびだす日も近いだろう。  週刊明星 1961年3月5日号
@user-gv2ru2sf6g
@user-gv2ru2sf6g Ай бұрын
自分で努力して はい上がってきましたね ポスターを見ると
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w Ай бұрын
編集部の福川一男氏のトニーに対する想いは、私もほぼ同じ気持ちではあるがトニーは傲慢でもないし、自信も無いと想う。産まれたまんまの気持ちがそのままで(自然児だから)良くもわるくも育ってしまった赤子のような人だと想う。そこには、飾りっけも無ければ計算も打算もない男の子だ。だから、そこに惹きつけられるインパクトがトニーにはあるのだと想う。初めは目も姿もインパクトが有るので一見ギラギラした感じ、印象を受けるかもしれないが、すぐにギラギラしたものではなく、実は、それは、星のようなキラキラした目の光であり、純粋なトニーの姿、形なのだと私は想っている。私はトニーからギラギラした感じを受けたことはない。どちらかと言うと植物的男子に感じる。男っぽく見えるからギラギラした人に見えるのかなあ〜私はギラギラしてる人は好きではないので、トニーがギラギラしているとは想えない。トニーは、唯、単純に自然児で赤子のように好奇心がある方ある方に赤ちゃんのハイハイのように行動している様に想える。だから、事故ったように感じる。今度は、石橋を叩いても渡らない位トニーには少しでも良いから、自然児を卒業シテねとは想っている。😊❤
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l Ай бұрын
下駄履きのトニー  明星編集部 福川一男 赤木圭一郎 ―― この名は、永遠の若さを象徴する名前だ。いつどこで会っても、限りないバイタリティーを感じさせたトニー。 デニムのズボンに、ウェスタン・ハットをかぶった彼が、岩原スキー場(新潟県)に現われたのは、いまから七年前の正月だった。 たまたま、ボクも仕事で岩原に来ていた。その時いままでにない強烈な印象で、人間の野性的な生命力について考えさせられたことは、後にも先にもない。 岩原といえば、着飾ったおしゃれ人種の集まるところだ。スキーの仲間うちでは、俗にイワッパラ族〟と呼んでいるが、これは、”オシャレな社交界の人々”といっても過言じゃないほど、ひ弱な雰囲気がある。そこへ全く風態などおかまいなしの野性人――トニーが、仲間とドタドタとなだれこんで来たんだから、ボクはびっくりした。スターを楽しみに来た服装じゃない。 「ありゃー、なんでここへ?」 と、ボク。 「いや、なんとなく」 「スキーできるの」 「できるか、できないか、やってみなきゃわかんねぇや」 いたって素直な、急くいえばブッキラボーな会話だ。ボクは、こんな赤木圭一郎が大好きだった。彼の中に、これまでになかったスターの新鮮なイメージを見つけることができ、こいつは〝生命力のある男”だと思い込むゆえんでもあった。 芸能ジャーナリストとして、十年間、ボクがタレントにある種のバイタリティーを感じた人たちは、すべて、必ずといっていいほど、トップスターの座を獲得している。古くは・三船敏郎、中村錦之助、石原裕次郎。新しいところでは橋幸夫、坂本九、加山雄三と……。これらの人々は、生きて立派に仕事をやっている。 なのに、トニーだけは......どうして......。 ボクもファンの一人として、ついセンチになってしまう。生きていたときの彼の魅力に直接、触れる機会が多かっただけに、なお一層感傷的にならざるを得ない。 いま、想い出すままに書いているわけだが、とりわけ言いたいことは、彼の服装についてだ。 いつ会っても、ラフないでたち。地味な色のスポーツシャツ。ズボンは、ある時は白っぽく、ある時は黒、といっても、決して不潔感はなかった。 銀座を歩くときも、白のワイシャツにノーネクタイ。そして下駄ばきだ。当時、銀座を下駄ばきで歩ける若者なんて、百人に一人もいなかっただろう。それをトニーは平気でやれる。全く平気なんだ。別に、ひねくれ者がわざと下駄ばきで反抗の姿勢を見せる、それではなかった。いっしょに歩いているボクは恥かしいような気がしたが、”トニーはこれでいいんだ”と納得できる、不思議な魅力を感じたものだ。 本質的に彼の心の中には、 "人はどうでもいい。人の目なんか気にしない。オレが満足していられるんだから・・・” 考え方としては、大へん傲慢な、あまりにも自分に自信がありすぎる男の考えだ。 このへんに、彼のバイタリティーとはうらはらに、若くして死ななきゃならない運命がひそんでいたのかもしれない。というのは、彼はあまりに自分自身に自信がありすぎて、かえって自分の一生を計算する気になれなかったのではないか。徹夜つづきの疲れた身体で、ゴー・カートに乗り、運転を誤まって死ぬなんてことは、打算的な人間に真似はできない、とボクは思う。それだけに、彼の死を知らされたときは、ある美しさを感じたし、いかにも彼らしい純粋な散り方だったような気がした。 話は、彼のおしゃれについて書いているつもりが、つい横道にそれてしまったが、まったく身のまわりをかまわなかった彼の、もっともよく似合う色について、話しをもどそう。 ズバリ、赤がよく似合うトニーだった。身につけて原色がよく似合うタレントは、きまって目がきれいだ。映画の上では、トニーの瞳の魅力がまだまだ生かしきれてなかったように思う。仮にトニーが生きていたとしたら、はやりのビートルズ・カットで、真赤なジャケット、ゴーゴーを踊るトニーを想像してほしい。決してビートルズの連中にひけはとらない。そのまま現代に生きているし、ダイナミックな夢を持たせてくれるだろう。 ボクのあるガールフレンドは言った。 「あのギラギラ光る瞳、真赤なシャツ。想像するだけでゾクゾクしちゃう。今でも、私は惚れている」 なるほど、トニーが生きているときに、ボクもそう感じていたんだから無理もなかろう。 赤木圭一郎映画全集 打(ノック・ダウン)倒 より
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w Ай бұрын
トニーは顔だけでなく、姿、形が生まれながらにスタイリッシュ経った3年の俳優人生で(主役は経った1年)、此れだけの人達をトリコにしてしまう男はいない。トニーには強烈なインパクトがある。
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 2 ай бұрын
Instagram始めました。 コメントだけではわかりにくい部分をカバーできればと思います。 よかったら見てください。 instagram.com/iwayatosi/
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 2 ай бұрын
Instagram始めました。 コメントだけではわかりにくい部分をカバーできればと思います。 よかったら見てください。 instagram.com/iwayatosi/
@showafanclub
@showafanclub 2 ай бұрын
清水まゆみさんのお話で、「邪魔者は消せ」のオートバイシーンが気になり、Amazonプライムで見ました。 途中とラストにそのシーンがありました。 やはりバイクは慣れないと怖い、ましてや運転しているトニーが慣れてないと、後ろでしがみついているまゆみさんは生きた心地しなかったでしょう。 ただ映画の画面では余裕の表情でしたね、さすが役者さんです😅 この映画は珍しく野呂圭介さんとトニーの絡みがあり、この頃はトニーは面構えも主役級になり、かなり先に行ってしまった感がありますね。 まゆみさんのインタビューで「トニーは声はいいんですけど…フフフッ(笑)」の部分、こちらもフフフッ(笑)でした😅 多くの方のインタビュー記事では、素顔のトニーが生き生きと語られ、短い人生でも多くの方の心に鮮やかに刻まれていることを知り、感動しています🤩 UPありがとうございます❗
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w 2 ай бұрын
清水まゆみさん、トニーの実際のお友達のお話は必見ですね。5年前のホッカホッカの話だし年齢も80歳前後の穏やかなそれでいておこがましくなく、トニーの学生時代がわかる実話が聴けてほっこりです。ホントのトニーの人柄が忍ばれて嬉しくなりました。UP有り難う御座います。😊
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 2 ай бұрын
共演者インタビュー 清水まゆみ ----- 初めて赤木さんと出会った時の印象は? 清水 無口で、照れ屋さんでね。ちょっと黒人的な味がある。 ----- 映画を観ても日本人離れした印象がありましたね。(清水さんが結婚した小高雄二さんの)小髙家と(赤木さんの) 赤塚家とはお知り合いだったとか。 清水 トニーのお父様と小髙 (雄二)のお父様が親友で、学校時代も医者の勉強でトニーのお家に行って勉強したりして、二人共受かったんです。だからトニーが日活から出てきたのは、本当にびっくりしましたよ。 ----- 赤木さんがデビューされた当時、小高さんとはすでにお付き合いされていたんですか? 清水 していたと思います。 ----- 清水さんは、赤木さんがデビューした時、「この人、売れるな」と思いましたか? 清水 そりゃあ売れる要素がいっぱいありましたからね。素晴らしい、今までの役者さんたちにないものを、いっぱい持っていましたね。 ----- 清水さんと赤木さんの共演作は『群集の中の太陽』や『絞首台の下』とか赤木さんが売出し前の作品がありますが、本格的に共演されたのが西河克己監督の『若い傾斜』です。『若い傾斜』ではいかがでしたか? 清水 それが……(笑)。だって当時は本当に忙しくて。 ロケーションやった部分は、画面を 見ながらアフレコしますよね。 その部分は見ますけど、全部つながったのを観た作品って、 本当に少ないんですよ。撮影所で試写がある、その日しか観ることができないんですから。 ----- 川地民夫さんと浅丘ルリ子さんが主役。 清水さんは汚職の罪をきせられる信欣三さんの娘役、赤木さんは弁護士事務所に勤務している若者役で、ちょっと斜に構えた感じでしたね。この作品は、芝居をしている赤木さんは、どんな感じだったか覚えていますか。 清水 とにかく真面目で、一生懸命だったわね。 ものすごく照れ屋さんでね。でも当時は、役者になるために、一生懸命だったと思うんですよ。 ----- 一時期、お住まいがご近所だったとか。 清水 トニーがちょっと出だした頃に、私の住んでいた処のすぐ側に部屋を借りて住んでいたんです。 杉山俊夫さんと一緒に。八百屋さんの二階って、有名でしたよね。 で、私が仕事に行く時に、車で五分くらいの処だったので、いつも拾って、一緒に撮影所に行ってました。 でも帰りは、男性陣は銀座に飲みに行ってましたね(笑)。 ----- 忙しいスケジュールの中で終わった後、飲みに行っていたわけですね。 清水 男性は、ザーッと流れて行くんですよ。 ----- 一緒に男女混合で飲みに行くことはなかったんですか。 清水 そんなにはなかったんですが、ロケーションに行ったときに、撮影の合間にちょっとあったくらいで。 でも当時はまだ若くて、 子供ですからね。学生が集ってワイワイガヤガヤやっている感じで(笑)。 歌を唄ったり。でもトニーはむこう(海外)の歌ばかり唄っていましたからね。声はいいんですけど… フフフッ(笑)。 ----- 赤木さんが立て続けに主演作を撮っている頃は清水さんは和田浩治さんとのコンビが多く、主演作の共演というと『邪魔者は消せ』の一作品のみです。 『邪魔者は消せ』では赤木さんが潜入麻薬捜査官、清水さんが恋人で同僚の役でしたが、この作品の中盤とラスト、一緒にバイクに乗っているシーンがありましたね。 清水 あのシーンは怖かったですよ。トニー、本当に慣れていないらしくって、すごく怖かったのを覚えているんですけど、でもトニーも私も夢中でしたね。「そこでスピード出して!」って言われると、こっちがどんなに怖くても出さなきゃいけないじゃないですか。私としては、トニーよりもうしろから顔を出して走らなきゃいけなかったんで、本当に怖かった。 ----- そうですか。 この頃はヘルメットなしでとばしていましたからね。 赤木さんの初主演作『素っ裸の年令』もオートバイ映画でした。 赤木さんは運動神経はいい方でしたか。 清水 うん、トニーはいいと思います。 ----- 赤木さんの事故の当日のことは覚えていらっしゃいますか。 清水 ええ、よく覚えています。 みんながゴーカートに乗るんで順番に並んで待っていたんです。私は二階にいたんですけど、 突然、 ガターンッてすごい音がしたんで、下に降りていったら、トニーが大変だ!と大騒ぎで。そして救急車が来て、運ばれていって......。 ----- その時、どう思われましたか。 清水 まさか、死ぬとは思ってもみませんでしたから......。 で、一週間くらい、分からなかったわけでしょ………、 そのままですもんね…...。 ----- 葬儀の様子はどんな感じですたか。 清水 私や芦川(いづみ)さんとかね、みんなが泣いていたら、お母様がね、「誰だっていつかはあの世に行くんだから、いつまでも泣いてないで、ね」って。ものすごい気丈で。 ----- 誰だってって言われても、21歳は若過ぎますよね。 清水 何て言うんですかね、ええ〜っていうくらい、お母様は気丈でね……、印象に残っています。 ----- その気丈なお母様に育てられた赤木さんですが、そういう雰囲気は赤木さんにもありましたか。 清水 赤木さんにはお姉様が二人いて下だから、けっこう甘えん坊でしたね。 主人 (小髙 )のアパートによく遊びに来て、なんだかんだ男同士で話していたみたいだけど。私はその中に加わらなかったけどね。 ----- 亡くなられてから五十八年経ちましたが、未だに赤木さんのファンが各方面におられて、イベントがあったりしていますが、 その人気について、どう思われますか。 清水 素晴らしいと思います。 それだけの魅力があったわけでしょ。だから、トニーっていうのは、ジェームス・ディーンのような要素があったんですね。 ----- 最後に、もし、あの事故がなかったら、赤木さんはどのような役者さんになっておられたと思いますか。 清水 もちろんテレビ界にも出たと思うし、裕次郎さんのように、ウケていたんじゃないでしょうか。すごかったしね。 ----- 赤木さんのファンへ、メッセージをお願いします。 清水 とにかく、残念でしたね。あんないい時に、これからっていう時に.....。 でも皆さん、トニーを忘れないで、集まって偲んで下さったりして、すごく嬉しいです。本当に、嬉しいです……。 ポスター集 赤木圭一郎は生きている 単行本 - 2019/7/12tより
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w 2 ай бұрын
早速、まゆみさんの記事読ませていただき有り難うございます。殆ど、まゆみさんのインスタのまとめでチョイスしたモノに描かれていたものと雰囲気が同じで、率直で飾らず話も盛らずに一番信用出来るような感じで、インスタと同様まゆみさんのお話は好きです。この話では直ぐに救急車で運ばれたのでしょうか?それなら、良かったですが?ゴーカートの件ではやはり、みんな並んでいてその中でトニーが来て最初に乗っちゃったんでしょうね???そうすると、江木の話はないような気がするんですが、ここでも江木が嘘ついているか話を盛っているようにしか、私には思えない!かまやつひろしの話も同じニオイがする。何でトニーにかこずけて皆話をもるのかなあー 話が面白くなるから?江木の話に私がこだわるのは、前にコメントでオジサンだと思うが21歳にもなって子供と一緒になんて、なんて非常識なんだというのがあって、私もトニーのファンになったばかりで信じてしまって後悔しているので、トニーのファンには(トニーのファンでないのかもしれないが?)ハッキリしていない事は流布しないで欲しいと説に願いたいと想っています。が、今でも江木の話他にもいっぱいそう言う話があるようで、トニーの汚名になるのが分からないのだろうかと私は不思議です。トニーの親になった様な気がしてトニーを守ってあげたくなっちゃうんですよね。勿論、ファンの勝手な気持ちでトニーの良いことは全部信じます。だから、まゆみさんの話は家庭ぐるみでのお付き合いもあったようなので余計心にしみます。ウソが無いような感じで言葉も飾らずまゆみさんの話は素直に聞けますし好きですね。トニーはやっぱりそのまんまですよね。飾りっ気が無くテレ屋で最初は好きでもなかった俳優も一生懸命にやっているうちに、俳優もまんざらでもないと想えるようになって来た時、あんなウソの様な事故にあったんだと思います。トニーは自分の出来る限りの人生を生き抜いたと思います。そこには、ウソもへったくれもなく真面目さと一生懸命さだけだったと想う。だから、トニーが運動神経が鈍かったと言う人もいるが、一生懸命さの裏返しで鈍臭く見えただけ、真面目にやればやるほど運動神経が鈍く見える時がある。手を抜かずに誤魔化そうとしないから、だから、あんな情熱的な演技ができたのだろうと想う。他の人はちょっと抜いてここらへんがスマートじゃない?と言ういい加減ができた。トニーは、まだ、それができなかった。或いはそれをいつものようにしない人なのかもしれない。あんなにキレイな泳ぎをするのに運動神経が悪かったは無いでしょうと私は常々想っていました。これも、やっかみの一部と想っている。兎に角、安心して信用できる人の言葉が胸に沁みる記事でした。UP有難う御座いました。
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w 2 ай бұрын
何回か読んで気が付いたのですが、まゆみさんのインタビューで58年経ちましたがと、インタビュアーが聞いてますね。5年前の話ですね。(笑)だいぶ皆さんも落ち着いていらっしゃるわけです。やっぱりトニーはまゆみさんが言うようにジェームス・ディーンだったんだなーとつくづく想わずにはいられない。後々、哀愁があって憂いがあって、日本の憂鬱を全部背負っているかのようなやるせない表情、トニーしかできないカタルシスの表情だ。こう言う表情が出来るのはトニーだけだ。もう、トニーみたいな人は現れる事はないだろうと想うと、非常に寂しい泪がナガレル。後は、次の世代が受け継いでくれることを願うしかないのだろう。(トニーの様な俳優がいたことを)
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 2 ай бұрын
ヒントはインタビューの中にありましたね。 もう一度読み返せば私も気付いたと思うのですが、そうすると、この本の出版のためにインタビューしたということになりますね。 調べてみたら旦那さんの小高雄二さんは2016年に亡くなっています。 「錆びた鎖」の兄貴役よかったです。 トニーが「大学の暴れん坊」の撮影中に盲腸炎になり入院して手術を受けました。 そのとき、清水まゆみさんが見舞いに来て、そのときの写真が少し前の偲ぶ会の会報に載っていました。 あのときはもう旦那さんと付き合っていたのでしょうか。 周りには秘密にしていたと言っていましたね。
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w 2 ай бұрын
何か、小高さんに見初められて直ぐ同棲をしたようなので、日活の俳優さんの何人かは知ってたようですが、マスコミ、会社にはバレないようにヒヤヒヤだったと、インスタでおしゃっていましたね。何人か知っていたのはカップルの方達だったんじゃないでしょうか。実際の結婚は遅かったようです。まゆみさんが日活に入って直ぐ、大きい鏡の前でダンスかなにか振り付けかを練習していたら、小高さんのマネジャーから小高が入院しているので、まゆみさんが来てくれたら元気が出るんだけど?来てもらえませんか?と言われてかなり緊張しながらお見舞いに行ったそうです。もう、そこから直ぐ、お付き合いが始まったので、トニーがその後に日活に入っているので、もう、まゆみさんは値札がついている状態なので(笑)トニーとのお付き合いは無理ですね(笑)トニーも直に分かっていたと想うが?だから、トニーの実家にもトニーの部屋にも平気で遊びに行けたのだと想う。まゆみさんと小高さんのシチュエーションてまるで映画みたい。体の弱い小高さんをサポートしながら女優を続けられ最後まで小高さんを看取って、今はほっとしているところではないでしょうか。女性の鏡の様な人です。だから、小高さんと付き合っていなければまゆみさんも、トニーを嫌いではなかったようなので、トニーの候補になり得た人でトニーとも寄り添える人ではなかったのかなあ〜と想ってしまうのです。ジョーさんがトニーを運動オンチみたく言っても、運動神経は良かったと言ってくれるし、白木マリさんがいつもトニーの服の着方靴の履き方に難癖つけても、まゆみさんがトニーのセンスとオーラは凄かったと褒めてくれるのも、ホントのトニーを知っていたからだと想う。別に、ジョーさんもマリさんもトニーが嫌いで言っているのではなくて、トニーが気になって可愛くて今で言うイジリですかねー 兎に角まゆみさんは、初めから体の弱い小高さんと知っていて結婚してよく尽くされた方のようで、小高さんでなくてもトニーだったとしても上手く寄り添ってくれた人ではないかと思ってしまうのです。(勿論、小高さんと付き合っていなくて、トニーが生きていて一緒になっていたらの話です。)
@user-lm2wq6lp3p
@user-lm2wq6lp3p 2 ай бұрын
いいですね!俺も霧笛が俺を呼んでいる歌います!
@showafanclub
@showafanclub 2 ай бұрын
同窓生のお話、とても楽しく興味深く拝見しました。 トニーが同級生の母親と銀座でばったり会った時、千疋屋でフルーツポンチをご馳走したそうですが、あの当時でもずいぶん高級果物店でした。 いま千疋屋でフルーツポンチをいただくと3000円はすると思います😊 トニーのなんとなく晴れやかな気分が想像できます❗ 短い俳優時代、スターだった時間の中でも、こうした温かいふれあいがあったことを思います🤗
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 2 ай бұрын
あのエピソードはいいですね。 それで思い出したのですが、妹ユリさんが何かのトーク番組で、 「赤木さんが有名になって、有名人の妹ということで学校中で大騒ぎになったりしませんでしたか?」 というような質問を受けて、 「私を妹だとは誰も知りませんでした」 と答えていました。 このエピソードも好感持てますね。
@showafanclub
@showafanclub 2 ай бұрын
いわやとし様 返信ありがとうございます。  ユリさんのエピソードも、赤木家の穏やかで、いつも満ち足りている品の良さ、を感じます😊  最近観た「海の情事に賭けろ」に泳ぐシーンがあり、泳ぎ方がとても美しく、筋肉の動きに見とれてしまいました😍 ストーリー的にはイマイチでしたが、トニーの泳ぐシーンを見るだけでも、十分価値ある映画だと思います‼️
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 2 ай бұрын
赤木家の家族は尊敬に値しますね。 家族の一人が有名人になっても浮かれることもはしゃぐこともなく今まで通り。 大谷翔平選手のお母さんが息子が世界的スターになっても今まで通りパートの仕事をしているみたいな・・・。 自然体とでもいうのでしょうか。 「品がある」その言葉がぴったりです。 なかなか出来るものではないです。 「海の情事に賭けろ」はストーリーがイマイチ。同意します。(笑) 「海の情事に賭けろ」より「幌馬車は行く」をDVD化してほしかったです。
@user-ib7dj6eb9d
@user-ib7dj6eb9d 2 ай бұрын
毎日この対談動画を楽しみにしています、これだけ昭和時代のトニーの素の声が聴けるのはこの先ないでしょうね😢とても貴重な動画いつまでも残って欲しいです、トニーいつまでも大好きです……
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 2 ай бұрын
学友インタビュー 片山秀人/吉竹達郎 ----- 赤木さんとの最初の出会いは。 吉竹 鎌倉高校です。 男が少なかったね。 女性が多くて。 高校一年生の頃は背が私と同じくらいで低かったんだけど、卒業する頃はでかくなっていましたね。二年くらいから急に伸びた。 片山 僕も彼も、一年の頃は小さかったから、頼りなかった。 ----- スポーツはされていましたか。 片山 彼は柔道をやっていたね。僕は美術部で、彼は柔道部。あと、水泳が好きだったね。泳ぐのが好きで。水泳部には入っていなかった。 水泳部の練習が終わるのを待って、終わった途端プールに入っていました。 吉竹 印象に残っているのは、彼が江ノ島の荒海で泳いでいたんですが、 きれいな泳ぎ方なんです。 赤塚は、ダイナミックで、ターザンみたい(笑)。ダァーッと豪快に泳ぐんですよ。それが未だに印象に残っていますよ。 ----- なぜ仲良くなったんですか。 片山 近くに座っていたっていうのもあるんだけど、帰り道が同じ方向だったもので。 ----- 最初の出会った頃の印象はどんな感じでしたか。 吉竹 今から思えばですが、やっぱバタ臭い印象だね。ガタイもよくなってね。髪の毛がちょっと縮れっ毛だったしね。 片山 写真を撮られる時に、だんだんポーズもつけるようになってきたね(笑)。 ----- 撮影所ではあまりしゃべらない人だったとお聞きしたこともありますが。 吉竹 まぁ、そんなにしゃべるほうじゃないね。照れくさいっていうか、あまり我々みたいにペラペラ話すほうじゃないね。 片山 割合、静かなほうだったね。 それが二年生の終わりくらいから、マセたことを言い出すようになってきたね。 吉竹 だけど、我々みたいに、 あの女の子がかわいいだとか、そういう話はしないけどね。 片山 照れ屋だったからね。 女子からはマークされて、モーションかけられていたけど。 吉竹 彼からどうこうってことはなかったね。 ----- では、高校時代に誰かと付き合っていたとかはなかったんですか。 片山 自称彼女はいましたね(笑)。 ----- 相手の女の子が勝手に。 吉竹 まぁ、彼がどの辺まで彼女のことを思っていたかは、話をしなかったから、わかりませんね(笑)。 片山 女の子からよく逃げていたね。 特に修学旅行では、女の子もえらく開放的なこともあって、かなり迫っていった子もいたらしいけど(笑)、逃げ回っていたね。 吉竹 だから僕はそういうのを見てるから、彼がものすごく照れ屋っていう印象があるね。 ----- 喧嘩とか、そういうことはありましたか。 片山 彼は喧嘩はしなかったね。穏やかでした ----- でも、人気が出るだろうと思いましたか。 片山 最初は思わなかったね(笑)。 吉竹 思いませんよ(笑)。役者になったの? って思ってたら、すぐに亡くなったからね。 片山 あんなに作品数を残しているとは思いませんでしたよ。 ----- 役者になられてからは、お会いになったことはありますか。 吉竹 ないね。 片山 ないね。 ----- かなりお忙しかったみたいですしね。 吉竹 クラス会とかあっても、 来ないしね。 片山 でも、卒業してから一年目にあったクラス会では、彼は顔を出したみたいだよ。僕は浪人していたから、顔を出さなかったけど。 吉竹 あと、うちの母が銀座で赤木とばったり出会ったことがあったんだよ。 「ぼくも映画に出てようやくごちそうできるようになりました」って、主演作を二、三本出た頃だったかな。 銀座の千疋屋でフルーツポンチを母に馳走してくれたって。そのことが週刊誌に、ちょっと事実と違うニュアンスではあるけど、記事として載ったことがあります。 ----- 役者さんのなかで、年令を重ねるごとによくなっていく人がいますが、 赤木さんの成長を見たかったですね。 吉竹 四十代、 五十代って、渋さも出てきてね。 片山 役者はそれでなきゃ、持たないですからね。 吉竹 映画からテレビの方へ時代が移って行った時、僕は、その時点で彼は外国にひょっとしたら行ってたんじゃないかなぁと想像しましたね。 -----外国映画界への進出ですか。 吉竹 いや、移住するほうね。偲ぶ会の中での話でも、その話題があがっていましたね。 ----- ご本人も「週刊明星」 (一九六〇年九月二十五日号)の「はじめての情事に賭ける"赤木圭一郎に50の質問」で、俳優以外の職業につくとしたらの質問を受けて「コセコセした日本にいるよりどこか外国へ行きたいな。南米大陸でもいいし・・・・・・ デッカイ牧場の持主にでもなったら気分いいぜ」と答えています。 亡くなられたことは、どのようにしてお聞きになったんですか。 片山 撮影所で怪我をしたことは、ラジオで聞きました。 その後の現状を刻々とラジオが流していたので、聞いていました。 ----- デビューしてからお亡くなりになるまでに三年間くらいありますが、手紙のやり取りはありましたか。 吉竹 ないね。 片山 役者になったら、彼はそれどころじゃないだろうしね。 ----- 赤木さんの映画を見て、これは面白かったというのはありますか。 片山 そうですね、『霧笛が俺を呼んでいる』あたりから、かなり演技に慣れて、うまくなってきているなぁと思いましたね。 最初の頃の作品は、クラスで見ていた顔とあまり変わらないなぁと思っていたので。 ----- 本来は、役者をやるようなタイプではないと思っていましたか。 片山 本人は、キューバ革命にすごく関心を持っていましたね。チェ・ゲバラのことを話していましたよ。私なんかは当時はボーッとしていましたが、さすがに彼は兄さんがいるから違うなぁと思っていました。 ----- 「50の質問」(前出)の、安保反対デモの時は......? という質問に、赤木さんは「樺美智子さんの死に対する“抗議集会〟の時にネ、パレスハイツへ西村晃さん(日活俳優)といっしょに行きました。いや暴れたんじゃないぜ、あの日のデモは整然としていた」と答えていますね。 ----- 最後に、もし、赤塚さんが生きていたとしら今、どう声をかけられますか。 吉竹 難しいよね。想像もつかない。ひょっとしたら日本にはいなくなってしまってたかもしれないし。 片山 さっきのチェ・ゲバラじゃないけど、ああいう、少し思考もあったかもしれないしね。 吉竹 もう、亡くなってからだいぶ時が経っていますから、同窓会でも、偲ぶ会のように毎回、話題には出なくなってしまったけど、未だに何かあればすぐに必ず話に出てきますね。 片山 たまたま、偶然同じクラスだったってことだけど......。いい思い出です。 (インタビュアー 杉山蔵人) ポスター集 赤木圭一郎は生きている より
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w 2 ай бұрын
このUP記事、今日初めて見ました。有難う御座いました。このお友達のお話はいつ頃のインタビュー記事なのでしょうか?私の想った通りのトニーなので安心し、又、笑っちゃいました。私もゆりさんのインタビュー記事でトニーの妹だとは言わなかったから、誰もトニーの妹だとは知りませんと言うのはトニーのサイトで読みました。インタビューした人がビックリしてたかなあーそして、確かに修学旅行での写真、やけに横向きでトニーがいっぱい写真撮られているから、トニーが知らないうちに撮られているなあーとも感じた。余程もてていたんだなあーと思った。映画のように積極的な女の子には追われるし、モーションはかけられるし大変だったんだなあーとお察しします。ここまで追っかけられる男の子見た事ないから、トニーが窓から入って女の子に会いに行くとは余計思えないわーそんな事有るわけ無いから。話は変わるんですが、トニーの兄妹6人から8人にゆりさんがイベントの時のインタビューで、サラーと訂正されていたんですが、何かそこら辺の情報詳しくご存知ないですか?そこら辺わかりましたら教えてくださ〜い。忙しい所スイマセン。私も久し振りに此処へ来て この記事読みました。別の事で忙しかったのであしからずです。
@user-pg3ob3ym8w
@user-pg3ob3ym8w 2 ай бұрын
追伸、トニーってどうして男からも女からもでっち上げのウソの自称彼女や自称恋人にされるのだろう??? 可哀想で笑えなくなる!!! 人が良いのかねー? 怒ることを知らないのかなーお坊ちゃんは?あと、又、話は変わるんですがトニーのボッチフィギュアないかなあ〜(キアヌ・リーブスのボッチフィギュアのような物、キアヌ・リーブスのは凄く、売れたらしい)私、トニーのボッチフィギュアあったら買いたい。無ければチェ・ゲバラの様なTシャツ(トニーのTシャツ)とても欲しいのですが、無いでしょうか? こんなの有るわけ無いか〜
@user-cj2ue9jb6l
@user-cj2ue9jb6l 2 ай бұрын
この記事が載っている書籍「ポスター集 赤木圭一郎は生きている」は2019年発売です。 ただインタビューには日付がないので、2019年にインタビューしたのかどうかはわかりません。 前に掲載した野呂圭介さんのインタビューと同じ書籍です。(他に清水まゆみさん) 5年前にインタビューしたようにも感じますが、ずっと昔のインタビューかもしれません。 ただどの記事も初めて見る記事ですので5年前の可能性はあります。 清水まゆみさんのインタビューも掲載しますね。